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阪神間ドリームズ #2
〜“カラフル”な諸地域を歩く〜

2007年7月、2006年秋に引き続き、阪神間エリアをめぐりました。芦屋市を歩いた後、神戸市域を電車で移動しながら三田市へ、その後宝塚市、川西市そして伊丹市とさまざまな地域を歩きました。さまざまな色彩を見せる地域にたいへん感動いたしました。

訪問者カウンタ
ページ設置:2007年10月2日

高級住宅都市・芦屋

 7月15日、台風が過ぎ去った近畿地方は、雲が多めで時折軽く雨が降りながらも、雲間から青空も覗くまずまずの陽気でした。JR芦屋駅北口に降り立ちますと、ポーチュラカやベゴニアの色とりどりの花々が囲う、洗練されたファサードに出迎えられます。複合商業施設「芦屋ラポルテ」を中心とした駅前の景観は、コンパクトながら整然とした駅前空間を演出していまして、高級住宅地として全国にその名を知られる芦屋市の玄関口として申し分のないものであるようにも思われました。2006年11月の阪神間フィールドワークでは(詳細は、拙文「阪神間ドリームズ#1をご覧ください)、芦屋に到着するも既に夕刻近く、阪神芦屋からこのJR芦屋駅に至るまでの市街地を軽く歩くことしかできませんでした。今回はその続きをという意図から、芦屋をまず再訪しました。

 駅前の通りを西へ向かい、さわやかな青空が広がる空間へと導かれました。その空の下たゆたうのは前年も散策した芦屋川の流れです。台風の雨を受けて水量の増した川も、周辺の鮮やかな緑色がクリアに写りこむほどに澄んでいるように感じられました。流路の両側は散策路となっていまして、川の穏やかな流れと並びながら、快いウォーキングを楽しめるようになっています。両岸の桜並木は、春にはしっとりと桜色に染まって、川面を覆うこととなるのでしょうか。緑と水とにのびやかに向かいながら、散策を進めていきます。阪急芦屋川駅を過ぎますと、水面は一面草に覆われるようになり、六甲山地から多くの土砂がこの付近で堆積しやすいようすが見て取れました。穏やかな風合いが歴史を感じさせる開森橋付近では、JR芦屋付近からは遠めに眺められていた六甲の山並みが、驚くほど間近になっているように感じられます。迫るような山並みと、急に増える堆積物。これらの事象は、山地から流れ出た川の急な傾きが、この付近からは相対的に緩やかになることを物語っているようでした。果たして、橋の東詰付近には「阪神大水害芦屋川決壊之地」の石碑が建てられていました。1938(昭和13)年7月3日から5日にかけて降り続いた豪雨により、阪神間地域に未曾有の大水害をもたらした「阪神大水害」は、ここ芦屋川においても甚大な被害を生みました。阪神大水害の教訓は、治水対策が進捗した現在においても、決して風化させてはならないということを石碑は語っています。

JR芦屋駅

JR芦屋駅付近の景観
(芦屋市船戸町、2007.7.15撮影)


芦屋川の景観
(芦屋市月若町/松ノ内町、2007.7.15撮影)
芦屋川中流部

芦屋川・開森橋下流付近
(芦屋市西山町、2007.7.15撮影)
海岸方面を望む

芦屋の住宅街から海岸部を望む
(芦屋市山手町付近、2007.7.15撮影)
芦屋

芦屋の住宅地景観
(芦屋市山手町付近、2007.7.15撮影)
芦屋神社

芦屋神社
(芦屋市東芦屋町、2007.7.15撮影)

 開森橋を東へ渡り、芦屋神社まで住宅地域をめぐってみることにしました。歩いたエリアは、住所表記では山手町から東芦屋町にかけてであるようです。芦屋神社への参道を示す看板に惹かれて住宅地に足を踏み入れますと、周囲は高い石垣や手入れの行き届いた生垣が続く、いわゆる「豪邸」と呼ばれ得るような、敷地の広い住宅の連続する一帯となっていました。道路は急坂となっていまして、南を振り返りますと海が建物や生垣などの間から垣間見えるようになっていきます。家々の広々としたテラスからは、海のさわやかな風景や、きらめくようなまちの夜景を、ゆったりと見渡すことができそうです。歩いただけで、高級住宅街たる芦屋の特徴が十分に伝わってまいります。住宅街を抜けますと、緑濃き社叢に囲まれた芦屋神社へ。1930(昭和5)年に新改築されたという社殿などの建物は、1995(平成7)年1月の阪神淡路大震災で大きな被害を受けたことが、設置された説明表示板に記されていました。真夏の陽気でも、ほっとできる木陰を求めて、地域の多くの人々が訪れていらっしゃいました。

