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大阪ストーリーズ


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#11 紀州街道を歩く 〜大阪から堺への都市軸をたどる〜

 私たちは、日々道を利用しています。それは最近整備された近代的なバイパスであるかもしれませんし、両親がまだ子どもだった頃、アスファルト舗装されていない時代からあった昔ながらの路地かもしれません。交通手段の多様化や都市化が進む中で道路の総延長は格段に伸びてきたものと思われます。そんな日々変化する道路にあって、形を変えながらも歴史を重ねてきたものも実は少なくありません。今回のフィールドワークはそんな歴史のある道筋をたどりながら、地域を見つめる視点を採りたいと思います。大阪と和歌山を結ぶ紀州街道は、大阪と自治都市堺とを結ぶ要路として近世から整備が進められ、藩政期には紀州藩の公道となり参勤交代のルートであった由緒を持つ街道筋です。

 西成区天下茶屋。駅周辺は純然たる下町の雰囲気を感じさせる住宅街。駅前を出発し、天下茶屋公園を横切って、東側の街路へ。この街路が旧紀州街道にあたる道路です。片側一車線の道路が低層の住宅地域の中を進んでいます。天神森天満宮とも、天下茶屋天満宮などとも別称される天満宮の境内は、穏やかなくすのきの森「紹鴎(じょうおう)の森」に覆われています。千利休の師である武野紹鴎がこの森の一隅に茶室を設けていたことからの名前です。豊臣秀吉が堺政所に往来の途中天満宮西側の茶店で休息し、この付近の風景を賞したことから、殿下の茶店-天下茶屋-と称することとなったことが「天下茶屋」地名の由来となっています。現在かつての天下茶屋の一角が史跡天下茶屋跡として整えられているようです。

天満宮参道

天満宮参道
(西成区岸里東二丁目、2007.7.16撮影)
阪堺電車

阪堺電軌の路面電車
(西成区玉出東一丁目、2007.7.16撮影)
塚西交差点

塚西交差点、南方向
(西成区玉出東二丁目、2007.7.16撮影)
東粉浜電停

阪堺電軌・東粉浜電停付近
(住吉区東粉浜二丁目、2007.7.16撮影)

 南海電車の高架下をくぐると、道路には東側から阪堺電軌の軌道が合流してきます。ここから住吉大社前まで街道は阪堺線の軌道敷となります。道幅はそれなりに広くて、道路の上の青空は大きく広がります。しかしながら、道路は前言のとおり軌道敷がかなりの部分を占め、かつ歩道と車道を分けるガードレール等もほとんどの場所でないため、道路両側に迫る住宅街のまさに目の前を、自動車や路面電車が通過していくような様相です。住吉大社へ近づくにつれて町並みはやや密度を増し、中層のマンションも混じり始めます。町屋風の建物の中に低層の雑居ビル、そして中層のマンションが重なり合う下町の風景を貫く路面電車が通う車道。その道路の彼方に穏やかな緑の杜-住吉大社の杜-が町に溶け込むように見えていました。

 路面電車通りや参道に面してたくさんの永代常夜燈が立ち並ぶ住吉大社は、摂津一の宮であり、全国およそ2300社に及ぶという住吉神社の総本宮としてあまりに著名です。神社の南を流れる細江川(通称、細井川)はわが国で最も古い歴史を持つ港湾のひとつである住吉津(すみのえのつ)のあった入り江の名残で、神社は入り江と白砂青松の風光明媚な砂浜に面していたのだそうです。有名な朱塗りの反橋(通称、太鼓橋)が跨ぐ水路も、かつてその入り江へと海岸線と並行してつながっていた潟湖に架けられていたものであるのだそうです。大和政権における重要な国際港として機能した住吉津からは、かの遣隋使や遣唐使の船も出港していたといいます。そうした壮大な歴史を刻んできた神社は、現在では海岸線も遠くなり、鳥居前を路面電車が行過ぎる、下町的な賑わいの中に佇んでいます。

東粉浜三丁目付近

阪堺電軌・住吉電停付近、南方向
(住吉区東粉浜三丁目、2007.7.16撮影)


