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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#94 赤羽周辺を歩く 〜東京北部のターミナルの近傍〜 (北区) 2021年4月14日、訪れたJR赤羽駅は春のやや強い雨の降る陽気の元にありました。赤羽駅はJR東北線(宇都宮線)の停車駅のみならず、京浜東北線と埼京線の接続駅となっていて、北側に位置する東京メトロ赤羽岩淵駅とともに、東京都区部の北側における一大ターミナルとなっています。主に繁華街となっている鉄路の東側は以前から訪れていたこともあり、今回の訪問ではまず最初に駅の西側のエリアを概観してみることにしました。
赤羽駅の西側はパルロード赤羽と呼ばれる一連の再開発事業により、商業施設や住宅・業務エリアを含む再開発ビルが建設されました。その再開発エリアを南北に縦貫する都道を渡りますと、周囲は昔ながらの住宅街となります。武蔵野台地東縁の崖上につながる石段の先には、静勝寺の境内地がありました。同寺の境内は稲付城と呼ばれる戦国期の砦跡にあたります。江戸城を築いた太田道灌の手になるものです。城主も変遷し、江戸時代に入るとは以上となったもののこの土地は太田家との関わりは続き、道灌の子孫によって静勝寺が建立、菩提寺とするとともに、道灌の木像を安置するお堂などを建造するなどしてきました。 現在、台地上のこの一帯は台地を刻む谷地も含めて主に住宅地となっていて、細い道路や一部階段になっている道路も存在するなど、かつては畑地の広がる農村的景観が卓越していた時代の名残を認めることができます。一大ターミナル駅の至近でありながら、台地と低地が交錯する地形条件も相まって、現在のような住宅地が無秩序に展開する土地利用となったのでしょう。そうした住宅地の中でも、坂の名前にもなっている鳳生寺や法眞寺、このあたりの地名であった旧稲付村の鎮守であった香取神社などが鎮座して、かろうじて往時を偲ばせていました。
さらに台地上の住宅地の中を進み、崖下に整えられた清水坂公園の緑豊かな佇まいを一瞥しながら南へと歩を進めます。環七通りを渡ると十条富士見銀座商店街となり、さらに進みますと、十条銀座のアーケードへと導かれました。戸越銀座・砂町銀座とともに東京三大銀座のひとつにも数えられる十条銀座は、アーケードの下におよそ200件もの商店で構成される、このエリアでの屈指の規模を誇ります。個人商店が多い印象で、活気のある近隣の商店街と行った佇まいでした。駅北側の路地を東へ、十条中央商店街となる町並みを歩きます。都内でも2館となったといわれる大衆演劇小劇場の篠原演芸場が立地しています。武蔵野台地崖下の狭い一帯を通過する東北線・京浜東北線の鉄路を越える高架橋は、橋の部材が錆びていて、町として歩んだ時間の厚みを感じさせました。JR東十条駅前は、駅前を中心に飲食店が点在する住宅街と行った印象でした。 京浜東北線を利用し赤羽駅へと戻り、北区のみならず東京の北側でも有数の盛り場として栄える東側のエリアへと歩を進めました。駅から東へ進むと、アーケード街であるスズラン通り商店街(LaLaガーデン)が明るいファサードを見せて、多くの買い物客を集めています。駅の北側には、呑兵衛の町としても近年注目される赤羽一番街商店街も独特の表情を見せています。駅前の喧噪の中を北東へ、新荒川大橋方面へ歩きます。赤羽交差点を越えた先に、「岩槻街道岩渕宿問屋場址之碑」と刻まれた石碑がありました。岩槻街道とは、日光御成道のことで、このあたりはその宿駅である岩淵宿の町場でした。赤羽駅周辺が急速に成長し、小村に過ぎなかった赤羽の地名が伸長する中で、歴史的な町場の名前である岩淵の名を残そうと地域住民が運動を展開、当初はすべて「赤羽」を冠する地名で統一される計画であったものが、一部「岩淵町」として残されることとなったという経緯があります。住宅地の中に鎮座する八雲神社境内には、その史実を今に伝える「岩淵町 地名存続之の碑」があります。
赤羽・岩淵の町は、町の北から東を流れる荒川、新河岸川、隅田川によって画されます。隅田川はもともと荒川の下流にあたります。1910(明治43)年の水害を機に荒川放水路が掘削された後は、その放水路が「荒川」と呼ばれ、岩淵水門から下流の東京湾までの区間が「隅田川」と呼ばれるようになりました。その現在の岩淵水門の上流には、旧岩淵水門の遺構が残ります。1916(大正5)年から8年をかけて建設された旧水門は現在はその役割を終えて、「赤水門」と呼ばれ親しまれた往時の姿を止めています。赤羽の隣町の志茂へと歩き、地下鉄南北線の志茂駅でこの日の活動を終えました。この志茂という地名も、元来は「下村」という表記であったものが、1932(昭和7)年に当時の東京市への編入にあたり、好字に改めたものであるようです。東京北部の町並みは、街道筋の町場から、鉄道駅を中心とした都市化の影響もあって、現在の駅を中心とした商業地とそれを囲む住宅地域という姿へと再編成されてきたのでした。 |
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