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2018年5月3日から4日にかけて、初めて佐渡を訪れました。新緑の季節を迎える一方で、日本海側独特の寒気も経験した訪問でした。 多様な地形や文化に彩られた、島の風景を概観します。 |
訪問者カウンタ ページ設置:2020年4月9日 |
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トキの森公園から外海府海岸へ 早朝から関越自動車道を走らせて新潟へ。信濃川河口、万代島と呼ばれるエリアの先端に位置するフェリーターミナルへと向かいました。天候は曇りで、わずかに雨が地面を濡らしている状況です。ゴールデンウィーク初日であり、比較的多くの車列がフェリーの出航を待っているようでした。私は事前に島内の宿泊付きの往復乗車券を手配していたので、到着後早々に受付を済ませて、乗船口から整然と並ぶ自動車の最後尾に車をつけました。午前9時過ぎ、多くの乗船客を乗せたフェリーは、信濃川の河口部からゆっくりと進み、日本海へと出港していきました。船内には「この航路は国道350号線です」との表示がありました。訪問時(執筆時)現在、佐渡への航空路線は運休中で、地域の人々にとっても身近な交通路であることがうかがえます。
佐渡島は新潟市から西へおよそ45キロメートルに位置しています。新潟港から佐渡島の両津港への所要時間は、カーフェリーで約2時間半を要します(高速船ジェットフォイルも就航しており、こちらは約1時間5分)。島の面積は855.34平方キロメートル、およそ5万8千人の人々が暮らしています。本土及び北方領土、沖縄本島を除けば日本最大の島です。沖縄本島はいわゆる離島の扱いを受けないため、佐渡島は「日本最大の離島」であるとも言えます。この規模の離島の生活と経済を支えるため、6階建ての大型フェリーが就航しています。絨毯張りの船室で休息をとりながら、曇天で視界が制限される海原を眺めていました。やがて、カタカナの「エ」のような形をした東側の小佐渡山地の山並みが見え、次いでその奥に北側の大佐渡山地が横たわるようにして眼前に現れて、その両山地の間に広がる国中平野の東を占める加茂湖に面する佐渡島の中心地・両津港へと到着しました。フェリーから自家用車でそのまま島へ上陸し、ドライブを始めます。 佐渡島は上述のとおり、北側の大佐渡山地と南側の小佐渡山地が北東から南西の方向に並行し、その間を国中平野がつなぐ形となっています。日本海を広く眺めますと、北には男鹿半島、山形県酒田沖には飛島、新潟県もう一つの離島粟島、そして西側には能登半島の山塊があります。これらの高まりは一直線上に連続していまして、日本海が形成される過程で同じメカニズムで形成されたものです(男鹿半島や能登半島は、たまたま本土と陸続きになっているだけ)。国中平野は離島でも最大級の低地で、有数の穀倉地帯として島に生活の糧を与えてきました。海の一部が砂州の発達によって塞がれてできた「海跡湖」である加茂湖の湖岸を進み、水田に水が引き入れられ始める田園の中を車を走らせた先に、特別天然記念物であるトキを保護しているトキの森公園へ。豊かな森に包まれた施設では、多くのトキが羽を休めていて、佐渡の大地に息づく様子を確認することができました。
国中平野を貫通する国道350号に出て北へ、全島が「佐渡市」となる前は、島で唯一市政をしいていた両津の町並みは、新潟らしく古い町並みにアーケード状の雁木が重なるものでした。その穏やかな風景を一瞥しながら、県道が貫通する海岸沿いへと躍り出ました。雨はほぼあがっていましたが、曇天と冷たい風が吹く天候は相変わらずで、立夏が近い時候にあっても冬の寒さをわずかに残した寒の戻りが感じられました。右側に見えてきた海も空の色を投影して鈍色に沈んでいます。ここからは島の北側、大佐渡山地を大きく回るルートを辿ります。外海府海岸佐渡島北部の海岸は、東海岸を「内海府海岸」、北端を回って西側の海岸を「外海府海岸」と呼びます。県道はやがて道幅が狭くなり、急峻な岩のような山肌が直接海へ落ちるような海岸を縫うように進むように変化していきました。佐渡を構成する山塊が継続的に隆起を繰り返しながら、海食を受けてきた経緯を感じさせる景観です。 やがて島の北端に近づくにつれて、海岸段丘の平坦面が顕著に認められる場所があって、水田が開かれている箇所も存在していました。この周辺には、二匹の亀がうずくまっているように見える「二ツ亀」や、火山活動で形成された粗粒玄武岩の一枚岩である「大野亀」といった景勝地があり、四季折々に極上の自然風景を見せてくれています。この日は前述のとおり寒の戻りの冷たい風が吹く中での訪問となりました。5月中旬から6月にかけては、大野亀一帯の草原はトビシマカンゾウの大群落で埋め尽くされます。草原の中を歩きながら、トビシマカンゾウのつぼみをたくさん見つけました。周辺にまとまった森林がないことが、冬の北西季節風が打ち付ける冬季の厳しい気候を彷彿とさせていました。
