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関東の諸都市・地域を歩く
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#88 初夏の見沼田んぼを訪ねる 〜田植えの季節、きらめく風景〜 2014年6月1日、新座駅から平林寺周辺の雑木林の新緑を歩き朝霞駅まで移動してた私は、JR武蔵野線を介して東浦和駅まで移動し見沼田んぼを再訪しました。東浦和駅前から北へ、新しい集合住宅や戸建ての住宅が、昔ながらの畑と古い住宅の間に点在するエリアを進みますと、新しい道路の横に大間木氷川神社の鳥居が目に入りました。穏やかな社叢に包まれた社殿は、1667(寛文7)年に武蔵国一宮氷川神社が建て替えにあたり、旧社殿を買い受けて建立されたものと伝わります。境内には赤山街道の説明表示も設置されていました。江戸時代にこの地域の土木開発に功績のあった伊奈氏が拠点としていた赤山(川口市)との往来のために設けた道筋であるとのことです。
見沼の低地を見渡す小高い場所に鎮座する大牧氷川女体神社も、周囲が新興住宅地として様変わりする中にあっても、その小さな社殿を覆屋の中に見せていました。国道463号を横断し、台地の縁をなぞるように開削された見沼代用水西縁に沿って歩きます。用水に沿ってソメイヨシノの並木が続き、穏やかな木陰をつくっています。東側の柴川に沿った細長い低地帯−見沼田んぼと呼ばれる−は、この付近ではほぼ水田としての利用は見られず、畑地や園芸用の花木が植えられる土地として供されているようでした。用水の西側の台地上は住宅地としての開発が進んでいるエリアとなっています。 新見沼大橋有料道路の高架をくぐり、タチアオイが夏空に向かって鮮やかな花の色を透かせている用水沿いの道をさらに進みますと、これまでも何度か訪れてきた氷川女体神社へ到達しました。大宮にある氷川神社とともに武蔵一宮を称するこの神社には、見沼に突き出すように設けられた「磐船祭祭祀遺跡」と呼ばれる遺構が存在しています。見沼田んぼはその名が示すとおり、藩政期における新田開発で干拓されるまでは広大な面積を持つ沼であり、同社では見沼を「御沼」として神聖視して祭祀を行っていました。干拓後は祭祀を行うことができなくなったため、この祭祀の場が設けられました。現在は祭祀は行われていませんが、その場は遺跡として良港に保存されています。台地上に鎮座する社殿を包む社叢もクスやシラカシなどの豊かな木々で構成されていまして、神社の歴史的資産と一体的に保護されています。
見沼代用水西縁にそってなおも歩いて、宮本一丁目と二丁目の境界となっているバス通りを東へ針路を取って、いよいよ見沼田んぼを横断していきます。見沼田んぼの中心を流れる芝川を越えて歩を進めます。芝川は見沼の干拓後は大地の両側に通水された見沼代用水から水田に供給された水の排水路として機能しています。メタセコイアの並木があるあたりからは、道路沿いには水田が認められるようになり、藩政期以降新田開発が進められて一大穀倉地帯となってきた地域の歴史を伝える風景が見られるようになります。台地の東側にも見沼代用水東縁の流路が沿っていまして、それらの水田に豊富な水を供給していました。台地上が宅地化されていた同用水西縁とは対照的に、東縁の周辺はのびやかな農村的景観が 残されていまして、見沼田んぼの藩政期以降の姿をより濃厚に残しています。屋敷林や雑木林の緑も豊かに広がっていまして、用水沿いの「緑のヘルシーロード」を辿りながら、そうした緑と水辺の空間に浸ることができます。 台地の上の畑地の風景や、江戸期の名主住宅の長屋門を今に残す深井家長屋門などの事物を確認して、台地と低地との間に展開する田園の情景の中を進んでいきます。見沼代用水東縁が豊かな水を流下させ、西側の見沼田んぼには水が張られて植えられたばかりの稲の苗がしなやかな列をつくり、その向こうには大地の斜面林がみずみずしい緑のスカイラインを構成する、美しい田園の景観が展開していきます。見沼田んぼ周辺では減反政策による水田の転用や、周辺地域における開発などによってそうした農村的な風景の多くが失われているという現状もあります。そのような趨勢の中、見沼田んぼにおける水田と斜面林とがのびやかに交わる環境を保持する取り組みもなされていると聞きます。夏の日差しを受けて輝くような水田と、その向こうに鮮やかな緑色をたなびかせる森のすがたに癒されながら、潤沢に水を流し続ける見沼代用水東縁のそばを歩きました。
前項でも触れたように、5月末から真夏日を記録し始めた陽気も手伝って、この日は猛暑日一歩手前の最高気温を記録する暑さとなっていまして、体力をかなり消耗していたこともあり、用水路の東、台地上に並行する県道105号に出てタクシーを拾い、東武七里駅まで進んでこの日の活動を終えました。この道筋は旧日光御成街道にあたり、膝子地区には一里塚が現存し、要路上にあった地域の歴史を物語っていました。 |
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