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四国、春の踊る場所
西日本の春は、あたたかさとうるおいに満ちている。人生のほとんどを東日本(群馬)と北日本(仙台)
で過ごしてきた筆者にとって、春とは冬の厳しい寒さを乗り越えてやっと手に入れることのできるものであった。いわば、春は冬が過ぎ去って、そのヴェールがはがされて、ついに訪れた「歓びの時」であったわけである。春は冬によって支配されていたすべての生き物の硬直を緩ませ、いきいきとさせてくれる。それは、冬から春への変化がいかにドラスティックなものかを暗示させるものでもあるといえる。 これに対して、西日本の春は、冬の合間から染み出すようにしてやってくる。早春の四国は、確かに空気は冷たく、澱んだような白い空は、玄冬の寒々しさを連想させた。しかし、冬になってもその緑色を失わない山々や、暖かい空気を抱きしめるように過ぎ行く小川のせせらぎを眺めるうちに、こう確信した。この地では、春は冬の陰に隠れながらも必死にその存在をアピールし、冬の力がなくなるとともにゆっくりとかつしっかりとその歩みを始める、と。今回の旅行は、そんな四国の春の「あたたかさ」と「うるおい」をかみしめることのできたものであったように思う。 |
宇和島城 (1999.3.14撮影) |
鳴門海峡 (1999.3.16撮影) |
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(1)大歩危から祖谷まで
大歩危(おおぼけ)は、徳島県の西の端、高知県北部に源を発した吉野川が北流を始める6kmほどの部分に続く渓流である。大歩危の下流には小歩危という場所もある。西南日本外帯と内帯とを分ける中央構造線に沿った地層をちょうど横切る形になるため、渓流の両岸は結晶片岩の列が下流へ45度の角度で規則正しく傾斜している。その岩の形の美しさもさることながら、一際目を惹かれたのは、木々の緑のかがやきだった。 時は春とはいえ、まだ3月中旬、天気は曇りで、川面をわたる風は確かに冷たかった。しかし、両岸を覆う植生は、照葉樹などの常緑広葉樹が多かった。その意外なほどにあおあおとした姿に、南へ来たという歓びとともに、春の訪れを噛み締めた。当たり前にやってきている「春」の存在感を肌で感じながら、しばし船上からの眺望を楽しんだ。吉野川の流れは、春のあたたかさを受け止めるようにゆるやかに過ぎ行き、その懐のなかに、やがては「四国三郎」となる雄大さを隠しているように思われた。
阿波池田から祖谷にかけては、ほんとうに平地の少ない山の中である。谷は深く、山は急で、猫の額ほどの平らな土地さえほとんど見受けられない。しかし、土讃線の車窓からは、ちょっとした緩斜面に、集落や段々畑がささやかに開かれているのがしっかりと見て取れた。なかでも、時折小ぢんまりとした茶畑がぽつり、ぽつりとあるのに目がとまった。しずかに齢を重ねたなめらかな稜線と、それを幾重にも重ねさせてきたV字谷、斜面に寄り添うようにならぶ家々や畑、そのなかに、茶畑の列がぴったりと溶け込んで、しっとりとした山里の情景を作り出していた。実に奥ゆかしい光景であった。 険しい斜面、深い谷、みどりうるわしい木々、ぽつんとある集落、畑、裏の竹林、その間の茶畑、曲がりくねった細く、坂のきつい山道・・・。険しいようでふところのひろいような「ゆるやかさ」を持つ山々を眺めながら、土讃線は徐々に下りにさしかかり、高知平野へと続いていく。
「大歩危、早春の装い」 春まだ浅き山中、渓流の水はいまだに少し冷たく、 奇岩の迫りくる両岸の灰色をきわだたせる 岩は規則正しく幾筋もの層をなし、 ゆるいながれをつつましく見送る 風が冬の余韻を船上に残しながら過ぎ、 てかてかと光を返す照葉樹林はそれをやさしく緩和させる 岩の形がめまぐるしく変化しようとも 水流がけたたましい飛沫を上げて逆巻こうとも それらはいっさいがっさいで春の訪れをうたい、 よろこび、たわむれ、うごきまわっている 遠くかすかな山の端がうすくにじみ、 うすぐらい空の中へと溶け込んでいく その空と山の端とのあわいは 心なしか、眩しく感じられる |
(2) 高知から足摺岬まで