外海府海岸に出てからは、風景はより一層その精悍さを増していました。岩場を荒波が洗い、急傾斜の山が直接海に落ち込むような地形が連続していきます。道路は障害物となる岩肌をトンネルでくぐったり、つづら折れで上って迂回したりと、苦労しながら沿岸をつながっていきます。局所的には広い海岸段丘面が広がって集落や水田が開かれていまして、厳しい自然環境の中で、それに寄り添い生きてきた地域の歴史を感じさせました。尖閣湾は、火山活動により隆起した場所が時間をかけて浸食されて断崖絶壁と岩礁を作り上げた奇勝です。尖閣湾に着く頃までには晴れ間も覗き始めていましたが、相変わらず日本海は荒れ狂っており、通常は運行されているグラスボートもこの日は欠航していました。日が徐々に傾きはじめ、海原に柔らかい日射しが落ちて、京免のように輝いていたのがとても印象的でした。背後の山々はだんだんと新緑に染まりつつあるやさしい色合いを見せていてました。続いて、佐渡島の経済を長く支えてきた、著名な佐渡金山へと向かうこととしました。 佐渡金銀山と相川の町並み 外海府海岸を南下するドライブを終えた私は、佐渡金山史跡の残る相川の町へと入りました。佐渡金山といっても、島内には西三川(にしみかわ)砂金山、鶴子(つるし)銀山、新穂(にいぼ)銀山、相川金銀山をはじめ多くの金銀残が存在しています。その中でも、相川金銀山の規模が大きく、多くの史跡指定を受け観光の拠点ともなっていることから、一般的に佐渡金山と言えば、この相川金銀山を指します。1601(慶長6)年に金鉱が発見されて以来、藩政期から近代にかけて我が国有数の金山として機能しました。
相川の町を抜け、大佐渡スカイラインへと続く山道に入って、国の史跡「佐渡金銀山」の指定を受ける坑道入口へと到達することができます。長きにわたって採掘が進められた坑道の総延長は約400キロメートルにもなり、現在はその一部が観光向けに公開されています。江戸初期における採鉱跡である宗太夫(そうだゆう)抗と、「道遊の割戸」と呼ばれる、山がVの字型に割れるような形をした露天掘りの跡を残す「道遊抗」を中心に、往時の金銀山の実際の姿を、確認することができました。道遊抗は1899(明治32)年の開削で、近代化された構内にはトロッコが走り、地上まで金鉱を運搬していました。金山は1989(平成元)年まで操業を続けたのだそうです。周辺には近代における鉱山関連施設が史跡として残り、往時を偲ばせていました。 現在は山並みの木々に覆われほぼ同化していますが、その山林の中にはかつては鉱山町として栄えた上相川や上寺町といった町が存在していました。数多くの史跡が豊かな自然に埋まりゆく風景は、佐渡金銀山が歴史の中でいかに急激に勃興し、やがて廃れたかを如実に物語っているようでした。この日は佐渡金銀山の坑道見学で活動を終え、大佐渡スカイライン上の展望台「白雲台」から国中平野や小佐渡山地のパノラマを眺望した後に、両津の加茂湖畔に確保していた宿へと向かいました。翌日は、佐渡最高峰の金北山をはじめとした山々を目の前にしながら前日とは逆のルートで相川へと進みました。相川は佐渡金銀山のお膝元として、鉱山町として存立するとともに、藩政期には奉行所が置かれるなど、一貫して佐渡における行政の中心地として栄えてきました。市役所支所に車を止めて、町としての相川を散策しました。
相川の町は、日本海に開けた海岸段丘上に市街地を発達させています。海岸沿いの町並みを抜けて、その段丘崖を上る西坂の石段を上ります。佐渡奉行所跡まで続くこの道筋は、随所に曲線が設けられて防御も考慮されていると説明されていました。所々に草が生える路面や空き地のある風景などに時代の変化を感じさせながらも、洋風の建物もの残されていまして、この町が封建時代から近代にかけて、活況をつないできた時間を感じさせます。坂を登り切りますと、穏やかな町並みの向こうに日本海の海原を快く眺望することができました。時を経て穏やかな風合いを増した赤レンガの塀のある路地を進み、時鐘楼へ。鐘は1713(正徳3)年の鋳造で、鐘楼は1860(万延元)年の改築と伝わるその鐘は、明治初年(1868年)まで、相川の町に時を伝え続けていたのだそうです。 時鐘楼前から続く昔ながらの町並みは、京町通りと呼ばれます。