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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜
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#1 深大寺界隈から野川を歩く(調布市〜三鷹市) 東京都下、多摩地域を中心に「はけ」ということばがあります。多摩川やその支流によって形成された河岸段丘崖(によって作られた窪地)を指すことばです。段丘崖は、比較的平坦な段丘面(かつての河川の氾濫原)が一段下の段丘面へと急激に遷移する位置にあることから、上位段丘面の地中を涵養してきた地下水が湧き出します。そのため、段丘崖、すなわち「はけ」には緑豊かな森林が形成されることが多く、古来より農地や集落が開かれてきました。「はけ」を中心とした生活の営み、それを軸に展開される地域文化の「におい」を感じたくて、調布市にある深大寺(じんだいじ)界隈へ向かうこととしました。 新宿から京王線を利用し、調布の駅に到着、深大寺方向へと歩き始めます。この日は朝から雨模様で、時折雨脚が強くなるなど肌寒い天気でした。しかし、駅へは多くの人々がそんな天気を物もともせずに集結してきています。駅前は、都心近郊の住宅都市としての一般的な町並みといった感じで、中高層の建築物が高密度に接近しています。しかしながら、圧迫感は不思議とありません。それは、後背地に展開する住宅地域の穏やかな家並みと、緑がふんだんに配された、しっとりとした景観があったからでしょうか。幹線道路に並行して、歩行者がゆったりと通行できる(通過車両の少ない)閑静なルートが確保されていることも見逃せません。甲州街道から駅前と続く幹線道路の東に、穏やかな商店街(天神通り商店街)の通りがあり、甲州街道の交差点を経て、北に鎮座する布多天(ふだてん)神社の鳥居前まで続いています。「Tenjin St.」と掲げられたアーチも温かみを感じます。
甲州街道は道路を覆うようにケヤキの並木を従えていて、その緑が大正寺、そして布多天神社へ、そしてさらにはその北へと連なっていく閑静な住宅地へと繋がっていきます。雨の降りしきる中、仲秋の緑はみずみずしさの中にあり、紅葉へと向かっていくしずかさの中で、至高の輝きを見せてくれているようでした。電気通信大学、北多摩病院の東の街路を、市の保存木に指定されているサワラの並木に寄り添いながら歩いていきます。途中、「調布都市計画生産緑地地区 調布市」なる表示のある一角がありました。ネギやキャベツ、ブロッコリー、水菜、ナス、春菊などが植えられています。周囲はあらかた住宅地となる中で、こういった畑の存在は、ここがかつては水の得にくい台地上で、畑としての土地利用が卓越していたであろうことを物語ってくれているように思えます。中央道高架下の御塔坂(おとうざか)交差点を経て、野川の流れを渡ると、深大寺の「はけ」はもう間近です。 深大寺は、現在ではおいしい「そば」の名所として有名です。同名の寺院を由来とする深大寺周辺は、国分寺崖線と呼ばれる、多摩川の古い段丘崖を背にしており、木々が青々と生い茂る、「はけ」地形に富んでいました。豊富な湧水も存在し、かつては、「はけ」の湧き水を利用した水田耕作やそばやきびなどの雑穀栽培が盛んに行われた農村地域でした。深大寺のそばも、こうした豊かな水源と農産資源とが結びついたものといえます。1950年代中葉まで使用されていた水車小屋が、「深大寺水車館」としてリメイクされ、一般に公開されています。ここは深大寺地域の民俗を紹介するちょっとした資料館も兼ねていまして、農業に関わる民具が展示され、地形や農作業などを解説した資料が掲げられています。その中で、深大寺においていかに急激な都市化が進行したかを如実に示す航空写真があり、強烈に印象づけられました。館内には3枚の航空写真があり、うち2枚は1961(昭和36)年とその5年後の1966(昭和41)年のものでした。このたった5年間のタイムラグしかない写真を見比べると、住宅地の面積や幹線道路網の拡大が明瞭に見て取れるのです。繰り返します、たったの5年です。この僅かな期間の間に、深大寺は農村地域から都心近郊の住宅都市への階段を一気に駆け上がったのでしょう。こんもりとした「はけ」の森は実にたおやかで、深大寺の建造物群は、穏やかにその緑の中に佇んでいました。
再び野川へ戻り、右岸につくられたサイクリングロードを上流へと歩きます。折からの降水を受けて、野川の流れはいつになく増水しているようでした。両岸は基本的に中低層の住宅地で、間に崖線に由来する森が点在しています。都市化の影響もあるのでしょうか、「はけ」の湧水量は往時と比較して激減しているようで、その湧き水を主たる水源としている野川の水量も当然に少なくなり、降雨時を除き、ほとんど「涸れ川」に近い状態にあるとのことです。人見街道(都道14号線)の手前、三鷹市大沢六丁目地内に、東京都指定有形民俗文化財に指定されている、「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」の茅葺の建物群があります。雨の中、中へ入ると、市民ボランティアのガイドの方がおいでくださり、水車小屋の内部や構造、往時の経営状態について、たいへん丁寧で、分かりやすい解説を頂きました。1808(文化5)年頃に創設されたといわれる峯岸家の水車は、膨張する江戸へ、米や麦、雑穀、豆類などの食糧供給を目的として作られた、いわば「食糧製造工場」でした。1968(昭和43)年の野川の河川改修工事等の影響で水を引き入れることができなくなって以来、水車の操業はとまっていますが、モーターを利用しての生産活動は現在でも続けられているそうです。 水輪(いわゆる「水車」と呼ばれるもの)は直径4.6メートル、幅0.97メートルの規模を誇ります。そこから得られる動力は複雑に連結された万力(木製の歯車)によってたくみに石臼や杵、篩などに伝えられて、大量生産に見事なまでに対応しています。部品は細分されて複雑に組み合わせられており、磨耗した部分のみをこまめに交換することができる工夫が随所になされています。水輪は水に強いアカマツ、主要な部材はケヤキ、楔や補強する部材など頻繁に好感する部分はシラカシ、とそれぞれの特性に対応した部材が用いられています。昔は、こういった水車の製造・メンテナンスを専門に行う「水車大工」と呼ばれる職人がいて、彼らの熟練した技術によって、水車は駆動していました。水車が回らなくなって、36年。文化財は残されていますが、それをいかに動かし、補修し、整備してきたかという、ソフト面での技術は無形のものゆえに、急速に失われていきます。こうした、職人たちの卓越した技術は、大雑把な言い方かもしれませんが、今日の技術大国・日本の礎になっているのではないでしょうか。ボランティアのガイドの方は、今年93歳におなりになるという、峰岸家の当主に指導を受けながら、この水車を博物学的な「遺産」として残すのではなく、実際に動かして、その技術とともに後世に伝えていくという、「動く遺産」にできないかと取り組んでいらっしゃるとのことでした。野川の水がこんこんと流れ込み、水輪が勢いよく旋回する、水車の実現を期待したいです。しかしながら、そのために残された時間はわずかになっています。 |
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