四国は、文字通り、阿波、讃岐、伊予、土佐の四つの国からなる島という意味だ。現在も、その徳島、香川、愛媛、高知の4県がそれぞれの国を受け継いでいる。しかし、その内実は、どうも「四つの国(県)がまとまった」という風ではないようだ。高松は四国全体を統括し、コンパクトにまとまったどこか「圧迫感」のある中核都市であるのに対し、これから書くことになる高知は南の海を遙かに見据えながらのびのびと成長した「開放的」な中心地といった感じだ。どこかがどこかを完全に支配してしまうといった他の地方の様相とは異なり、4つの個性が互いを尊重しながらスクラムを組む共同体であるといってよいのではないか(松山と徳島については後述します)。その中で高知という町の持つ個性は、まさに底抜けに明るいということであったように思う。
高知駅南の広場から、はりまや橋を経て高知港へと続く「桟橋通り」は、両側に背の高いフェニックスの木が立ち並び、道路も歩道も広く、先の高松で感じたせせこましい町のイメージとは対照的であった。「川のない橋」と揶揄されていたはりまや橋もリニューアルされて、柳の揺れる川に影を落とす豊かな風情を取り戻し、町の明るさにちょっとしたアクセントを与えていた。はりまや橋で桟橋通りと直交する「帯屋町商店街」も、幅の広いアーケードが印象的な中心商店街であった。店の間口は広く、路上に放置される自転車も少なく、この点でも高松とは好対照であった。また、街のつくりの面では、青果物を中心に取り扱う店、魚介類を扱う店、雑貨を揃える店、珊瑚製品などの名産品を並べる店と、店の種類ごとにまとまっている様子であった。これが戦後の街づくりの中で意図的になされたものなのか、城下町時代からの伝統を受け継いでいるものなのか、いずれにしろ興味深く受け取った。 高南(こうなん、高知県南西部はこう呼ばれているらしい)は、海と山が隣り合わせに向き合う土地であった。高知から、高岡、須崎、窪川、そして中村へと続く国道56号線は、そんな高南を象徴しているような道路だ。磯辺を走っていたかと思うと、突然急勾配の坂を駆け上がって豊かな竹林をはらんだ高台に至り、そこを流れる川に沿って再び海辺に戻るというように、周囲の光景はめまぐるしく変化してゆく。緑鮮やかな山の木々、清らかな水にゆるやかに潤される川、春の雨にしっとりと濡れ、春の風にざわざわ揺れる竹林、集落、磯、浜。どれもが南国の穏やかさにつつまれながらひとつになって、春の到来を歓び、讃えているように感じられた。そして、この路の果てには、これまで見てきた風景を総括するように四万十川の流れがしずかに横たわっていた。
四万十川は、「最後の清流」と呼ばれる。全長196キロメートルにも及ぶこの川には、現在に至るまで大規模なダムが建設されたことがないことに加えて、流域のきわめて良好な自然環境や、棚田や伝統的な漁法の残存といった歴史的な人文環境などが、この川を清流と言わしめているのであろう。高知県西部の中心地中村あたりの四万十は、春の雨を軽やかに受け止め、あたたかさをその身に纏いながら、あくまで淡々と流下していた。そこには、ただ静かさ、豊かさ、そしてこの上ない瑞々しさがあった。最後の清流という言葉の意味を訴えかけているかのように。両岸に広がる菜の花の黄色の上を、完成したばかりの土佐くろしお鉄道宿毛線のレールを、二両編成の列車がさっそうと通り抜けていった。 足摺岬に着くまでには、雨と風がいよいよ強くなっていた。土佐清水から岬へ至る道路は所々で濃霧に包まれており、岬を見物にやってくる観光バスも、ほんの十数分くらいでそそくさと観光を終えて去っていた。さすがに、室戸岬と並び、強風の名所と呼ばれる場所である。最もこの岬の特徴が現れている時に訪れることができたのは、ある意味では貴重な体験であったといえるかもしれない。しかし、気温は18℃と、あたたかい春の嵐であった。
「足摺岬」 突然に亜熱帯色の植生に変わる 半島の中央のスカイラインは、春先の嵐のなか、 真っ白な濃霧に包まれている ウバメガシのトンネルの向こう 岬の突端には白亜の灯台、さかまく風、 たたきつける雨とに岬はさらされている 海は白みがかったアクアマリンの色から、 明るい黒みがかった青、そして青みがかった黒へと色を沖へと伝えて 「黒潮」のグラデイションをつくっている その上を、春の嵐の絵筆が、 波の白い絵の具を塗りつけたり、消し去ったりしていた なにがあっても、なにがおころうとも 岬の日常はたんたんと流れていく 雨の日でも 海が空と同じ色にかがやく日であっても |
(3) 中村から松山まで
中村を出発して、途中窪川で列車を乗り換え、予土線に入った。雨が降ったり止んだりの天気の下、一両きりのワンマン車両が四万十川上流の谷へと進んでいく。四万十川は、高知県中部に源を発し、いったん南流するものの、窪川あたりから一転して北流を始め、四国山地の懐、愛媛県境付近をなめるようにして再び南へ向かい、中村市で太平洋に注ぐ。このような特徴的な流域のため、窪川付近の四万十川は、上流部であるのに、海からはわずか10キロメートル足らずの距離となる。後にしたはずの川の上流部に、海岸からわずかな時間で再び遭遇するのは本当に不思議である。しかも、そこにあったのは、下流部の幅が広く悠然と構えていた姿とは似ても似つかない細い流れであった。
