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関東の諸都市・地域を歩く


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#7 シリーズ埼玉県北の都市群(1) 〜久喜・加須を歩く〜

地元両毛地域から利根川の向こうを眺めますと、自らの地域性とどこかシンパシーを感じるような、個性的な都市群が展開しているように見えます。東京へ向かう道すがら電車の車窓から眺める埼玉県北部の地域の姿は、広大な二毛作水田の存在、北西季節風に備えた屋敷林を備える集落、そして遥か彼方に遠望する山なみの姿かたちなど、埼玉県北部と両毛地域とで、景観的に明瞭な相違点は無いように思えます。社会経済的には、東京と深く結びつき、一体的な日常生活圏を構成する埼玉県北の都市群を歩きます。

久喜は、東武伊勢崎線を交通機関の主軸の1つとする両毛地域にとって、首都圏方面への主要な結節点の1つです。東北本線(宇都宮線)との連絡駅となるためです。館林を過ぎますと、利根川を越え、羽生、加須、久喜と規模の近い都市群が連続します。東西に目を移せば、行田を介して埼玉県北の中心都市・熊谷を見据える陣容となります。両毛地域と首都圏とを連絡している国道122号線を南し、菖蒲町台交差点から県道春日部菖蒲線を東へ進みますと、ほどなくして久喜市域に入ります。「神社前」バス停から北に入ると、久伊豆(ひさいず)神社が佇みます。別名では「ささら神社」とも呼ばれているようです。「除堀(よけぼり)の獅子舞」として市指定無形文化財となっている伝統芸能の舞台です。「ささら」とはこの獅子舞の俗称です。ここでは毎年4月19日に五穀豊穣や悪疫退散などを願い、獅子舞が奉納されているのだそうです。久喜市やその周辺の地図をざっと見ますと、「久伊豆神社」が越谷から岩槻、行田にかけて帯状に多く分布していることが分かります。この神社の分布圏の成立過程はまだ十分に把握できていないようで、一説に、平安末期の武士団、武蔵七党の野与(のよ)党・私市(きさい)党の勢力範囲とほぼ一致することから、この圏域は野与党に連なる豪族の支配地であり、久伊豆神社の創建には野与党が関わっていたものと推定するものもあるようです。

除堀から久喜菖蒲工業団地・公園を経由し、所久喜(ところぐき)のたおやかな集落と田園風景を通り、市民農園が東詰にある東北道のオーバーブリッジを渡って、久喜の市街地へと至ります。地域の大幹線たる県道さいたま栗橋線を辿り、駅付近の市街地を一瞥、市街地の南端に立地するすっきりとしたデザインの市役所に向かい、ここで自動車を降りて再び市街地へ向かいます。市役所の東、道路の向かいにある久喜総合文化会館も、西洋的な輝かしいつくりの美しい建物です。その外観は、バチカン市国のサン・ピエトロ寺院のそれを模したものであるとのことです。市役所から北へ、市街地を南北に貫く通りは道幅も広く明るく整えられた雰囲気で、1990(平成2)年から2004(平成16)年にかけて順次整備されてきた新・駅前通りとともに、開放的な市街地景観をつくっていました。


久伊豆神社

久伊豆神社
(久喜市除堀、2005.1.22撮影)

総合文化会館

総合文化会館(プラネタリウム)
(久喜市下早見、2005.1.22撮影)



銀座商店街
(久喜市中央一/三丁目、2005.1.22撮影)


新二商店街、蔵造りの家々
(久喜市中央三丁目、2005.1.22撮影)

新・駅前通りの景観

新・駅前通りの景観
(久喜市中央一丁目、2005.1.22撮影)
久喜駅前、新・駅前通り方向

久喜駅前、新・駅前通り方向
(久喜市中央一丁目、2005.1.22撮影)

これらの通りに対し、銀座商店街や新二商店街は、古くからの久喜市街地の中心商店街といった雰囲気です。密度の高い商店街には、金融機関の支店や医療機関なども並んでいまして、ここが久喜市街地の原点であることを実感します。自動車も行き来しやすい新・駅前通りをルートにしている、久喜駅前へ向かう路線バスの運航ルートも、1999(平成11)年頃まではこの銀座通り商店街(旧・駅前通り)を通過するものであったことも頷けます。新・駅前通り沿いには、徐々に商業機能が張り付いてきていることもうかがえる一方で、中央公民館(かつて久喜町役場が所在した場所とのことです)のある交差点以西では、大規模家電量販店の立地が目を惹くものの、道路沿いに広いスペースが残されている地域も散見されました。この通りから北、本町七丁目には久喜における古刹の1つ甘棠院(かんとういん)があります。空堀を周囲に巡らせた景観が特徴的なこの寺院は、500年近く前に、古河公方二代目の足利政氏が久喜の地に隠居し、その館を寺として開き命名したことに始まる由緒を持ちます。市街地の中に位置するものの、周りは林に囲まれているため、とても静かで落ち着いた雰囲気があり、2005年3月には、周囲の豊かな歴史的景観を活かした「甘棠院史跡公園」が開園するようです。

銀座商店街を東して到達した久喜駅前は、コンパクトなロータリーを取り囲むように高密度の建物がひしめき合う、戦後に急成長した首都圏の衛星都市に特徴的な容貌を見せていました。この駅前ロータリーでは、400個あまりの堤燈をつけた6台の山車と1基の神輿が集まる、久喜市を代表するお祭り「提燈祭り(久喜の天王様)」が、毎年7月12〜18日の間(山車と神輿は12日と18日)行われるそうで、新・駅前通りをまたぐ歩道橋にもそれを知らせる観光協会の手になる横断幕が掲げられていました。

