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大阪ストーリーズ


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#18 岸和田市街地散歩 〜泉州地域の中心都市の街並み〜

 大阪府南部、堺市より南のエリアは泉州地域と呼ばれます。概ね旧令制国の和泉国の地域にあたり、大阪湾と和泉山脈とに挟まれた比較的温和な気候に恵まれています。和泉葛城山をはじめとした山間部から山麓の台地、平野部までの距離が短く多様な自然環境が認められる中で、溜池が多く点在して、大河川が少なく水が特に貴重な存在であったことを示しています。藩政期は城下町として過ごし、綿織物を中心とした工業が勃興し、高度経済成長期を通じて臨海部は鉄鋼産業をはじめとしたコンビナートが形成され、関西国際空港に近いことも相まって拠点性を高めてきました。古来より紀州へ向かう道筋にもあたっていましたので、交通の要衝としても一定の中心性を持ってきた土地柄でもあります。市の中心駅である南海岸和田駅前にはフェニックスの木があって、ここを訪れる人々を出迎えてくれます。

南海岸和田駅前

南海岸和田駅前
(岸和田市宮本町、2011.12.4撮影)
岸和田駅前通商店街

岸和田駅前通商店街の景観
(岸和田市五軒屋町、2011.12.4撮影)
岸和田本通り商店街

岸和田本通り商店街の景観
(岸和田市五軒屋町、2011.12.4撮影)
岸和田中央会館

岸和田中央会館
(岸和田市北町、2011.12.4撮影)
かじやまち商店街

かじやまち商店街入口
(岸和田市北町、2011.12.4撮影)
寺町通り

寺町通りの景観
(岸和田市北町、2011.12.4撮影)
観蔵院(高見観音)

観蔵院(高見観音)
(岸和田市五軒屋町、2011.12.4撮影)
欄干橋

欄干橋
(岸和田市北町、2011.12.4撮影)

 駅前からは、アーケードの「岸和田駅前通商店街」が続いています。有名なだんじりもこの商店街を曳行されるため、屋根も高い位置になっているようでした。ファッションデザイナー・コシノ三姉妹の生家である「洋裁コシノ」もこの商店街の一角にあります。現在はコシノ三姉妹や母親の小篠綾子さんの作業場の再現や写真展示、関連商品を販売するギャラリーアンドショップとして公開されています。五軒屋町交差点から先はアーケードのない「岸和田本通り商店街」となります。幹線道路沿いには中層のオフィスビルもあって現代的な都市景観が認められる一方で、これらの商店街は中小の商店が軒を連ねて土蔵造りの建物も見られるなど、昔ながらの街並みが残ります。駅前からこの2つの商店街を通り、岸和田カンカンベイサイドモールまで続く通りは「昭和大通」と呼ぶようで、昭和初期頃に完成した通りのようです。伝統的には府道204号境阪南線(旧国道26号)の筋海町交差点から西へ入り昭和大通を横切って五軒屋町地内をジグザグに進むルートが古い市街地横断ルートであるようです。昭和大通よりも南の道筋一帯は「かじやまち商店街」としてレトロな街並みが広がります。一角には寺町もあって、ここが岸和田町から見て北東、鬼門の方向にあたり、守りとして位置づけられたことが分かります。観蔵院(高見観音)は、鬼門守護寺院として宝暦年間(1751〜1763年)に建立されました。同商店街の西の入り口には3つの上心半円アーチが特徴的な洋風建築「岸和田中央会館」があります。昭和初期建築とされる旧岸和田貯蓄銀行の建物です。

 岸和田中央会館の面している通りが旧紀州街道です。2007年7月16日、大阪市南部から堺市にかけてフィールドワークを行った際辿った道筋です。紀州街道と府道39号岸和田港塔原線との交差点の脇、古くより岸和田の道路の起点となっていた欄干橋があります。1936(昭和11)年竣工のこの橋は大きい橋が珍しかった当地においてランドマーク的な存在でもあったようです。府道を渡った先には成協信用組合岸和田支店(旧 四十三銀行)の洋風建築が重厚なたたずまいを見せています。1919(大正8)年建築で現在でも建築当時のまま使用されているのだそうで、その作風から設計者は不明ながら、近代建築の巨匠、辰野金吾の手になるとの説もあるのだそうです。さらに南へ旧街道筋へ入りますと、クランク状に街路が屈曲し、旧城下町の特徴を示しています。ここでは二度道路が曲がっており、これは枡形という門を二重に設置する構造で、堺口門の跡です。さらに紀州街道を進み、きしわだ自然資料館南にもクランク上の、枡形門跡があります。ここは内町門、北大手門の跡で、1623(元和9)年、城の整備に伴い堺口門とともに造られたのだそうです。こうした鉤の手状の街路はだんじり祭りにおける曳き回しの難所として知られます。

