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シリーズ京都を歩く
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9.山裾の寺社をめぐる |
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第二十三段 島原から嵯峨野へ 〜雨中の幽玄〜 2009年12月5日、灰色の空の下、雨に煙る京都駅を出発しました。四季それぞれにさまざまな表情見せる京都にあって、やわらかな雨はその情景にいっそうの静かさを与えているように思います。世界遺産「古都京都の文化財」の構成遺産の一つである西本願寺(正式には龍国山本願寺。東本願寺と通称される真宗本廟と区別するために西本願寺と呼ばれます)の境内にある大銀杏は初冬の小雨を黄葉した枝いっぱいに浴びて、静寂の中に身を委ねていました。京都駅前の近代的なビルが林立するエリアに近接して壮大な堂宇を並べる二つの本願寺の伽藍は平安遷都から都市としてのキャリアを連綿と繋いできた京都の道程をつぶさに体現しているものといえるでしょうか。 その西本願寺とJR山陰線(嵯峨野線)の鉄路との間に、官許の花街として繁栄を築いた島原の街並みが、揚屋(料亭)や置屋の建物や島原大門などの建造物とともにひっそりと時を刻んでいます。住所地名の西新屋敷に対し、街として島原と呼びならわされるのは、花街自体が1641(寛永18)年に官命により前身地から移された騒動が、ほぼ同時期に発生した九州の島原の乱を思わせたためであるとする説明が多くの文献などに認められます。地名の由来一つとっても、この都市の並々ならぬ歴史を感じます。
中央卸売市場の施設群を抜け、JR丹波口駅から嵯峨野線を利用し、JR嵯峨嵐山駅へ。渡月橋から眺める嵐山の風景は、所々に赤く染まった木々や乳白色の霧を山肌にまとって、灰色の空の下、幽玄の絵巻の中にありました。保津川に沿って亀山公園方面に歩く道すがらのカエデも徐々に色づいて、雨露を滴らせる風景は、川面が見せる翡翠色の微光もあいまって、非常に美しく目に映ります。 野宮神社付近の竹林の道を歩き、大河内山荘の東を曲がって小倉池のほとりを北へ進み常寂光寺の門前へと抜けるルートは、紅葉の木々の下を気持ちよく散策できるルートとしてシーズンには多くの人通りがあります。枝いっぱいに燃えるような赤や黄色を散りばめる樹上の紅葉はもちろんのこと、足元に敷き詰められた落ち葉や山茶花の垣根に降り積もる様も実に味わい深くて、快い気持ちになれるルートです。嵯峨野を見下ろす常寂光寺の境内はまさに晩秋・初冬の装いで、紅葉と小雨、靄に濡れる嵯峨野の景色とともに、この上ない情趣に浸ることができました。
常寂光寺の参道を下り、落柿舎の前の野菜畑のある一帯をぬけて、嵯峨野の彷徨を続けます。稲刈りが終わり、ひこ生えが目に鮮やかな水田や、落ち着きのある住宅街を縫うように進み、歴史的な町並みで知られる鳥居本へと続く府道をしばらく歩いて、清凉寺(せいりょうじ)へ。嵯峨釈迦堂の名で知られる古刹です。平安期に新堂を建立した際、金色等身の釈迦如来像を安置したためこの別名があるともいわれているのだそうです。現在の清凉寺は、987(寛和3)年に宋から帰国しこの地に大清凉寺の創建を企図し志半ばで没した東大寺の僧「然(ちょうねん)の遺志を受け、弟子の盛算(じょうさん)がこの地にあった棲霞寺内の釈迦堂を清凉寺と号し、師が請来した釈迦如来立像を安置したことに始まります。
昔ながらの虫籠窓や格子の見える町屋造の建物が立ち並ぶ中に現代の住宅が混じる街路を東へ進み、大覚寺門前の交差点へ。交差点の一隅には、「六道の辻」の石碑がありました。六道の辻とは、あの夜とこの世の境目を指します。かつて、この地域に福生寺と呼ばれる寺院があり、昼は朝廷に、夜は閻魔大王に仕えていたという冥土通いの逸話で有名な小野篁(おののたかむら)が、東山の六道珍皇寺門前の六道の辻から冥府に赴き、この地から現世に戻ったという伝説に基づくものです。冥界へ向かう前者を「死の六道」、冥界から戻る後者を「生の六道」とも呼ぶようです。 |
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