住吉大社・第一本宮
(住吉区住吉二丁目、2007.7.16撮影)
住吉大社門前

住吉大社門前の景観
(住吉区長峡町、2007.7.16撮影)
住吉大社・反橋

住吉大社・反橋(太鼓橋)
(住吉区住吉二丁目、2007.7.16撮影)

 全面に広告塗装を施した車両がやたらと多い阪堺電車は住吉大社前から道路を離れ、堺市の綾ノ町駅付近まで専用軌道を走ります。軌道敷から開放された紀州街道筋は間もなく細い路地となります。細井川に架かる橋は「御祓橋」と名づけられています。欄干に接して設けられた案内表示によりますと、住吉神社の大祭をこの地域では御祓いと呼び、川舟の船頭らが出資してここに篝火を焚いて神輿の奉送迎をしたことから、その名が付けられたのだそうです。細井川以南は住之江区安立(あんりゅう)の町となります。紀州街道筋は南方向への一方通行路となって、途中横切る住之江通(国道479号線)の大幹線と比べるとか細い糸のような道幅の街路です。穏やかな住宅地という土地利用は住吉大社北側の東粉浜あたりと変わらないものの、歩道と車道の区別が明瞭でなく、歩行者から見て通過車両の「圧迫感」が濃厚であった東粉浜付近とは違って、歩行者の通路も確保され相対的に交通量の少ない安立の町は、狭い路地ながら、とても開放的で、ゆったりとした印象を受けます。やがて、街道筋は商店街へと入っていきます。

 蛇行した歩道に旧道らしさが垣間見える商店街を進みますと、「霰松原(あられまつばら)旧跡」の石碑が建てられた公園にたどり着きました。江戸中期、このあたりは海岸線に面しており、松原の美しい景勝地で「霰松原」と呼ばれていたことをそれは伝えています。また、この公園には、「安立町役場跡」の石碑も設置されています。元和年間(1615〜1623)に典薬頭・半井安立という良医がこの地に居住し、その治療を受けに近国から集まった人々が住み着いて村落を形成するに至り、「安立町」と称するようになったという地名の来歴が刻まれていました。旧安立町は近隣の東成郡の自治体とともに、1925(大正14)年4月1日、大阪市に編入されています。商店街は公園を過ぎますとほどなくして「安立中央」のプレートが入口に掲げられたアーケード街になりました。自転車や徒歩で多くの人々が商店街に集まっていまして、本当に活気に満ちた近隣商店街が形成されていました。アーケードの中にも虫篭窓や町屋格子の奥ゆかしい雰囲気の建物が点在していまして、安立が古くからこの地域の最寄品を商う中心商店街としての地位を得てきた歴史が偲ばれました。



霰松原旧跡付近
(住之江区安立二丁目、2007.7.16撮影)
安立

安立中央商店街
(住之江区安立三丁目、2007.7.16撮影)
安立

安立・商店街の景観
(住之江区安立三丁目、2007.7.16撮影)
大和橋

大和橋より西方向を望む
(大阪市/堺市境、2007.7.16撮影)

 安立ののびやかな町並みを過ぎますと、紀州街道筋は大和川へと一直線に進んでいきます。「てあらいはし」と刻まれた小さな橋を渡りますと、道路は緩やかに上りとなって、大和川の堤防に差し掛かっていることを伝えます。視界が開けて、青空が前方に広がります。紀州街道は大和川に架けられた大和橋によって川を跨ぎ、堺市域へと続いていきます。橋のたもとに設置された案内表示によりますと、大和橋は大和川の開鑿工事とともに宝永元年に作られた公儀橋であったそうです。旧暦六月末に行われた住吉神社の大祓いの祭りでは、数百人が篝火を持つ神輿の列が出ることは先ほどお話しました。大和橋付近を通過した神輿の列の点す火は、遠く大阪湾の対岸の西宮や兵庫、明石から泉州海岸まで見通すことができたそうで、人々はこの火を見て神幸を拝したのだそうです。

 近代的な橋となった大和橋の橋上からは、下流の南海本線のトラス橋の上を阪神高速の橋脚が跨ぐ景観と、上流の阪堺電車の慎ましやかな鉄橋が見える景観とが、対照的な姿を見せていました。

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