成協信用組合岸和田支店(旧 四十三銀行)

成協信用組合岸和田支店(旧 四十三銀行)
(岸和田市魚屋町、2011.12.4撮影)
堺門口跡

堺門口跡の枡形
(岸和田市魚屋町、2011.12.4撮影)
二の丸周辺の濠

岸和田城二の丸の外濠
(岸和田市岸城町、2011.12.4撮影)
こなから坂

こなから坂の景観
(岸和田市岸城町、2011.12.4撮影)
岸城神社

岸城神社
(岸和田市岸城町、2011.12.4撮影)
岸和田城

岸和田城
(岸和田市岸城町、2011.12.4撮影)
本町の家並み

本町の家並み
(岸和田市岸城町、2011.12.4撮影)
岸和田城と八陣の庭

岸和田城と八陣の庭
(岸和田市岸城町、2011.12.4撮影)

 市役所方向に進み、だんじりが宮入する直前に一気に駆け上がる見せ場である「こなから坂」を歩きます。近傍には、1932(昭和7)年、寺田甚吉氏(元岸和田市長、南海電鉄社長)が岸和田紡績創始者である父寺田甚与茂氏の偉業を記念して建てた自泉会館(じせんかいかん)があります。設計は渡辺節氏。スパニッシュ様式を取り入れた学術的にも高い価値のある名建築であると解説されていました。岸城(きしき)神社は、岸和田城三の丸に鎮座する岸和田の総鎮守です。だんじりが宮入する神社です。1597(慶長2)年の岸和田城天守竣工の頃に境内地が整備されたといわれています。岸和田城の内濠の外側を歩きながら周回し、岸和田城へ向かいました。

 岸和田城は、建武新政期に楠木正成の一族和田高家が築いたのが最初といわれます。前出の岸和田城天守建造は、秀吉が城主に指名した小出秀政の手によるもので、その後小出氏、松平氏を経て1640(寛永17)年に岡部宣勝が入城、以後明治維新まで岡部氏13代が、ここで岸和田藩を統治しました。天守閣は1827(文政10)年に落雷で焼失しており、現在の天守閣は1954(昭和29)年に再建されたものです。岸和田城庭園「八陣の庭」は、1953(昭和28)年に作庭家の重森三玲(しげもりみれい)氏が設計したもので、近代日本の庭園史上学術的評価の高いものとして国の名勝指定を受けています。岸和田城の天守からは、岸和田市街地を穏やかに眺望することができました。南の和泉山脈のゆるやかな山並みや、大阪湾を挟んで対岸の六甲山系や神戸方面、淡路島を結ぶ明石海峡大橋をも見ることができました。



岸和田城天守からの俯瞰風景(南)
(岸和田市岸城町、2011.12.4撮影)


岸和田城天守からの俯瞰風景(北)
(岸和田市岸城町、2011.12.4撮影)
岸和田だんじり会館

岸和田だんじり会館
(岸和田市本町、2011.12.4撮影)
本町の街並み

旧紀州街道・本町の街並み
(岸和田市本町、2011.12.4撮影)
円成寺

円成寺
(岸和田市本町、2011.12.4撮影)
蛸地蔵天性寺

蛸地蔵天性寺
(岸和田市南町、2011.12.4撮影)

 岸和田だんじり会館を見学した後、旧紀州街道筋へ戻り、本町界隈の古い町並みを進みました。先ほどの欄干橋からこの本町あたりまでが岸和田の昔からの中心市街地で、藩政期は大店が軒を連ねた経済の中心地でした。街並みの特徴は、参勤交代が通る折に二階から見下ろせないよう街道側の虫籠窓は小さくなっており、背後の岸和田城をうかがうことができないよう城側の二階には窓がなく、
屋根は傾斜していることが挙げられます。町屋と一体となった景観を形成する円成寺(えんじょうじ)は真宗大谷派の寺院。諸国を遍歴した釈専称が1536(天文5)年に岸和田村に坊舎を建立、布教したことが始まりと伝えられます。平入で軒を張り出した町屋が多い印象で、往時の繁栄ぶりが偲ばれる街並みを歩き、一里塚跡とされる一里塚弁財天を過ぎ、1570(宝亀元)年建立で地蔵尊としては日本最大級の建物である蛸地蔵天性寺(てんしょうじ)を拝観しながら、貝塚市方面へ歩を進めました。

 城下町としての伝統を現代の街並みに残す岸和田散策は、地域の歴史と文化を随所に感じさせる、楽しい道のりとなったと思います。

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