加須駅前・こいのぼり

東武加須駅前、こいのぼり
(加須市中央一丁目、2005.1.22撮影)


加須駅前

東武加須駅前
(加須市中央一丁目、2005.1.22撮影)

加須・本町

加須・本町の景観
(加須市本町、2005.1.22撮影)

山車が格納された蔵

山車が格納された蔵
(加須市本町、2005.1.22撮影)

ぎんざ通り

ぎんざ通り(本町通り)
(加須市中央二丁目、2005.1.22撮影)
不動岡不動尊

綜願寺(不動岡不動尊)
(加須市不動岡二丁目、2005.1.22撮影)

加須は、こいのぼりの町。比較的開放感のある駅前ロータリーに接して、冬空を颯爽と泳ぐこいのぼりの姿がありました。市のホームページに、加須市のプロフィールが簡潔に紹介されています。

古くは「加増」と書き、元禄頃から「加須」と書かれるようになりました。江戸期には利根川を利用した「水運の町」、また中山道と日光街道を結ぶ「宿場町」、そして関東三大不動の一つ不動ヶ岡不動尊の「門前町」として栄えた歴史を持っています。
現在では、全国一と言われる鯉のぼり生産と全長111mを誇るジャンボ鯉のぼりの遊泳が有名です。そして、被服、剣道具、硬式野球ボールの生産地として、また関東では珍しい本格的な手打ちうどんのまちとしてもよく知られています。


果たして、加須駅の北、中央一・二丁目から本町へと続く“本町通り”の町並みは、旧街道沿いの宿場町を背景とした重厚さを備えているように思いました。会の川の自然堤防上に形成された加須の町は、集落立地上からも合理的な位置にあるように思います。県道加須鴻巣線が南へ分岐する中央二丁目交差点の一角には、「伝承 問屋場と高札場」と書かれた記念碑が建てられています。側面の説明書きによりますと、問屋場(江戸時代に、商品の積み替えや荷物の集配を行う機能を備えた場所)がこの付近にあり、通達や禁制を掲げた高札場があったと伝えられる場所であるのだそうです。通称で「大辻」とも呼称されてきたというこの交差点こそ、加須の町の伝統的な中心であったということの証左でありましょうか。付近には、山車と蘭陵王面を保存した蔵もあります。この山車には興味深い来歴があり、1862(文久2)年に江戸日本橋田所町・油町・新大坂町の三町合同で制作したもののが、明治期に至り電信電話線により町内を引き回せなくなってしまい持て余していたものを、1883(明治16)年に加須町の清水善兵衛が金500円で買い求めたものなのだそうです。この山車の輸送にも水運が活躍し、江戸川から関宿(千葉県野田市関宿)を経由し、大越河岸(現在の加須市大越)から馬車で運ぶという大掛かりなものであったとのことです。本町交差点から北へ、大越まで伸びる道は、「大越新道」と呼ばれています。街道とその脇往還、水運の拠点たる河岸の中心に位置した加須の町は、ローカルな物流の拠点として発展し、今日の都市基盤の基礎を築いてまいりました。その加須の町の歩みの縮図として、本町付近の町並みが存在しているかのようです。中央二丁目から駅前通りまでの区間の本町通りは、「ぎんざ通り」として道路が拡幅され、広い歩道も確保されて、現代的な町並みに整えられています。花崎駅付近の住宅地域や駅前の開放的な景観などとあいまって、首都圏と結びついた衛星都市的な機能も付加した加須の町は、いっそうその多様性を増しているように感じました。

不動ヶ岡不動尊(正式には綜願寺といいます)は、加須のまちのもう1つの礎の地位を占めます。本堂は天保年間(1830〜44)の建立で、荘厳さと慎ましやかさとを境内に付加する黒門は、もと忍(おし)城(現代の行田市)の城門であったもので、その建設はやはり天保年間であると伝えられています。門前には門前町たる家並みが続き、多くの参詣者を集める名刹たる風情を漂わせています。境内には、長さ76センチメートルにもなる「倶利伽羅不動剣」が鉄製の台座の上に掲げられ、奉納されています。この銅製の剣には、1739(元文4)年に佐野天明町(現在の栃木県佐野市)住大工長谷川弥市藤原秀勝作之」と刻まれているとのこと、不動尊が広い範囲から信仰を集めていたことを示しているようにも思います。

久喜・加須をとおして、首都圏外縁の住宅としての顔、濃厚な歴史性を今に伝える在郷の中心としてのとしての顔、「うどんの街・加須」の存立基盤ともなっている、米と小麦の二毛作を行う広い水田地帯を後背地に持つ顔、水運と治水に命運をかけた地域性などを感じました。久喜市街地では、「昭和22年の洪水で利根川の堤防が壊れ、赤い線まで浸水しました」という表示をつけた電柱を見かけました。そして、富士山や日光連山、赤城山、浅間山などを快く眺めることのできる広大な大地は、どこまでも爽快な空気に包まれていたように思います。

謝辞
本稿執筆にあたっては、埼玉県在住の でるでるさん より多くのご助言を頂きました。心よりお礼申し上げます。


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