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関東の諸都市・地域を歩く
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#126 下野国分寺跡周辺を歩く ~天平の丘、ヤエザクラの豊潤~ 2017年4月23日、快晴のJR宇都宮線・小金井駅を訪れました。駅前の町並みは、旧日光街道(奥州街道)の宿場町である小金井宿のそれを基盤としています。現在の町並みは旧街道筋をほぼ踏襲する国道4号の道筋を含めて整然とした印象で、古い建物が密集するような宿場町然とした風景というよりは、関東大都市圏郊外における鉄道駅周辺の静かな住宅地域といった表現が適当であるように感じられます。日本酸素の工場跡地に整備されたことからその名のついた日酸公園には、列車が事故で動けなくなった際に道具を載せて急行する、救援車両が静態保存されていました。
小金井駅周辺を含む旧国分寺町は、2006(平成18)年に南河内町と石橋町と合併し、下野市(しもつけし)となりました。下野とは、旧令制国の名前で、現在の栃木県の範囲に相当する範域を占めていました。旧町名の国分寺が示すとおり、市内には下野国分寺跡が残ります。そうした地域性から現市名が選択されたものと想像されます。下野国分寺跡付近には、前方後円墳を象った小丘を中心とした歴史公園である「天平の丘公園」が整備されています。小金井の町並みを抜け、その市街地を南北に縦貫する用水路沿いの遊歩道を進み、その天平の丘公園を目指します。住宅地はやがて畑地が混じるようになり、姿川沿いの低地が近づくにつれて、雑木林と集落と畑とが穏やかに点在する景観へと移り変わっていきます。畑には菜の花が咲き、林の木々は新鮮な若葉がいっせいに生えそろって、輝かしい陽光の気持ちよさも相まって、どこまでも清々しい初夏の景色が展開していきます。水田には青々と麦が育って、遙か日光連山方面(雲が多く山並みは見通せませんでしたが)へと続く視界を、一面のきらびやかなエメラルドグリーンに染め上げていました。 姿川に架かる御使者橋は、藩政期に幕府や壬生藩の使者が往来したことからその名があります。橋のたもとには「姿亭」と名付けられた四阿が在り、河畔林のみずみずしさとともに、しなやかな水辺景観を醸成していました。川を渡り、水が引き入れられる前の広々とした水田の中を歩いて行きますと、やがて道路沿いにヤエザクラの並木が整えられるようになって、満開のヤエザクラが園内を埋める天平の丘公園へと到達しました。「史跡 下野国分尼寺跡」の石碑が佇む跡地は、金堂と講堂からなる国分尼寺跡の基壇が再現されていまして、往時の尼寺の規模を類推することができました。公園の西隣は「花ひろば」と呼ばれるエリアで、公園内には、やわらかな花弁が可憐な色合いを透かせるヤエザクラがふんだんに植栽されていました。若葉と桜色とが絶妙のコラボレーションを見せる公園内をそぞろ歩きながら、下野国分寺跡へ。発掘調査により、国分寺は金堂や七重塔などからなる伽藍が造営されていたことが判明しています。南大門から進み、中門をくぐり、金堂が正面に鎮座、金堂と中門をつなぐように回廊が張り巡らされた境内の広がりがその基壇を再現することにより展示されています。現地に設置されたイメージ図には、その境内地をさらに周回する築地塀が一周していたことも示されていました。その壮大な堂宇は、それが衰微した後も地域の歴史の中に息づき、地名として現代に受け継がれました。
下野国分寺跡を見学した後は、再び天平の丘公園内へ戻り、ヤエザクラと新緑とが美しい共演を見せる林の中を散策しました。公園内にはオトカ塚古墳や紫式部の墓と伝えられる五輪塔(鎌倉時代にこの地方の豪族が供養塔として建てたものと言われる)などの、古代より続くこの地域の文化を感じさせる事物も存在していまして、この一帯が、はるか昔より地域の中心的な位置を占めてきたことを窺わせました。地区の地名が「紫」となっていることも、こうした文化財との関連を今に伝えています。若々しい木々の緑が本当に鮮やかに目に映りまして、その葉越しに降りてくる新鮮な木漏れ日は、これから訪れる夏へ向かう生命の序章のようなみずみずしさを存分に含んでいました。 天平の岡公園から小金井駅までの帰路は、姿川の土手をまずは上流へ辿るルートを取りました。小高い堤防の上は、いっぱいの草花で覆われていまして、場所によっては菜の花の大群落の中を進む形になりました。東側にはいっぱいに水田が広がっていまして、二毛作として一般的に作付けされる麦が栽培されていたり、田植えに備えて水が徐々に引水されようとしたりしているようすを観察することができました。その水田の背後の台地上には畑地や集落、それらを包む雑木林が織りなす風景が続き、その家並みや林のスカイラインの向こうには、筑波山の双耳峰の山陰をかすかに望むことができました。堤防の草の中にかわいらしいピンクの花を咲かせるゲンゲの花が、日本の晩春を彩る昔懐かしい情景を一際印象づけました。
県道44号を東へ辿り、国分寺運動公園の東を進む市道を経て、国分寺小学校の北から慈眼寺・金井神社のある一角へと進んだ後に国道4号へと出て、旧小金井宿の町並みへと戻りました。このあたりにはわずかに町屋造の建物もあって、宿場町としての昔日の姿を想起させていました。さらに小金井駅方面へ歩きますと、西側に小金井一里塚の2つの塚があるのが目に留まりました。国指定史跡である塚と塚の間が、かつての旧街道が通っていた名残であることが、現地の案内板により説明されていました。小金井駅から下野国分寺跡周辺をめぐる今回のフィールドワークは、古代から中世、そして近世から現代まで、この地域のマイルストーンとなる事物が穏やかに存在する地域の美しさを濃厚に感じさせるものとなりました。晩春の若葉とヤエザクラの色彩が、そうした濃厚な地域性をより鮮やかなものにしていました。 |
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