ごつごつした岩の露出した河床を洗う頼りない水流は、のたうちまわりながら、見えたり見えなくなったりしていた。靴を脱いでズボンを膝までまくれば、歩いてわたることができそうなほどであった。欄干がなく幅の狭い、水かさが増せば水面下に沈む橋が所々に架けられていた。これは沈下橋といい、橋が簡単に流されないようにするための工夫である。つまり、沈下橋の存在は、この川の荒々しさを示すものといえる。四国山地のいくつもの東西に走る地層を浸食してきたこの川の力をそう甘く見てはいけないようである。そう考えながら、ちょろちょろした川の流れを見やり、自然の力のすごさと意外さとを感じていた。 宇和島は、人口6万5千ほどを数える南予の中心都市である。足摺岬から佐田岬までの間に連なるリアス式海岸の入り江の一つに発達したこの街は、伊達政宗の長子秀宗を祖とし、その後もその子孫や伊達家の係累によって代々治められてきた。市内には伊達博物館があり、仙台伊達氏と宇和島伊達氏とのつながりを中心に、宇和島の近世から現在までの歴史を物語る展示がなされていた。
四国最大の都市松山に到着したのは、夜の8時過ぎであった。再び激しく降り始めた雨の中ではあったが、旅程の都合上明日の早朝にはここを出発しなければならなかったため、駅前に確保しておいたホテル荷物を置いてから、市電に飛び乗り、道後を目指した。道後へは、JR駅前から市電で約20分、終着の道後駅で下車し、土産物屋の並ぶアーケード街をさらに5分ほど歩く。この日は夜が遅かったため、道後温泉名物の休憩所は利用できず、本館の神の湯での入浴のみとなった。重文に指定されたばかりの道後温泉の本館は、築100年以上を経過しているとのことで、歴史に裏打ちされた重厚さが目を引いた。しかし、その頑強な建物は同時に満ち溢れる庶民性をも兼ね備えている。それは、夜10時を過ぎてもなお威勢良く店を開けて客を呼び込む土産物屋の喧騒に相対しながらも、それをやさしい眼差しで見つめながら、温泉にかかわるすべての人たちの日常を受け止め、芋を洗うような人の波を今日も迎え入れている。人情と歴史と豊かな風土に支えられ、実に生き生きとした表情を見せているのが、とても眩しく感じられた。しなびた感じの浴場は、現在は近代的なシャワー設備を備えた設備に改装され、利用しやすくなっている。庶民の温泉は、一歩一歩進化している。
松山の街については、短い滞在時間のために、まともな印象をもつことはできなかった。夜、雨の降る中、道後までの市電の往復で見やった街の印象だけが、ここで取り上げることのできる、唯一の松山の特徴である。駅前から松山上の堀の南側、中心商店街である大街道、道後へと至るまでの街並みは高層ビルに覆われ、雨天、日曜の夜ということを差し引いても、賑やかであるように思われた。次にここへ来ることができるのなら、もっとよく街を歩いて、味わいたいものである。 |
(4) 琴平から徳島・鳴門まで
琴平は、「金毘羅さん」と呼ばれる金刀比羅宮の麓に開けた門前町である。現在は、JR琴平駅から金刀比羅宮山門までの間に市街地が広がっている。山門に近い土産物を扱う商店街は、石段に沿って開かれており、山門まで籠で登ってくれるサービスをも行っている。250段ほど石段の町を上り詰めると、いよいよ金刀比羅宮の境内に入る。ここからは、きつい約500段の上り坂を登っていかなければならない。春先のさわやかな季節とはいえ、雨上がりのむっとするような空気と雲間からのぞき始めた日差しのために、徐々に多量の汗が吹き出してくる。息もあがってくる。これこそ、“ご利益”であるとはいうものの、780段あまりの階段を登るのは、いささかきついものがある。駅から30分ほどしてようやく頂上の本堂に辿り着くことができた。 疲れきった体には、本堂の荘厳さよりも、眼下に広がる讃岐平野の風景を眺めながら、涼しい風に吹かれることのほうがより魅力的であった。頂上から見下ろす讃岐平野は、実に穏やかな広がりを見せ、北東にはかすみながらも讃岐富士の容姿をはっきりと見ることができた。讃岐山脈の山並みから、ゆるやかに瀬戸内海へと続く讃岐平野は、点々と分布する集落に象徴される豊かな歴史と文化の舞台である。金毘羅さんの厳かな佇まいもあいまって、讃岐の春は和やかに過ぎ、新たなる歴史へとつながる蓄積へと昇華してゆく。