相川の豪商も住んだとされるこの通りには、現在でも往時を感じさせる町や景観が残されていまして、金山とともに栄えたこの土地の残像を濃厚に記録しています。この通りを軸に、多くの小路が分岐して、賑やかな町場が形成されていました。通りに設置された案内地図には、「八百屋町」や「米屋町」といっ、職業にまつわる地名や、高瀬小路や風呂屋小路といった多彩な小道の名前、そして蔵人坂や慶民坂など、人々が日常的に往来した生活感を感じさせる呼び名など、人々が金山を中心に暮らした風景を思わせる豊かな地名が書き込まれていました。京町通りを過ぎますと、道遊の割戸を遠望する一角を通過し、江戸初期に鉱山の大工が住んでいたという大工町へと至ります。相川では大工(でいく)とは鉱山で金を穿つ人工を指し、一般的な家を建てる大工は番匠と呼びました。このあたりでは家の密度も少なくなり、土台や石垣のみとなった区画も多く認められます。傾斜地に市街地を広げた相川では、随所に石垣が用いられて整地がなされています。採鉱の際に副産物として岩は豊富に産したと想像され、それを余すところなく利用した結果なのではとも考えました。
大工町から先は、町並みも途絶えて、見た目には山の中を道路が続く形となります。このあたりが、前日に金山の史跡あたりから俯瞰した、自然の中に戻りつつある、かつての鉱山町-上寺町-の史跡ということになります。木々に覆われた地面には石垣が点在していて、この場所がかつては人の住む近隣であったことをわずかに語りかけています。付近には、水替人足(無宿人)の墓があって、江戸時代に大坂や長崎の天領地から瀑布の治安対策のために佐渡に連れてこられ、水替(鉱山から湧出する水を汲み出す作業)に追われてこの地で一生を終えた人々の哀史がそこにありました。万照寺の甍を仰ぎながら、諏訪町の家並みへと進み、京町通りへと戻りました。万照寺は上寺町にあった専照寺と諏訪町の万行寺が合併した経緯を持ちます。 時鐘楼から赤煉瓦の塀のある通りを北へ進みますと、佐渡奉行所跡に行き着きます。天領であった佐渡を統括した奉行所跡では、御役所の施設が復元されて、奉行所の佇まいを実感することができます。奉行所跡から段丘崖を下った濁川の谷筋には、佐渡金銀山が近代化された時代の遺構が大規模に残されています。北沢地区と呼ばれるこのエリアには、斜面を利用した浮遊選鉱場や液体中の固形物を分離するための装置である巨大なシックナーが残されていまして、明治期以降における大規模な金の近代的な採掘現場の凄みを今に伝えていました。
佐渡金銀山の長大な坑道のごく一部でありますがそれを概観し、その後で海岸から山間部まで広大な市街地化がなされた相川の町を散策した行程は、金や銀という付加価値の高い鉱物を貪欲に求めた人々の、飽くなき挑戦と破却の歴史を鮮烈に印象づけるものでした。採鉱を終えると「潔く」町場を捨てて、新たな現場へと移るという光景は、この地にとどまるのはあくまで金のためであり、この土地に執着するものではないとでも言わんばかりの、圧倒的な合理主義であるようにも思われます。ただひとつ、この町が天領の拠点となったことが、現在でも相川を佐渡における行政の中心として位置づけさせているということが、地域における重要な資産であると言えるのかもしれません。 北前船の寄港地、宿根木の景観 佐渡島の最後の訪問地は、島の南西端に近い場所に位置する宿根木(しゅくねぎ)です。江戸時代から明治初期にかけて、日本経済の大動脈であった北前船による交易の拠点の一つとして栄えた町並みが残る場所です。旧宿根木小学校の校舎を転用した佐渡国小木民俗博物館内には、巨大な千石船が復元されていまして、往時の物流がどのようなものであったかを端的に物語っていました。
博物館にそのまま車を止めて、徒歩で宿根木の町並みへと向かいます。宿根木は廻船業によってその都市基盤をつくりだしてきたことは、最初に指摘しました。日本海の只中の佐渡島にあって、北西風から逃れたり、風待ちをしたりするにあたり、宿根木の位置はとても適していたということでしょう。海岸段丘の平坦面を小河川が削る、小さな谷間を埋めるように、建物が軒を連ねています。水田が広がる段丘面から、藤の花が鮮やかに咲く「十王坂」の階段を下っていきます。坂道の途中には共同井戸があります。江戸時代中期頃より宿根木の人口は急増し、高台にまで人家が進出したとのこと。水の得にくい高所の利便のため、この共同井戸が利用されたもだそうです。坂を下りきりますと、この谷内を削る小川を中心に、昔ながらの家並みが続く風景が一気に広がりました。 瓦屋根が古い校舎を思わせる宿根木公会堂の建物を一瞥しながら、小川を上流に見ますと、村の鎮守である白山神社があり、さらに進んだ集落の最奥部には、1349(貞和5)年の創始とされる時宗の古刹、称光寺が佇んでいました。本堂は1923(大正12)年の火災で焼失していますが、こぢんまりとした風情が森に溶け込む山門は延焼を免れ、1713(享保2)年)の棟札の存在する来歴を持ちます。宗門には海に関する職業に就くものが多いようで、海とともに暮らしてきた宿根木の過去と今を静かにつないでいるようでした。町を流れる小川は、この寺の名を取って称光寺川と呼ばれているようでした。その称光寺川の清冽な流れに沿って、石畳の道を進んでいきます。
