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シリーズさいたま市の風景

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#5 荒川の東方(後) 〜混沌のなかの地域の行方〜

 下大久保から五関、在家にかけての地域は、今でこそサイクリングロードが整備されている堤防上から見れば一段低い土地のように思われますが、集落は周囲よりも幾分標高の高い、荒川に沿って南北に連なる自然堤防の上に作られているようですね。すぐ東側には鴨川の水路もあり、古くから水害に悩まれたであろう地勢に思いをいたしました(また、現在の荒川の西の湯木町、飯田新田、塚本町辺りに、さいたま市が一部はみ出していますが、その西側の川越、富士見両市の境にある川の流路跡も、荒川がその名の通りの荒れる川であった−それは現在も時として同じなのでしょうが−を髣髴とさせます)。

埼大通りのケヤキ並木
埼大通りのケヤキ並木(2002.11.16撮影)

旧大宮市域に入ると、県道は島根交差点のT字路にぶつかって、北西に向きを変えます。この付近からは、微高地に連なる集落の様子と荒川土手まで広がる低地に展開する水田の様子が眺められます。一方、東に目をやれば、畑や水田に点在する新旧の住宅地・大小の工場の景観の彼方、さいたま新都心と大宮ソニックシティの高層ビルが悠然と屹立する姿もまた望むことができるようになります。島根(この「島根」ですが、微高地を「島」と見做し、その付け根のような地勢であることからの命名であるように感じました)から三条町に向かうにつれて、かつての浦和市域内で見られた、比較的落ち着いた集落景観が、次第に雑然とした風景を呈するようになります。片側一車線で歩道スペースもそれほど無い県道の両側に、工場やガソリンスタンド、パチンコ店などが林立し、その狭い県道を大型車両を含むあまたの車両がひっきりなしに通過する環境は、旧市境を超えてあまりに突然の変化だったように感じられました。このあたり、大宮、浦和両市の都市計画の差異が多分に影響しているのではないかとも考えられました(この点については、稿を改めて検証する予定です)。それを象徴していたのが、三条町地内に立地する某製薬メーカーの工場と県道との間のわずかなスペースに住宅が2件建てられ、しかも工場のすぐ西に隣接して学校が建てられているという、冷静に考えるとあまり一般的ではない施設配置の光景でした。

さいたま市五関
屋敷林と旧家(さいたま市五関)
2002.11.16撮影

その一方で、三条町の県道端に昔懐かしい(地方ではよく見かけますが)野菜無人販売所があり、新鮮そうなほうれん草などが並べられていました(思わず2束買ってしまいました。1束なんと100円!小松菜はなんと1束50円!)。また、付近の畑には、かき菜、小松菜、大根、ほうれん草、長ねぎ、アスパラガス、ブロッコリー、サニーレタス、レタス、春菊、チンゲン菜、茗荷、みぶ菜、キャベツの蔬菜に加え、色とりどりの菊に、夏みかん、梅、柿まで植えられていました。また、別の畑ではこの他に里芋、蕗、人参も植えられていました。いずれも小規模なため自家消費が中心と思われれますが、この地域の、首都圏近郊の野菜の供給地としての性格の一端を見た気がいたしました。

三条町の交差点を北東に折れて、大宮光陵高校の横を過ぎ、水判土(みずはた、見沼探訪で紹介した風渡野:ふっとの、前項で紹介した新開:しびらきなど、さいたま市は難読地名の意外な宝庫ですね)交差点に達し、名刹慈眼寺の見事な結構を一瞥し、指扇方向に再び県道さいたま鴻巣線を北西に進みました。この辺りも、農村地域を基盤とした地域に都市化が無差別に洗ったとおぼしき、雑然とした地域景観が続きました(時には、欅の木が植えられ落ち着いた雰囲気のお社なども点在していましたが)。

その中で、異彩を放つ住宅団地が「さいたま市プラザ」ですね。名前だけ聞くと何かのコンサートホールと錯覚してしまいそうですが、住居表示された正真正銘の正式地名なのです。夕闇が迫る中、プラザ内を歩きましたが、黄葉した銀杏並木の美しい、閑静な住宅地の佇まいでした。また、中心部には小規模なスーパーマーケットを核に八百屋や精肉店などの生鮮食品点や書店、美容院など一応の店舗が揃っており、近隣から人を集める商店街の機能をも同時に果たしているようでした(大都市圏ではこういう団地は珍しくないことでしょうね)。一部の住宅の表札には大宮市大字飯田○○番地 大宮プラーザ○○−○○と記載されていたので、当初は団地の名称に過ぎなかった「プラザ」が、住居表示により正式地名に昇格した経緯を知ることができました。

プラザを後にし、県道2号線を西に進み、JR指扇駅を目指しました。この「指扇」という地名は、低地に張り出した台地の地形が扇形をなすからとも言われますが、日向を示す「サシ」に、湿った低地を指す「オギ」が合わさった「サシオギ」、低地に向かって開けた高燥の土地というところからきているとするのが通説のようです。プラザから県道に出るまでの道も、かなりの急坂で、指扇台地に上っていることを実感させました。このあたりは、台地、低地関係なく細い街路を介して住宅が密集していて、防災上問題は無いのか、心配になるような土地柄でした。大宮の中心部と川越市方面を結ぶルートとして、夕刻という時間帯も手伝ってか、この県道もかなり渋滞していました。「新屋敷」というバス停があり、この辺りの開発は比較的新しい(おそらく江戸期の新田開発に伴うものであったのでしょう)ものであったことを推測しつつ、郊外店舗と都市近郊の住宅地と、かつての農村地域を思わせる宅地景観とが交錯する県道を西に進みました。

新鮮な野菜が並んでいます
無人野菜販売所(さいたま市三条町)
2002.11.16撮影

JR指扇駅は、周囲にややまとまった商店街を擁し、ロータリーも一応敷設された、都市地域にあるありふれたターミナルでした。ちょうど上下の列車が同時に到着しており、どっと改札を出る人の波に、乗り遅れまいと逆に構内に急ぐ人の波が甚だしく入り混じり、この地域の雑然とした都市化の態様をどこか物語っているようにも感じられました。

JR川越線より北側は今回見ることができませんでしたが、私の歩いた川越線以南の「西区」予定区域は、「混沌」あるいは「雑多」という言葉で象徴されるような、いまいち捉えどころのない地域であるように思われましたね。ただし、荒川の東方のゆたかな低地と台地の交錯する自然景観が随所に見られたのもまた事実でした。この地域がこれからも無秩序な都市化を許容するのか、あるいは地域の特性を生かしたまちづくりの方向性を見出すのか(もちろんこの地域でそういったまちづくりにご尽力されている方は多いとは思いますが)、今後の動向が注目されるエリアではないのか。うまくまとめきれませんでしたが、今回の探索の感想をまとめるとすれば、こういったところになるのではないかと思います。

                                  

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