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シリーズ京都を歩く

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5.西陣・北野まち歩き
第十二段 西陣探訪

 西陣の地名の由来は、応仁の乱のとき、西軍を率いた山名宗全がこの地域に陣を置いたことに因むことは、前項にて一部お話しました。この一帯が幕府の西側に位置していたため、「西陣」の名が起こりました。堀川通上立売下ルの位置にはその名も「山名町」という町名が現存していまいて、地内には山名宗全邸宅跡の碑も佇んでいます。漠然と「西陣」という名前でとらえられる範域は、区画として明確に画されるものではなく、西陣織の生産地域を中心としたエリアの通称名であるようです。手許にあるガイドブックには、「近世の文献は西陣を『東は堀川を限り、西は北野七本松を限り、北は大徳寺今宮旅所限り、南は一条限りまたは中立売通』の約1キロメートル四方としているが、機業地域は拡大し、現在は東はおよそ烏丸通あたり、西は西大路、南は丸太町通、北は今宮通のおよそ3キロメートルの範囲にわたる」とする説明がなされていました。西陣織の伝統と、京の町屋の景観が絶妙に絡み合いながら、西陣の呼び名は京都の文化として穏やかに、そして濃厚に根づいてきたといえるのでしょうか。

 上立売通紋屋町界隈は、そんな西陣の中にあっても最も鮮烈に町屋景観を今に伝えているエリアの1つであろうと思われます。前段でご紹介した三上家路地をはじめとした、実に落ち着きに満ちた、穏やかな町屋の町並みの只中を散策することができました。屋根瓦を重ねてつくられた本隆寺の塀沿い、上立売通を西へ進み浄福寺通を上がりますと伝統的な京町屋のファサードを生かしながらも現代風にアレンジされた、雰囲気の建物のある一角へとたどり着きます。織成館(おりなすかん)と呼ばれるこの施設は1936(昭和11)年に建てられた織屋を改築したもので、手織り技術の振興を目的に、各地の手織物の展示や体験事業などを行っています。周辺は路面や通りに面した建物の色彩などが統一的な落ち着いたものに整えられていまして、「レトロモダン」的な明るさを見せていました。上立売通を西へ、千本通を横断して大報恩寺方面へと向かいました。このあたりも、伝統的な町や景観が連続しながらも、現代仕様の建築物が混在したり、犬矢来や駒寄せ、出格子、虫籠窓といった京町屋を構成する、特徴ある建具や装具を備えた家々を数多く目にしました。中でも、庇の屋根の上にちょこっと載せられた、小さな石像−鐘馗(しょうき)さん−は、一見してユーモラスな表情にも感じられる、京都の町屋を特徴づける事物の1つです。西陣エリアでもここかしこの屋根の上において認められました。髭をたくわえた石像は、睨みを利かすもの、大きな剣を振りかざすもの、自身が小さな“祠”のごとき小箱の中に安置されたものなど、それぞれの家によって微妙に表情やお姿が変わります。魔除けとして掲げられる鐘馗さんの由来には、次のような逸話があります。

紋屋町の路地

紋屋町の路地、本隆寺を望む
(上京区紋屋町、2005.9.17撮影)
織成館

織成館
(上京区浄福寺通上立売上ル大黒町、2005.9.17撮影)
鐘馗さん

鐘馗さん(祠に入っている)
(上京区千本通西側付近、2005.9.17撮影)
千本釈迦堂

大報恩寺(千本釈迦堂)
(上京区五辻通七本松東入る溝前町、2005.9.17撮影)

  江戸時代、京都のある商家の奥方が原因不明の病にかかり、方策が見当たらず困り果てた医者は、ある日隣家の屋根に
鬼瓦が載っているのを見て、隣家で除けられた災いがこの家に降りかかっているのではないかと推測しました。そこで、瓦職人に魔除けのために鐘馗さんを製作してもらい、この鬼瓦の正面に据えたところ、奥方の病は全快したといいます。以降、京都の街を中心として、鐘馗さんを魔除けとして屋根の上に置く習慣が広まったのだそうです。向いが鬼瓦のある家の場合は、それに向かい合うように、また鐘馗さん同士が向かい合うような場合には互いの鐘馗さんが睨み合わないような位置に据えられます。鐘馗さんの睨みを笑いかわすという意味で、お多福さんが据えられているところもあるそうです。そんな多彩な仕掛けに包まれた町屋の先に、大報恩寺。「千本釈迦堂」の名前で親しまれます。正面5間、側面6間、入母屋造、檜皮葺の本堂は京都市内では最古の仏堂遺構で、応仁の乱にも奇跡的にし焼失を免れたことで知られます。2月のおかめ福節分会、7月の陶器供養、8月のり六道参り、そして12月の大根炊き(だいこだき)など、四季折々の多彩な行事が営まれるそうです。
 
