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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#28 東京リレーウォーク(18) 〜旧東海道を品川宿へ〜 (中央区・港区・品川区) 2009年10月11日、秋晴れの気持ちの良い陽気の下、JR東京駅を出発しました。2008年に東京駅を起終点として主に東京23区内の北半分をめぐった「東京リレーウォーク」の続きとして、南方向を目指すフィールドワークを行う予定での行動でした。中央通りを南へ、京橋、銀座を経て新橋あたりから第一京浜となった国道15号(旧東海道)を歩きます。東京を代表する繁華街・ビジネス街としての壮観な都市景観の中を歩き、汐留の再開発エリアを一瞥しながら、一大幹線道路となったかつての街道筋を進みます。 増上寺の大門を遠くに見て、首都高速道路が宙空を走る古川」(渋谷川の下流部)を渡ると、田町駅前を経て高輪大木戸跡に到着します。江戸の南の入口として旧東海道の両側に石垣を築いて門を造り、夜間はそれを閉じて治安維持。交通規制を行うものでした。現在でも石垣が残され、近世における希少な交通関連史跡であるとのことです。これより南は江戸の町外となり、右手(西側)から迫る高輪の丘陵の裾に沿って、海岸沿いを進む風光豊かな場所を東海道は通過していました。近代以降の埋め立てと開発により海岸は遥か彼方となり、ウォーターフロントとしての色彩は皆無となりましたが、高輪一帯の高台(高輪台)は泉岳寺などの由緒のある寺院や文教施設などが立地する静かな住宅地となっています。
泉岳寺周辺は都心近傍にありながら閑静な佇まいを残すエリアで、緑に溢れた坂道も多くて、散策が楽しい地域です。この日も、雲ひとつない青空に映えるように、萩の花がしっとりと秋の風に揺れて、キンモクセイの芳香を運んでいました。江戸にほど近い山であった一帯では、鷹狩りも行われることもあったようです。近代以降は海を望む豊かな風光が注目されて高級住宅地となり現在に至ります。泉岳寺付近のJR山手線田町・品川駅間には2020年を目途に新駅を建設し、車両基地の敷地等を利用した再開発が予定されています。東京・上野駅間を新線で結び宇都宮・高崎・常磐の3線と東海道線とを直通させる東北縦貫線計画(「上野東京ライン」の愛称も決定しています)や、中央リニア新幹線の東京側のターミナルが品川駅付近に設けられることもあいまって、このエリアはここ十年のうちに大きく変貌していくこととなりそうです。 泉岳寺周辺の穏やかな一帯を後にしますと、程なくして品川駅へと至りました。2003年に新幹線駅が設けられて以来、上述のリニア駅開設見込みであることも受けて首都の南のターミナルとして拠点性を高める品川駅は、1872(明治5)年10月、新橋(後の潮留駅、現在は廃止され、跡地は旧新橋停車場跡として史跡指定)・横浜(現在の桜木町駅)間に日本で最初の鉄道路線が開業したのに先立ち、同年6月に仮開業した際に営業を開始しています。桜木町駅とともに、日本で最初に開業した駅であるとえいます。シティホテルやオフィスビル、複合商業施設などが急速に増えている駅前(西口(高輪口))には、そうした品川駅の歴史を記した品川駅創業記念碑が建てられています。
品川駅のすぐ南には、日本で最初の跨線橋である八ツ山橋へ。京浜急行線のトラス鉄橋と並んである八ツ山橋は、先に述べた日本初の鉄道線と東海道とを立体交差させるために同時期に木製の橋として建設されました。八ツ山とは、品川宿北の入口にかつてあったという小山の名前とのことです。現在の橋は、1914(大正3)年の架け替え、1930(昭和5)年の拡幅を経て1985(昭和60)年に完成した4代目。橋を渡った先には、鉄製アーチ橋として周辺におけるランドマークとなっていたであろう2代目の橋の欄干と親柱が保存されています。開業時とは比較にならないほどに増えた線路の上を越えて、江戸四宿のひとつ品川宿へと向かいます(他の三宿は千住宿、板橋宿、内藤新宿)。 第一京浜を逸れ、京浜急行の踏切を越えますと、旧品川宿の街並みへと入っていきます。これまでの現代的な高層ビルが立ち並ぶ景観が一変し、狭い街路の両側に低い階層の建物が並ぶ、いわゆる近隣商店街としての家並みが続いています。東海道に宿場が初めて形成されたのは1601(慶長6)年のことで、既に戦国時代から成立していた北品川と南品川の両宿を全国的な幹線道路網を構築しようとする幕府によって宿場として設定されたものであると言います。1722(享保7)年に北品川からさらに北、高輪側に茶屋や旅籠が伸びて徒歩新宿(かちしんしゅく)が成立してからはこれら三宿を総称して「品川宿」と呼ぶようになりました。東海道五十三次一番目の宿駅としてたいへんな賑わいを見せたとのことです。現在は港区域である位置で品川駅がその名を称していることは、そんな品川の町場としての繁栄と無関係ではないのではないかとも思えます。そんな品川の町は、現代の都市の喧騒とは異なる落ち着いた雰囲気を呈しながらも、そうした歴史を今に伝えるたくさんの事物が残されています。北品川駅にほど近い場所に「問答河岸(もんどうがし)跡」の石碑がありました。かって海岸先に波止場があり、将軍家光が東海寺に入るとき、沢庵和尚が迎え出て問答をした故事にちなむものとのことです。現在でも品川浦と呼ばれる入江が近くにあって、釣り船がもやってある風景が懐かしさを感じさせます。
穏やかな町並みを進み、旧街道筋が山手通りと交差する位置にある聖蹟公園へ。旧品川宿本陣跡にあたる場所で、明治天皇行幸の際行在所となったことから公園名が制定されたとのことです。付近には北品川宿の鎮守である品川神社、南品川宿の鎮守である荏原神社、先述した問答河岸の段でご紹介した東海寺などが鎮座します。前2社はそれぞれ「北の天王様」「南の天王様」として親しまれているようで、六月初旬に天王祭が盛大に開催されていることが表示板に語られていました。北品川と南品川を分ける目黒川を品川橋で渡り、南品川へ歩を進めます。荏原神社が川の北に位置するのは河道の付け替えによるもので、元々は川は神社の北を流れていたという事情があるようです。荏原神社の鳥居前には朱塗りの橋(鎮守橋)が架けられていまして、当社と南品川とのつながりを感じさせました。 南品川の町屋造の建物などが点在するのびやかなを街並みを歩き、緑に囲まれた品川寺(ほんせんじ)の境内へ。樹齢約600年というイチョウ(区指定天然記念物)や江戸六地蔵で知られる古刹です。中でも当寺の梵鐘は品川区とスイス・ジュネーブ市との友好のきっかけとなったものとして知られています。1657年(明暦3)年鋳造とされる梵鐘はその後海外流出したものの、大正期にジュネーブの美術館に所蔵されていることが判明し、多方面の働きかけの結果1930(昭和5)年に品川寺に返還されたという経緯があります。1991(平成3)年、区はジュネーブ市に梵鐘を送り、2つの自治体は友好都市になったとのことです。 その後も旧街道筋を南へ歩き、貝塚で知られる大森駅でこの日の行動を終えました。途中、立会川に架かる浜川橋は別名涙橋とも呼ばれます。1651(慶安4)年に、仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられ、護送された罪人を親族が涙で見送ることからその名があるともいわれます。まだここが江戸の範域でなかった頃場末のこの地で繰り広げられた哀史を思う時、それをも越えて拡大を続ける現代都市東京の光と影を象徴しているようにも感じられました。 |
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