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関東の諸都市・地域を歩く
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#49 相模原市概観 〜神奈川県内陸の複核都市〜 2008年2月2日、八王子市街地のフィールドワークを終え、国道16号を南下、都県境を越えて神奈川県に入り、相模原市へと至りました。国道16号は何度か通過したことがあり、その度に橋本地区における高密度な市街地やその南の商業地域や工業団地が整然と区画されるエリアを眺めながら、一度実際に歩いて地域を確認してみたいと思っていた場所でした。相模原市は市役所・JR相模原駅周辺に加え、前述の橋本地区、南東部の相模大野地区を中心に、複数の中心市街地が並存するまちです。加えて東京都心へのアクセス性からベッドタウンとしての色彩も強い地域性を併せ持ちます。行政側でもそうした分散的な地域構造を意識してか、平成の大合併により津久井郡を編入合併する以前から、市制広報等では地域区分を明確する場合が多いようです。例えば、市役所周辺地域は、市役所内部における出張所の管轄区分により「本庁管内」と呼ばれています。それは他の出張所(橋本、大野北、大野中、大野南、大沢、田名、上溝、麻溝、新磯、相模台、相武台、東林;旧市内のみ)の管轄地域に基づく呼び方と同様に、相模原市内における一般的な地域呼称として広く普及しているようです。 この「本庁管内」地域は、JR横浜線の相模原駅を核として整然とした区画を擁するエリアです。そのエリアは、相模原市全体の地図を見渡しても、その碁盤目状に整備された構造によって、特徴的となっていることが見て取れます。この一帯の市街化は、戦前に計画されて実行された「相模原都市建設区画整理事業」に伴う都市計画の結果です。この計画は1939(昭和14)年に、陸軍関連施設を東京から移転させて市街地化を図るという、いわば軍都計画として実行に移されました。それらの軍関連施設は現在、米軍相模補給廠としてその名残をとどめており、またその西門から南南西に伸びる道路が現在の「市役所通り」として地域における南北方向の道路軸となっていることは、この地域が軍施設と関連して都市計画が実施されたことを今に示すものと言えます(東西方向の都市軸は、現在の国道16号となっているようです)。
相模原市役所の駐車場で自家用車を降り、この市役所通りを北へ進みます。交通の絶えない国道16号は、沿線に郊外型の店舗や商業施設が林立する景観を呈していまして、慢性的な渋滞も発生しているようです。市役所通りはこの国道16号を境に南側の「市役所さくら通り」と北側の「グリーンプラザさがみはら」と呼び分けられているようでした。この両方とも見事な桜並木を伴っておりまして、季節にはたいそう美しい桜色の天蓋が広がるのであろうと想像されました。「グリーンプラザさがみはら」は、「みどり豊かな市民の広場」として市民に親しまれるよう命名された愛称で、「水と緑」をテーマに木々や水辺が整えられ、手をモチーフにしたモニュメントも設置されるなど、冬枯れの時期でも穏やかな気持ちになれる雰囲気を持っているように感じられます。 補給廠の西門に近づくにつれ、JR相模原駅の至近となることもあいまって、周辺はちょっとした商店街(西門商店街)となっていきます。「西門」や「グリーンプラザ」を冠した商店やマンションなども散見され、これらがこのエリアにおける地域名称となっていることを想起させました。駅前はペデストリアンデッキを擁するターミナルとして整えられ、街路がそこから放射状に展開します。周辺はマンションや商業ビルが集積するものの、相対的に高層の建物の密度が小さいこともあって、開放的な新興市街地といった様相です。JR相模原駅から電車に乗り、相模原市の北側の都市核である橋本へと向かいます。
橋本駅はJR相模線の分岐点として、旧相模原市域のみならず、旧津久井郡下方面を後背地とした、神奈川県北部における代表的な交通結節点のひとつとして成長してきました。JR橋本駅は横浜線で相模原駅から一駅の行程です。橋本駅周辺は前述のとおり交通上のターミナルとしての拠点性が高いこともあり、相模原駅前とは一転して周辺地域の高層化が著しく、その趨勢は現在も進行中であるように見受けられます。前述した、国道16号沿線に展開する高層マンション群は、1984(昭和59)年に閉鎖された旧国鉄車輌センターの跡地に建設されたもので、駅の南方に広く展開する工業団地の一部で実行に移されている事業地とともに、再開発が間断なく進められてきた橋本地域の姿を象徴しています。益を南口で降り、線路に沿うように西へ歩きました。先述したエリアの状況から考えますと、駅に至近のエリアは相対的に低層の建物が目立ち、比較的閑静な印象です。これは、かつて八王子や川越方面から小田原方面へと抜ける脇往還としても機能した大山街道の宿場に基づく町場の佇まいが残されているということであるようです。 踏切で線路を越え、北口方面へ向かいますと、再び超高層化が進展すると資格としての橋本エリアの中へといざなわれます。市街化の進展は程近い場所を流れる都県境の境川を越えて、東京都町田市域へも連続していきます。首都圏整備計画においても相模原市セットで業務核都市として位置づけられている町田市との経済的な結びつきの強さの一端が窺い知れます。このことは、橋本駅から再び横浜線に乗車し、降り立った町田駅周辺の市街化の様子でも垣間見られました。駅の南にはこのあたりでも都県境となっている境川に接していまして(境川の蛇行と河川改修の関係で都県境が川の流路と一致していない地域の一つにあたります)、冒頭にお話しした相模原市域における南(東)の業務核である相模大野駅も間近で、都県境を跨いだ市街地化と交流が盛んな地域性を示しています。
夕刻となり、自家用車を駐車している相模原市役所へと戻るため、再び相模原駅に降り立ったときには、既に薄暮時間を迎えていました。軍都計画による計画的な市街化が進展する前の相模原市域は、高燥で水が得にくい台地という土地柄もあって大規模な農業や集落の発展も見られない、荒れた大地であったといいます。江戸期に入り、ようやく新田開発が行なわれ、このあたりでも開墾の手が入り、現在の相模原市へとつながる道筋が開かれました。そんな歴史の一端を感じてみたいと思い、大規模な開発の一つである清兵衛新田開発の開発記念碑が残る氷川神社へ立寄りました。幕末に入植が開始されたこの開発は、記念碑の刻字が徳川慶喜の筆によるものであることに象徴されています。周辺の住居表示「清新」はまさにこの「清兵衛新田」を省略したものです。新田とはいえ用水に乏しかった土地は畑として耕され、以降の軍都計画に伴う都市化や高度経済成長期以降の都市化によって一変し、往時の面影はかなり少なくなりました。そんな中にあって、氷川神社の境内はたいへん穏やかな印象で、開発記念碑とともに、相模原市の歴史を今に伝える灯火であるように思えました。 2010(平成22)年4月、相模原市は全国で19番目の政令指定都市へと移行します。首都圏のベッドタウンから首都圏外縁部における業務核都市へのロードマップを展開しながらも、近年における都心回帰の動きや経済的な動向もあり、この町が歩む未来は依然として課題が多いものと思われます。相模原市の特徴である、複数の核を持つ個性に満ちた地域性を生かしながら、平成の大合併により新たに市域となった旧津久井郡下の地域も加えて、さらなる魅力にあふれる都市へと成長することができるか、今後を注目してまいりたい町のひとつですね。 |
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