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シリーズ・クローズアップ仙台

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#53 勾当台公園から本町二丁目界隈へ 〜段丘と地域の変遷をたどる〜
 

 仙台を初めて訪れた方の中には、まるで渓谷のような緑と河谷をつくりながら市街地を流れる広瀬川の景観に驚かれる方が多いようです。現代の日本の大都市を流れる大河の多くは、広大な河川敷をもってゆったりと流れていることが多いですから、人口100万人を超える都市の市街地を流れる川としては、かなり特異な景観を形成しているといえるのかもしれません。仙台市街地はそんな広瀬川が形成した河岸段丘上に開けた町です。そのため、市街地には数段の段丘崖が走っておりまして、所々に坂道や段差が認められます。

 県庁・市役所の南にある「勾当台公園」は、北西から南東に向かって段差のある部分があり、これが段丘の境目に形づくられた崖(段丘崖、「だんきゅうがい」と読みます)です。「勾当台」という地名も崖に突き当たるというニュアンスを含むものなのでしょう。今回は、市街地に数多く見られる坂道や段差をたどりながら、仙台城下町の拡張の歴史を紐解き、地域の今へとつながる散策へと出発しましょう。

勾当台公園

勾当台公園、南西方向を望む
(青葉区本町三丁目、2007.9.15撮影)
勾当台公園

勾当台公園、段丘崖を反映した段差
(青葉区本町三丁目、2007.9.15撮影)
錦町公園

錦町公園南入口
(青葉区本町二丁目、2007.9.15撮影)
大仏前

錦町公園東、大仏前の通り、南西方向
(青葉区本町二丁目、2007.9.15撮影)

 仙台市民の憩いの場として、また数々の催しやイベントの開催地として親しまれる勾当台公園は、芭蕉の辻を中心とした仙台城下町においては北東に位置する「高台」です。今でこそ市街地の只中にあるために目立たないものの、城下町造営時は明らかに目立つ高まりであったろうと思います。古くからの集落はこういった崖に寄り添って発達することが多く、この勾当台周辺も古くからの集落があった場所であったといいます。仙台開府にあたり伊達政宗が北東の鬼門にあたるため真言密法の祈願寺と定めた古刹・定禅寺が鎮座していた場所でもありました。この定禅寺へ向かう通りが「定禅寺通」です。定禅寺の名は廃寺となった現代においても、ケヤキ並木の美しい街路の名として息づいています。

 勾当台公園を東に出て、宮城県庁からまっすぐ南へ下るルートが、「東三番丁通」です。中低層のビルが立ち並ぶ中を南へ進み、路地を東へ入りますと、勾当台公園に段差をつくっていた段丘崖に突き当たります。崖の上は錦町公園の緑が豊かに広がります。色とりどりの花々に覆われた現代的な都市公園として整えられた錦町公園には、かつて多くの市民に親しまれたレジャーセンターと呼ばれた体育館と武道館が建てられていました。1998年、JR北仙台駅北側に青葉区体育館と武道館が建設されたことと老朽化のため、惜しまれながら閉館しています。この一帯は、藩政期には先にご紹介した定禅寺のほか、大聖寺、満願寺、光円寺、密乗院などの寺院が立ち並んでおり、城下町の防御線としての役割も担った寺町が形成されました。それらの寺院群の中のひとつ等覚院は現在の錦町公園の東側付近にあって、境内の延寿堂に四代藩主綱村の奉納した丈六の毘盧遮那仏坐像が安置されていました。このことにちなんで、現在の錦町公園東に接する道路は「大仏前(おぼとけまえ)」と呼ばれました。この大仏前の通りが南に突き当たる、東西の道路が「元寺小路」。嘉永年間(1624〜1643)に城下町の拡張が行われた際に寺町の寺院の一部が現在の新寺小路(若林区)に移転したことに伴い、元来からの寺町という意味でそう呼ばれたものです。仙台城下町はその後も北方に拡張が続けられ、延宝年間(1673〜1681)にほぼ完成します。

東四番丁

錦町公園下、東四番丁を正面に撮影
(青葉区本町二丁目、2007.9.15撮影)
東三番丁

東三番丁(正面)と元寺小路(左右)の交差点、北方向
(青葉区本町二丁目、2007.9.15撮影)
元寺小路

元寺小路(正面)と東四番丁(左右)の交差点、西方向
(青葉区本町二丁目、2007.9.15撮影)
広瀬通

広瀬通/東二番丁通交差点、西方向
(青葉区本町二丁目、2007.9.15撮影)

 錦町公園の南の入口の先は六差路になっており、大仏前から時計回りに数えて二筋目が東四番丁の通り、次が大仏前通りの延長、その次が「新大仏前」と呼ばれる戦後に作られたやや広い幅員の道路となります。元寺小路は没個性的な中低層の建物群に充填されたこのエリアにあって、カラー舗装された現代的な商店街として整備され、目立つ存在となっているように見受けられました。「ほっとタウンHONCHO」と記された小旗がはためく街灯は「本町家具の街」の文字があります。実際に家具屋が集積しているようで、古くから職人の集まるエリアであった元寺小路の地域性が受け継がれているのかもしれません。大仏前から東四番丁、元寺小路、東三番丁と、都市の只中となったかつての寺町を歩んで、広瀬通の大通りへと出ました。建物と建物の隙間からは中央通(新伝馬町)のアーケードがわずかに垣間見えました。


 錦町公園から広瀬通までは緩やかな下り坂になっていまして、ここにも河岸段丘の地形が反映されています。勾当台公園で段差を造った崖線は、錦町公園の南西で高まりをつくり、愛宕上杉通(東五番丁)、駅前通などの通りに緩やかなスロープを形成させながら、仙台駅の東、鉄砲町と二十人町との間の傾斜へと連続していくわけです。宮城県子ども総合センター東を緩やかに下る「茂市が坂」もそうですね。かつて寺院の穏やかな佇まいにあふれたエリアは、現在では完全に大都市における一般的な業務地区へと変貌し、密乗院の跡地に建てられていた仙台白百合学園も1998年に泉区紫山(泉パークタウン)へ移転し、跡地には超高層ビル「エナジースクエア」が屹立しました。付近には花京院スクエアやアジュール仙台、そして駅前のアエルなどの高層建築物が相次いで建設されていまして、近年景観が一変したエリアへと連接していきます。「大仏前」や「元寺小路」(その他、旧町名としては「元貞坂」や同心町中丁」などの名前も見られました)など、地域性を感じさせる穏やかな地域は時代とともに都市の只中へと変遷し、抽象的な雰囲気が濃厚な「本町」という住居表示で統一されました。かかるエリアに最近になって超高層建築物の立地が著しい地域となったことは、現代仙台の趨勢を象徴しているとともに、仙台城下町形成前より集落が開け、開府後も城下町の重要なエリアとして過ごしてきたこの地域の地勢とある種の「中心性」とを、このあいまいな住所地名は、あるいは予見していたのかもしれません。


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