「変貌の街」・三田

 芦屋の住宅地訪問を終え、芦屋川沿いに来た道を戻り、阪急芦屋川駅から神戸高速鉄道を経て新開地へ。神戸電鉄線に乗り換えて六甲山地の北側へ、終点の三田まで移動しました。車窓からの風景が見える区間では、神戸市街地における都市化の様子などを観察しました。三田は、神戸から見て北の方向に位置しており、かつ宝塚との間にも武庫川の渓谷部があって地形的にも一定の隔絶性があるため、阪神間エリアに含められるかどうか見解が分かれそうです。しかしながら、後述しますとおり三田市は他の阪神間の都市と同じように大阪や、大阪ほどではないようですが神戸からの郊外化による急激な人口増加をみた地域でありまして、こうした地域の姿を確認してみたいとの思いが強く、今回の阪神間フィールドワークの中で訪れることにしたものです。

 JR福知山線(愛称として「JR宝塚線」という呼び名もあります)に神戸電鉄線が乗り入れる三田駅前は、比較的最近整えられたと思しきバスターミナルやペデストリアンデッキ、複合商業施設などがたいへん印象的でした。三田市は、一言で表現すれば、「変貌の街」であるといえるのかもしれません。1980年代初頭まで3万人ほどであった人口が急増し始めたのは、1980年代後半。JR福知山線の複線電化により大阪方面へのアクセスが大幅に改善されるなどの影響で住宅開発が急速に進み、1996(平成8)年度までの10年間人口増加率日本一を記録する空前の人口増が、三田を武庫川流域の小盆地の中心地から、大都市近郊の住宅都市へと一変させました。現在では人口増は停滞気味に推移しているものの、人口11万人あまりとなっています。

三田駅前

JR/神戸電鉄三田駅前
(三田市駅前町、2007.7.15撮影)
商店街

三田駅付近・アーケードの商店街
(三田市駅前町、2007.7.15撮影)
武庫川

武庫川と三田市街地(三田大橋より)
(三田市三田町/中央町、2007.7.15撮影)
旧九鬼家住宅

旧九鬼家住宅
(三田市屋敷町、2007.7.15撮影)

 「キッピーモール」と呼ばれる複合商業施設は、三田阪急をキーテナントにしながら、複数の商店や飲食店、三田市の行政サービスセンターなどが入居する、利便性と日常性に溢れた施設のようでした。なお、訪問時このキッピーモールとバスターミナルを挟んで北側に建設中だったJRによる駅ビルも2007年9月下旬にやはり複合商業ビルとして開業したそうで、三田駅前も様変わりしているようです。キッピーモール東側の商店街は、アーケードを擁した人情味を感じさせています。それは、再開発によって現代的な町並みが卓越するようになる前の三田駅前がどのようであったかを髣髴とさせる町並みです。バスターミナルへ戻り、ターミナルから西へ続く街路「ふれあい大通り」を進んでいきます。百日紅が街路樹として植栽されたこの通りも、ここ数年で歩道の整備などが進められたような印象です。この通りはまた、変貌の街・三田を象徴するような道路でもあります。駅からほどなくして到達する市役所の建物は駅前の膨大振りに比して年季が入った小ぢんまりとしたもので、人口急増前から使用されているものであることを物語っているのに対し、架橋されて5年も経っていないと思われる武庫川大橋(2002年9月発行の手持ちの地図にこの橋は描かれていません)を渡った先には、オープンしたばかりの「三田市総合文化センター(郷の音ホール)」が現代的な外観を見せておりまして、現在の三田の趨勢を示していました。

三田市街

三田の旧市街地の町並み
(三田市三田町、2007.7.15撮影)
心月院

心月院
(三田市西山二丁目、2007.7.15撮影)
三田遠景

西山地区より三田市街地を望む
(三田市西山二丁目付近、2007.7.15撮影)
フラワータウン駅

フラワータウン駅付近の景観
(三田市武庫が丘五丁目付近、2007.7.15撮影)

