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関東の諸都市・地域を歩く
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#64 成田・新勝寺門前への街並み 〜空港の町の原風景を求めて〜 2009年12月27日、この年最後のフィールドワークは、正月には多くの初詣客で溢れる成田山新勝寺周辺を訪れました。今でこそ成田空港の所在地として国際的な玄関口たるイメージが前面にある成田市も、古くから信仰されている新勝寺の門前を除けば、広大な台地上に田園風景が広がる農村地帯の只中でした。下総台地と呼ばれるこの地域は、地理学の世界では洪積台地の地形の典型例としてしばしば紹介されます。洪積台地とは、現在よりもやや古い時代の平地の名残で、現在の河川が形成する低地である沖積平野よりも一段高い平坦面を形成しています。下総台地では、小河川が台地を細く浸食する地形が特徴となっています。枝葉状に台地に切れ込んだ低地は谷津と呼ばれて、主に水田として利用されてきました。そうした台地と低地が織りなす風景が、下総地域の風土を形成してきました。
JR成田駅に降り立ちますと、東に京成成田駅が近接していて、ここが成田山新勝寺の門前として形成された町場であることが改めて理解されます。明治初期の地形図を観ますと、千葉県北部の都市構造は、城下町を基礎とした佐倉の市街地が突出した市街地を形成していることが理解され、その規模は現在県都かつ政令市として比類ない中心性を持つ千葉のそれと比肩するか、地図上の雰囲気ではそれ以上にも読み取れます。 成田はといいますと、この頃には既に門前町として、ささやかな街村的な町並みを形づくっていたようです。江戸から成田へと続く参詣道は現在の国道296号(酒々井から北は国道51号)にほぼ比定することができます。現在、千葉県によって「成田街道」の愛称名が付けられたこの道は、成田へ向かう道程というよりは、江戸から佐倉城下へ向かう道路がその後新勝寺への参拝需要が増えた結果成田まで延長されたといったイメージのほうがより的確なのではないかとも思われます(明治期に作成された「迅速測図」には同道路をもって、「至佐倉道」と記しています)。
前置きが長くなりました。JR、形成の両成田駅が立地する広場のほぼ中央から、新勝寺への参道は伸びています。参道は上述の参詣道をこのあたりでもほぼ辿っていて、道路の東側、西側はそれぞれ東方、北方から谷地が切れ込んでいまして、街道筋はその間に残された細長い台地上を進んできます(そのため、京成成田駅から成田市役所方面には段差があって、市役所から駅に達する場合階段やエスカレータを利用して登る格好になります)。駅ロータリーを過ぎますと参道は緩やかな下りとなり、現代建築による建物の中に町屋造の家屋も交じって、古くからの門前町としての景観にも触れることができるようになります。千葉県の産物である落花生のほか、印旛沼等の水郷地帯に程近い土地柄から、川魚料理を出す店も多いのが印象的でした。 徐々に道幅が狭まり、伝統的な意匠を残す建物が密集して門前町の色彩が濃くなり、程なくして2007(平成19)年に落成したという総門前に到達しました。数日後には関東地方でも有数の初詣客が参拝する境内は静かで、新年を迎える準備が進められていました。遠く平安時代、寛朝僧正が当時勃発していた平将門の乱平定のための密勅を受け派遣されたことに起源を持つ当寺は、以来多くの崇敬を受けてその寺勢を維持してきました。1968(昭和43)年建立の大本堂を中心に、江戸期の建物である釈迦堂・光明堂の2つの旧本堂がその歴史を豊かに物語ります。2つの旧本堂は仁王門・三重塔・額堂を含め国の重要文化財の指定を受けます。谷津の起伏を生かした境内はのびやかな自然の中に整えられていまして、国際空港の町として想起される喧騒とは無縁の静かさの中にありました。 参拝からの帰路、表参道の両側に立ち並ぶ昔ながらの家並みの彼方、澄みきった冬空がこの上ない透明感を呈して、成田を含む地域の原風景を象徴しているようにも思われました。 |
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