宿根木はその制約された立地から、集積する家屋はその土地に合わせた形状をしているものが少なくありません。称光寺川の右岸側で道が二股に分かれる場所にある「三角家」は、その名のとおり建物が三角形をなしています。この家の前で川が微妙にカーブして東側に回っているのは、この三角家が川の中洲を埋め立ててつくられたことによるものです。こうした事情にも、狭小な土地に以下に多くの人々が集住して、土地需要が逼迫していたかを感じ取ることができます。三角家をはじめ、いくつかの民家は内部を一般に公開していまして、その穏やかな概観と、内部における質実ながらも随所に贅を尽くした設えが、廻船業などにより栄えたこの町の凄みを今に伝えています。清九郎と呼ばれる公開民家はその特徴がさらに鮮明で、内部は広々とした渋塗りの広間があり、ふすま絵や瀟洒な庭の風情など、外側からは一見して垣間見えない、慎ましやかな華美を表出したものとなっています。 清九郎の前を通り、小さな畑が家の間につくられた場所などを一瞥しながら、突き当たった小路は「世捨小路」と呼ばれます。海から集落をまっすぐに入り、崖上へと向かうこの道筋は、宿根木の集落の中でも最も主要な道の一つと位置づけられますが、その名の由来ははっきりしないそうです。ただ、海岸から神社、奥の寺へと向かう人は必ずこの道を通ったし、逆に寺から出た霊はこの道辿って村を後にすることとなりました。世捨小路を歩いた先には、大浜と呼ばれる海岸へ。現在は県道が貫通していますが、以前はその名のとおり海に隣接した広場のような浜辺であったようです。小さな入江となっている海岸は晩春の日射しを受けて極上の輝きを見せていまして、小さな谷筋の村を波浪や風浪から守っていました。海に近い場所には御影石でつくられた「船つなぎ石」も残されていまして、千石船が行き交った往時の歴史を今に伝えていました。
大浜からは再び宿根木の集落をそぞろ歩いて、その独特な風情に親しみました。家々を形成する、分厚く風格を感じさせる板は「腰板」と呼ばれるもので、千石船建造の際に余ったものや、配線になった船の部材を再利用したものであるのだそうです。船に利用される木材なのでその厚さは一定規模のものであり、建材としてもこれ以上無い頑強さを持つものでした。宿根木の建物は多くは船大工の手によるもので、こうした面からも、日常生活のすべてが海運業と密接につながっている地域の特性が十分に表れています。数少ない洋風建築である旧郵便局舎などを観察しながら、世捨小路を上って再び崖上に出ました。そこからは、海に向かって狭い間口を広げる宿根木の家並みを美しく見下ろすことができました。 エピローグ 〜“小宇宙”としての佐渡〜 宿根木からは、たらい舟で知られる小木の町並みを概観した後、小佐渡山地の南側の穏やかな町場が広がる赤泊の風景を確認して、真野方面へ、新緑が輝き始めていた小佐渡山地の只中を進む山道を、車で駆け抜けました。赤泊までは青空を覗かせていた佐渡の空も、まだ上空に残っていた寒気の影響で午後は激しい雨模様となり、真野宮を訪れたところで佐渡での活動を終えることとしました。午後4時過ぎ、両津港から出港したフェリー上からは、雲間から茜色をわずかに覗かせる太陽を、水平線の上に眺めることができました。佐渡は、我が国における最大の離島であることはこれまでも指摘してきました。ただ面積が大きいというだけでなく、比較的急峻な山々と、それらに抱かれた茫漠たる平野を擁することも、佐渡の特長の一つです。
豊かな鉱産資源の存在や、北前船による交易の歴史、そして一定規模の耕作を行える平地の存在、これらが地域の中で共鳴し、相川や両津、小木などの、性格の異なる多くの都市集落を生み出しました。いわば、島内で完結する、独自の文化圏というか、経済圏を形成してきたことが、佐渡の何よりの魅力であると言えるのかもしれません。本文では水替人足の下りで部分的に取り上げましたが、佐渡は配流の土地としての史実も残ります。そうした地域の歴史の光と影を咀嚼しながら、輝かしい風土を磨き上げてきた佐渡の島影を、島から離れゆく船上よりしばらく眺めていました。 |