その日の午後、阿波池田から徳島線に乗り継いで、徳島へと至った。徳島の中心市街地は、市街地西に聳える眉山(びぜん)から、JR徳島駅までの2キロメートル四方ほどの比較的狭い範域に展開している。そのためか、デパートやホテルなどはその多くが駅前に集中して立地し、かなりまとまった街という印象を受けた。市街地を南北に流れる新町川沿いは、最近はやりのいわゆるウォーターフロントを活かした公園として整備され、また両国橋の欄干には、阿波踊りを踊る人をかたどったブロンズ像が飾られるなど、徳島の個性を活かした街づくりが進められており、目を引いた。その一方で、そのコンパクトさゆえにちょっと街を外れると街並みが雑然とするようになり、まだまだ整備を進めるべき地区もまた多いように見受けられた。もっとも、たいていの街は、その街を象徴する華やかでどこかよそ行き風の部分と、そこに住む人々の日常を支える庶民的な部分とをあわせ持っているものである。日本の場合、前者の部分は、「リトル東京化」ブームで、統一化されてしまった感があるため、むしろ後者の部分にこそ、その街の真の姿が隠されているのかもしれない。阿波踊りで盛り上がる徳島の持つ、飾らない風情こそ、逆に守ってゆくべきものなのかもしれない。
翌日の鳴門海峡は、快晴であった。今では相対する淡路島との間に大鳴門橋が架けられ、そこへ向かって近代的な高速道路が敷設されている。しかし、そういった高速道路等の施設を除けば、そこは干されたわかめと、わかめに灰をまぶすためにぐるぐると回るドラム缶が浜辺に並ぶ、至極のどかな南国の地だ。浜辺にまで迫りくる周囲の丘陵は春の日を受けて落ち着いた緑色に微笑み、きらきらとかがやく海とともに、春の和やかな一日の風景に溶け込んでいる。風は微妙に寒さをはらんでいて、かすんでしまいそうな春の情景にちょっとしたアクセントを与えている。大潮のタイミングを見計らって、観潮船にのりこみ、瀬戸内海と太平洋の潮位差によって引き起こされる海面の変動を楽しんだ。周囲の光景は相変わらず春を表現している。そのなかで、うず潮は淡々と漲るエネルギーを発散させていた。
「鳴門海峡」 いっぱいに日の光を受けながらも 海をわたる風はまだ少し冷たい 大鳴門橋越しに見える沖の水平線は きらきらかがやいてやさしくまたたき 遠くの島影をいきいきと照らし出す ごおっ、ごおっ、ざぱあっ、しゅう、しゅう 船がだんだんと潮の動きに戸惑い始める デッキに出れば、 マリン・ブルーの海がナイフで次々と切り裂かれ 白い傷口をあちらこちらにあらわにしている ずばあっ、ばしいっ、ずん、ずん、どおっ 海の血潮が頬をかすめてかっと舞い、 空へと昇ってえもいわれぬ宝石に変わってゆく 動き、逆巻き、歌い、涙し、暑く、寒く、 空が、海が、風が、光が、水が震撼する 遠くの山や海はいたって落ち着いた 春の佇まいを保っているというのに |
Regional Explorer Credit | |
1999年3月11日 | (出発は前日)仙台から列車を乗り継ぎ高松に入り、宿泊。 |
12日 | 電車にて阿波池田に入り、そこから、大歩危(ライン下り)、かずら橋、祖谷峡を経由して再び池田に |
戻る定期観光バス乗車後、高知に入り、宿泊。 | |
13日 | レンタカーにて、高知市内(高知城、桂浜、はりまや橋など)を回った後、一路四万十川、足摺岬へ。 |
中村市内で宿泊。 | |
14日 | 再び電車で、四万十川に沿って進む予土線に乗車。宇和島市内(伊達博物館、宇和島城など)を散 |
策後、松山市内に入り、道後温泉に入りながら、宿泊。 | |
15日 | 松山を朝早く出て、予讃線、土讃線を乗り継ぎ、琴平へ。金毘羅さんにのぼり、讃岐平野を一望。再 |
び阿波池田に入り、今度は徳島線で徳島に入り、宿泊。 | |
16日 | 徳島から鳴門に向かい、鳴門の観潮船にのって、渦潮を体感。そのまま淡路島にわたり、北淡町の |
震災公園(活断層が保存されている)を見学後、大阪に向かい、地元に向かう高速夜行バスに乗車 | |
※文中で言及した高知県中村市は、2005年4月10日に西土佐村と合併して四万十市(しまんとし)となっています。 |
<謝 辞> この「四国、春の踊る場所」は、グリグリさんが運営されている個人サイト「都道府県市区町村」コーナーの掲示板である、「落書き帳」の中で連載させていただいたものです。グリグリさんには、たいへんお世話になりました。謹んで御礼申し上げます。 |
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