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関東の諸都市・地域を歩く
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#22 氏家・喜連川の町並み 〜新市“さくら市”を歩く〜 2005年3月28日、栃木県氏家町と喜連川町は合併して市制施行、新しい市「さくら市」が発足しました。さくら市の人口規模はおよそ4万人あまりと、いわゆる「都市」としてはあまり大きいほうではありません。しかしながら、氏家・喜連川という個性溢れる町場を有するなど、たくさんの魅力があります。今回は新しい市「さくら市」を氏家、喜連川という2つの町に注目して歩いてみたいと思います。 国道293号線を西の基点である足利市から東進し、田沼、葛生、栃木市西部、鹿沼の市街地を抜け、宇都宮市北部や上河内町の田園を辿り、鬼怒川を氏家大橋によって渡河し、ようやく氏家へと到達しました。ロードサイド型の店舗や飲食店などが立ち並ぶ国道4号線の大幹線を経由し、南で分岐する国道293号線でJR東北本線の下をくぐって、氏家の市街地へと進んでいきます。さくら市役所となっている旧氏家町役場に乗用車を置いて、氏家の町場を散策します。氏家の町並みは奥州街道の宿場町をその礎としています。また、氏家は鬼怒川流域では最も上流に位置する河岸である阿久津河岸を支える町場としての役割もありました。水上交通が大量輸送の主役となっていた江戸期には、会津方面からの江戸へ運ばれた物資の多くがこの阿久津河岸から船積みされたといいます。地域には河岸としての歴史を今に伝える船玉神社も祀られています。近代以降鉄道交通が発達するにつれて河岸は衰退を余儀なくされます。氏家にも市街地の西の「はずれ」に鉄道駅が開業します。宿場町を基礎にしながら町場を形成し、鉄道の開通によって市街地の構造が変化していく過程。氏家の市街地を歩きますとその変化が見て取れるようです。
市役所の西に接する街道筋は奥州街道のルートではありません。奥州街道はここより南、上町交差点で東へ折れて、喜連川へと進んでいきます。上町交差点は氏家の市街地の中心的な位置にある、まさに町の中心となってきた場所なのでしょう、周辺には入母屋の重厚な屋根を持つ商家などが集まって、往時の活気を感じさせます。町場は奥州街道沿いにさらに東へと展開していまして、氏家市街地が河岸への物資の集散地として栄えた歴史を十分に残していました。上町交差点から西へ、東北本線の線路方向へ続く街路は「琴平通り商店街」。「KONPIRA STREET」の文字が掲げられたアーチも設置されています。この上町のほか、商店街には新町や穀町などの地名が見えまして、町場であることを感じさせています。旧奥州街道である交差点東側の街路に比して道幅が狭くて、駅へ続く通りというよりは、主要道路に対する横丁のような印象の通りです。果たして、通りの行き着き先には琴平神社の小さなお社がありました。社殿の後ろから街路は緩やかにカーブを描きながらJR氏家駅の駅前広場へとつながっていきます。県道となっている駅前へ続く大通りは町割の形に対して不自然な形で付けられていることから、鉄道敷設後に新たに完成した道路であることは明白です。周辺には石積みの倉庫や昔ながらの町屋なども見受けられまして、街道筋を中心として発達した町場が水上交通の衰退・廃止と鉄道敷設に伴って次第に鉄道駅に向けてその構造を変容させた姿を読み取ることができるというわけですね。そして自動車交通が主役となった現代では前出の国道沿いのロードサイド型店舗花盛りとなって、旧来の市街地が相対的に地盤沈下している印象はやはり否めないのが気がかりなところですね。 さくら市役所を後にし、上町交差点から東へ向かって、奥州街道筋を進んでいきます。氏家の市街地を過ぎても街道筋には立派な門構えの旧家が認められまして、この地域の繁栄がどのようなものであったかを感じさせます。奥州街道筋で最初の難所とされたという弥五郎坂を越えますと、喜連川は目の前です。国道が通過する東側の坂道は明治以降に取り付けられた新道で、旧来の弥五郎坂はセブンハンドレッドゴルフクラブのすぐ東を通過しています。早乙女交差点から国道を離れ、桜並木となった道路を喜連川の町へと向かいます。栃木県のこのあたりを自動車で進みますと、緩やかな丘陵地の列とその間に展開する低地とがつくるたおやかな景観がたいへんに美しいと感じます。穏やかに丸みを帯びた山並みが水田の緑と隣り合う風景は、このエリアにおける何にもかえられない財産なのではないかとさえ感じますね。
喜連川の市街地は荒川に内川が合流する地点の台地上に展開します。市街地の西にはお丸山公園の高台があり、四方に眺望が効く喜連川スカイタワーや、公園として広場や遊具が整えられ、市民の憩いの場として親しまれているようです。お丸山公園は1186(文治2)年に塩谷惟広によって築城されたといわれる城跡で、以後1590(天正18)年まで塩谷氏累代の本拠地であった場所です。喜連川はまた足利尊氏の流れを汲む古河公方の格式を誇り、足利将軍家の後裔として江戸期には徳川家康に特に重んじられた喜連川家の本拠でもありました。石高が5000石弱程度ながら10万石格の大名として遇されたといいます。旧喜連川町役場、現在のさくら市役所喜連川庁舎のある場所はこの喜連川家の居館の跡地であるそうで、館そのものは1876(明治9)年に焼失し現存しないものの、1991(平成3)年に大手門が復元され、庁舎入口のエントランスとして歴史を今に伝えていました。街道の東側には、喜連川足利家の歴代墓所がある龍光寺が佇みます。参道は穏やかな町並みの中に溶け込んで、歴史のある喜連川の町並みに深みを与えているように感じられます。町場の西南には御用堀と呼ばれる用水路がありまして、昔ながらの落ち着いた街路景観が保たれています。かつては町場の生活用水はもちろん、下流の農地への通水や防火用水など、多様な役割を持っていた水路であるようです。 1563(永禄6)年に塩谷氏15代兵部大輔惟朝が尾張国津島牛頭天王宮の分霊を勧請して創建されたと伝えられる喜連川神社を経て、お丸山公園に向かい、スカイタワーから一帯を俯瞰します。展望室からは街道に沿って町場が街村状に展開している様子が手にとるように眺められます。そして荒川と内川との合流点に向かって緩やかな高まりを見せる城跡の佇まいや、彼方のなだらかなラインを描いてたなびくようにつらなっていく丘陵群と水田との豊かなコラボレーションが実に爽快に眺望できました。この日は雲が多く遠くまで見通すことができませんでした。筑波山や男体山、那須連山、さらに条件がよければ富士山までもその視界に入るといいます。まさに絶景ともいうべき景色なのでしょうね。タワーには、江戸期のものと思われる喜連川宿の絵図(複製)が展示されています。荒川と内川を橋で越える町側の街路が鉤の手(クランク)になっているほかは現在の町並みとまったく変わらない構造になっていることに驚かされます。絵図に記された商家が現在でも存続しているという事例も少なくないとのことです。主要交通の変化に伴い町の形を微妙に変化させてきた氏家と、江戸期に繁栄した姿を今にとどめる喜連川の町並み。表情は似ているようでも、それぞれの地域性に応じて異なる姿を見せているようでした。 |
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