 五辻通を東へ歩み、三度千本通を北へ、上千本商店街の穏やかな町並みを進みます。付近には、千本ゑんま堂として著名な引接寺(いんじょうじ)、釘抜地蔵“釘抜きさん”石像寺(しゃくぞうじ)などの名刹があり、多くの信仰を集めているようです。緑のアーケードを擁した千本通はゆるやかなカーブを描きながら北へ延びて、緑豊かな街路樹の先につながるように、前方には北山方面の山並みも望めるようになってきます。千本寺之内から東へ、寺之内通の界隈も、京の町屋のしっとりとした景観が続きます。それは京都の街が長きに渡り日本を代表する都市として君臨し、輝き、揺るぎない伝統と威信とを磨きつづけてきた道筋そのものであったのかもしれません。そして、そのような比類のない、日本の顔としての歴史を紡いでもなお、現代の大都市として存在し、彷徨を続ける今日の日本の姿への問いかけでもあったのでしょうか。大宮通から鞍馬口通にかけては、庶民的な近隣商店街が連続します。一方通行の通りを自動車が忙しなく行き過ぎます。このあたりから碁盤目状と称される市街地の形態はしなやかに解けて、郊外の市街地へと移り変わっていくように思われました。

五辻通付近の町屋

出格子と駒寄せのある町屋
(上京区五辻通付近、2005.9.17撮影)
千本通・地蔵祠

千本通・地蔵祠
上京区千本通五辻上る牡丹鉾町、2005.9.17撮影)
寺之内通

寺之内通の景観
上京区寺之内智恵光院西入ル付近、2005.9.17撮影)
大宮通

大宮通の景観
(上京区大宮通上立売下ル付近、2005.9.17撮影)
船岡山・北野方向

船岡山より南西方向を望む
北区紫野北舟岡町、2005.9.17撮影)
船岡山・雙ヶ岡方向

船岡山より西方向を望む
北区紫野北舟岡町、2005.9.17撮影)

 京都の街を北から守るような位置にある船岡山へと至り、京都の街を眺めました。たおやかに展開する“現代の古都”が、そこにありました。高さ112メートル、東西200メートルにわたり京都の街を見下ろすなめらかな山容を持つ丘陵です。「船岡山」という名前は、山並み船の形に似ていることからの命名とのことです。1931(昭和6)年に都市公園として整備され、現在は「船岡山公園」として市民の憩いの場となっています。船岡山は平安京の中心軸であった朱雀大路、現在の千本通の延長線上にあり、都の造営にあたってその基準点となっていたと推定されているのだそうです。それ以来、多くの都人にとって祭祀の場であり、遊興の舞台であり、京都の街を守る防衛上の拠点としての機能も持ちながら、京都の街を見守ってきましたのが、この船岡山であったといいます。

 南には現代都市・京都が広がります。船岡山のきらきらした緑の絨毯の向うに無限の広がりを見せる市街地は、三方をのびやかな山々に囲まれていました。東に比叡山、西に衣笠山と雙ヶ岡の小丘陵があって、京都がこれらの山々をポイントとして巧みに設計された都市であったであろうことを実感しました。南西には北野天満宮の杜もはっきりと眺められました。私は都市を訪れる時機会があれば必ず高い位置からその町を俯瞰することにしています。日本の都市はしばしば画一的で町ごとの特色にかけると指摘されます。しかしながら、都市にはその都市だけが歩んできた独自の過程があり、アイデンティティがあり、そのまちならではとかたちがあります。街の俯瞰風景は、その容貌をはっきりと私の目の前に見せてくれているように思われます。京都の姿、それは凛としたたおやかさと、現代性との間を生きる大都市としての剥き出しの姿とを濃厚に匂わせるものであったといえるのかもしれません。再び千本寺之内から西へ狭い路地を入り、豊臣秀吉が防御と防災のために京都の街を取り囲んで築いた「お土居」の西の端であった紙屋川に沿って南へ向かって、“天神さん”こと北野八幡宮へと歩を進めました。

第十三段へと続きます。


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