 三田は急激な住宅地化と都市化にさらされながらも、一方で昔ながらの雰囲気も残しています。その新旧のコントラストがすてきなまちだな、と思い始めるきっかけとなったのが、郷の音ホールの前を過ぎ、三田大橋から武庫川の風景を眺めた後に目にした数々の穏やかな町並みでした。現在の有馬高校の位置にあった三田陣屋を中心として発達した城下町は、武庫川右岸一帯に展開します。現代的な雰囲気を纏った左岸の市街地に比して、たいへんおくゆかしく、また落ち着いた表情の市街地がそこにありました。明治期に建設された擬洋風建築として、伝統的な日本風家屋ながらモダンなベランダを擁する旧九鬼家住宅を一瞥しながら、「車瀬橋商店街」へ。懐かしい風合いのアーケードが残る一帯は、城下町を基礎とした三田の旧市街地として豊かな歴史性を醸しているように感じられました。陣屋南の要害と思しき「大池」の南の市道を進み、三田藩主九鬼家歴代の菩提寺である心月院を詣でながら、三田市人口増の原動力となったニュータウン、北摂三田ニュータウン(フラワータウン・ウッディタウン・カルチャータウン・テクノパークの4団地で構成されるとのことです)方面へ歩きました。途中通過した西山地区は、藩政期に侍町が形成されたエリア(三田町から屋敷町にかけて)の西郊にあたり、土地区画整理により現代的な区画が整えられながらも、昔ながらの家屋もやわらかなアクセントを街並みに加えていまして、たいへん気持ちのよい風景が広がるまちでした。鉄道線まで敷設された大規模団地は多くの中高層のマンションが立ち並ぶ現代的な景観を呈している一方で、高台から俯瞰する三田市街の風景もまた、変貌のさなかにあって落ち着いた田園風景をも残す、たおやかな眺めでした。


宝塚から川西、そして伊丹へ

 団地から神戸電鉄線で三田駅へ戻り、JR福知山線で宝塚へと向かいました。かつては武庫川のつくる峡谷部に並行するように進んでいたJR線は、現在はこの区間をほとんどトンネルで通過しています。生瀬駅を過ぎて武庫川の流域は再び開けてまいりまして、阪神間エリアの主要部が展開する平野へとつながっていきます。武庫川が狭隘部から平地へと出るまさに谷口の穏やかな山並みに抱かれるような立地の宝塚駅は、北側にJR、南側に阪急の駅が並び、その間を地下トンネル状に国道176号線が通過していまして、交通の要衝としての地域性を窺わせました。宝塚駅周辺よりやや東に入った小浜地区は、江戸期には有馬街道の宿場町「小浜宿」として栄え、また西宮街道(馬街道)や京伏見街道、巡礼道(西国三十三か所観音霊場巡りの二十三番札所・応頂山勝尾寺(箕面市)から、二十四番・紫雲山中山寺(宝塚市)、そして二十五番・御嶽山清水寺(加東市社町)へ至る巡礼ルートをさして呼ばれた名称)が交差する交通の結節点でした。宝塚はまた、周知のとおり、宝塚歌劇と宝塚温泉とで知られる町です。駅から東進しますと、ほどなくして宝塚大劇場方面へ続く「花のみち」に至り、緑や花にあふれた気持ちのよい散策をすることができます。武庫川を挟んで駅から対岸に位置する温泉街のホテル群の風景も、武庫川の流れや背後の穏やかな稜線に抱かれた、洗練された表情をみせていました。

 阪急線は、ここから川西市や池田市を通過して大阪・梅田へ向かう宝塚線と、武庫川を渡って南下し、西宮北口駅方面へ進む今津線とが路線を延ばしています。明治後半から昭和初期にかけて、経済都市として成長を続けた大阪や、屈指の港湾都市としての基盤を揺るぎないものにした神戸からの都市化を受けながら、「阪神間モダニズム」の流れの中で多くの文化人や財界人が移り住むようになり、伝統を重んじながらも、西洋文化のエッセンスも取り入れた彼らの独自のライフスタイルが反映された都市郊外が形成されました。その動きを後押ししたのが、関西私鉄資本でありました。戦後の高度経済成長を経て、さらなる宅地化が進められてきたであろうこのエリアにおいても、当時のモダン気質が生み出した地域性。宝塚駅から阪急線で中山寺、川西方面へと進む行程は、それを随所に感じることができる道筋となりました。

