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関東の諸都市・地域を歩く
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#125 千葉ニュータウンから木下へ ~印西市、台地上から低地へ~ 2017年3月11日、新鎌ヶ谷駅周辺を訪問した私は、北総線で東へ移動し、印西市の千葉ニュータウン中央駅へとやってきました。千葉ニュータウンは、首都圏では多摩ニュータウンなどと並ぶ大規模な住宅団地です。その範囲は白井市から船橋市、印西市にまたがり、1,930ヘクタールほどの範域に、およそ10万人の人々が暮らしています。駅周辺の広大な都市景観の中、印西市のフィールドワークをスタートさせました。
印西市は「印旛郡の西」の意で、千葉ニュータウン開発による人口増などを経て、1996(平成4)年に単独で市制を施行しています。その後は周辺の2村を編入、現在に至っています。印西市の地理的な特徴は、市域が台地の上と下にまたがっていることが挙げられます。市の南部、千葉ニュータウンとして開発が進むエリアは下総台地(北総台地)と呼ばれる広大で平坦な洪積台地上に広がります。元来水が得にくく半ば原野となっていたこの地域は、舟運の要衝として伝統的な町場として存立していた低地(木下地区)とは好対照をなしていました。千葉ニュータウンが完成した現在は、市の人口のおよそ6割がニュータウンを中心とした台地上に暮らしていまして、その多くが東京都心部へ通勤する生活を送っています。千葉ニュータウン中央駅からの散策に話を戻します。ニュータウン周辺の北総線は、併走する国道464号とともに開削された半地下を進んでいまして、駅舎から出ますと、鉄路や道路を跨ぐ道幅の広い歩道にアクセスし、段差無く市街地へと進むことができます。広大な敷地にイオンモール千葉ニュータウンの巨大な商業施設が偉容を示し、複数の高層マンションが多く立地していて、都心における稠密な環境とは異なる、豊富なオープンスペースを擁する、まさに現代的な都市景観がそこには広がっていました。 中小の公団住宅や、高層マンション、戸建て住宅など、多様な住宅ストックが効率よく配された町並みを歩きます。道路も広幅員の規格で整備されており、多くの自動車交通をさばいています。また、歩道も幅広く確保されていまして、快適に歩行することができます。ニュータウンエリアの北側を画する県道189号を越えてさらに北へ進んでいきますと、前方の斜面林に向かって続く畑地がだんだんと土地利用としては顕著になっていきます。市道沿いに祀られていた小さなお社(地図上では「鳥見神社」)も、シイやカシなどの暖地林に囲まれて、自然とともに日々を送っていた人々の息づかいのようなものを感じさせました。松山下公園方向へ、急な坂を下って低地へと躍り出ますと、浦部川が台地を削った谷地が美しい風景を作り出していて、下総台地の典型的な景観に触れられました。河道は直線的に改良されており、整然と区画された水田が低地一帯を覆っていました。松下山公園の南を通り、浦部地区台地上に鎮座する大六天神社へ。豊かな森に包まれた境内からは、北側の手賀沼から彼方にぼんやりと霞む筑波山のシルエットまでを美しく眺望することができました。付近には日本三井の一つと伝えられた「月影の井」も残されています。
台地と谷地とが交互に並ぶ豊かな自然に寄り添うような集落景観を辿りながら、低地へと降りて、広大な田園地帯となっている県道59号沿いをさらに利根川方向へと歩を進めました。手賀川に注ぐ亀成川を渡り、県道沿いの集落と水田とが交錯する地域を進みます。県道は南に東西に細長く連なる小規模な台地に沿って形成されており、発作地区から北側の我孫子市布佐地区へと続く市道沿いに連なる集落は自然堤防の微高地を指向しているように思われました。集落内には水田を目の前にして立つ小さな社や、質実な結構が印象的な長屋門なども残されていまして、藩政期以来紡がれてきた地域の歴史を感じさせました。県道を通過するコミュニティバスを利用し、JR木下駅前へと進みました。 木下は江戸時代より利根川舟運の河口として存立してきた町場です。新行徳へと続く木下街道の起点として陸上交通の要としても栄えて、利根川を遡上する鮮魚を運ぶ船便や、下流の銚子への遊覧や香取神宮などへの参詣を目的とした庶民などが多く行き交いました。木下は伝統的に印西地域の中心として興隆し、現在でも市役所などの印西市の主要な行政機関は木下地域に立地しています。
駅前のロータリーを出て、町のメインストリートをまずは西へ歩きます。古い建物も含む穏やかな町並みが続く市街地に、国登録有形文化財の岩井家住宅主屋(旧武藏屋店舗)の建物が佇みます。明治末から大正期にかけて行われた利根川の堤防工事によってこの場所に移築されたものです。木下駅の周辺は「木下・六軒地区」と呼ばれ、東側の市街地が木下、西側の手賀川の中洲のような形になっているエリアに存立した六軒地区とが一体となった市街地です。明治期の地勢図を確認しますと、これらの2つの市街地は現在のようにつながっていなくて、JR木下駅のある地域は一面の畑地でした。鉄路が開通し駅が開設され新たな中心となったことに伴って市街地が連担し、今に至っているのではないかと想像されました。 手賀川を渡り、中央公民館の建物や水門を一瞥しながら川沿いを歩きます。陽が傾く時間、穏やかな川の流れは春の日射しを軽やかに纏って、川港らしい風情を漂わせていました。六軒地区の鎮守である六軒厳島神社と水神社は川の流れにより沿うように鎮座していました。利根川の堤防上に進み、雲一つ無い春空がどこまでも続く河川敷の先にたなびく雄大な川の流れを眺めながら快く歩きました。
堤防上に「木下河岸跡」の表示板を見つけました。木下が水上と陸上交通の結節点として藩政期以降発展してきた歴史については先に触れました。現在は長大な堤防によって隔てられているので往時の姿を想像することは難しいですが、表示板に描かれていた当時の絵図に、かつての喧噪に思いをいたしました。JR木下駅への帰路は、木下の旧市街地を辿りました。店舗と住宅とが混じる町並みは、地方都市の趨勢を如実に感じさせました。千葉ニュータウンの整然とした都市景観から台地下の伝統的な市街地へと進んだ印西市の道程は、近世から現在へ切れ目無く続いたこの地域の年譜を断面的に俯瞰したものであるように感じられました。 |
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