武庫川

阪急宝塚駅南の武庫川、上流方向
(宝塚市栄町二丁目、2007.7.15撮影)
武庫川

阪急宝塚駅南の武庫川、下流方向
(宝塚市栄町二丁目、2007.7.15撮影)


花のみち
(宝塚市栄町一丁目、2007.7.15撮影)
中山寺

中山寺・山門
(宝塚市中山寺二丁目、2007.7.15撮影)

 駅から穏やかに続く門前の町並み、暑い中でも多くの参詣客が訪れていた境内の穏やかな雰囲気、落ち着いた雰囲気の町並みの中に屹立しつつも、和やかな表情を見せている山門の姿、中山寺の印象は、数え切れないほどのあたたかさに満ちていました。再び阪急電車に乗って行き着いた川西能勢口駅は、明るい都市近郊のターミナルといった町並みの中。人通りも大変多くて、車両の交通量の多い幹線道路を駅に接して南北に一本通しておきながらも、広い歩道や歩行者の動線の確保に十分な配慮がなされているようにも見受けられました。現代的に整えられた川西市街地の明るさは、多様な輝きを見せる阪神間地域の諸地域にあっても、一、二を争うくらいの鮮烈さを放っていたように感じました。

 多くの自動車がさっそうと行き過ぎる県道13号線(尼崎池田線)を南下し、JR線をくぐって、国指定史跡「加茂遺跡」のある鴨神社の杜方面へと進みました。長明寺川がその裾を洗うように流れる台地上の神社は、周囲にたくさんのマンションや住宅地をかかえながらも、実に静かな空間の中に佇んでいました。遺跡は旧石器・縄文時代から平安時代にかけての集落群であるとのことで、ちょっとありきたりな表現かもしれないけれど、ここが遥かなる昔から、現代に至るまで、人々にとって豊かな生活を保証する場所であったのだなと感じさせます。長明寺川は、先ほど来目にしてきた武庫川ではなく、猪名川の支流で、この猪名川を挟んで池田市(大阪府)に対する地域であることは、時折頭上を通過する航空機の姿に実感させられました。神社前にあったバス停を通過する阪急バスの行き先は、その航空機が離着陸する空港名と同じ、阪急伊丹駅前行き。日暮れも迫ってきており、伊丹市内も少し見ておきたいと思っていたので、ちょうどやってきたバスに乗り込みました。



阪急川西能勢口駅前の景観
(川西市栄町、2007.7.15撮影)
川西市街地

川西能勢口駅北側、県道沿いの景観
(川西市中央町、2007.7.15撮影)


中山寺から阪神間エリアを俯瞰
(宝塚市中山寺二丁目、2007.7.15撮影)
阪急伊丹駅

阪急伊丹駅前の景観
(伊丹市西台一丁目、2007.7.15撮影)

※伊丹駅の写真は、ガラス越しに撮影しているため一部にノイズが含まれています。ご了承願います。

 バスは総監部前を通り、ミノルタ前から伊丹坂を経由して、駅前へと到着しました。1995年の阪神淡路大震災で倒壊した姿が記憶に残る阪急伊丹駅は、約4年の歳月をかけて再建され、現在では東のJR伊丹駅周辺とともに、活気のある繁華街のコアとして機能しています。濃密な市街地は駅に近づくにつれてその密度を増していくのがバスの車窓からもはっきりと見て取れまして、伊丹市街地のアウトラインを感じ取ることができました。しかしながら、駅到着の頃は既に時刻は午後6時を回っていまして、伊丹における散策を行うことはできませんでした。

 芦屋の住宅街を歩いてから、三田、宝塚、川西、そして伊丹とめぐったフィールドワークの中で、強烈に印象づけられたことは、「阪神間地域」と総称されるこの地域を構成するエリアのひとつひとつが本当に個性豊かで、それぞれのカラーを持っているということでした。まさに、町並みのひとつひとつが輝いていて、総じて「カラフルな地域」だな、という感想でした。中山寺を参拝した帰路の参道からは、お寺の堂宇の甍の先に、たおやかな阪神間地域の市街地の姿がさわやか眺められました。バラエティに満ちた地域は遠景からもその躍動感が漲っているように感じられて、観ているだけで心躍らされました。
阪神間ドリームズ#3、近いうちに実現させたいな、そう強く感じずにはいられませんでした。


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