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関東の諸都市・地域を歩く
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#135 羽生から行田へ ~「埼玉」地名発祥の田園と史跡をゆく~ 2017年9月16日、埼玉県北東部、羽生市街地をスタートし、西接する行田市中心部へと向かうウォーキングを行いました。東武伊勢崎線羽生駅前を出て、羽生市の旧市街地に立地する市民プラザを起点として、秩父鉄道行田市駅へと向かうルートです。市民プラザはかつてのスーパーマーケット店舗を活用した建物のようで、この地域における買物行動の流動性を端的に示していました。市民プラザ南、埼玉りそな銀行が接する信号のある交差点から西へ、県道128号へと抜ける道筋は明治期の地勢図にも見える伝統的な主要路で、この交差点は羽生の街におけるメインのノードであったことが窺われます。古い町並みが連続するこの道路を行田方面へ進み、羽生の鎮守である毘沙門堂(古江神社)の前を通過し、東武線の鉄路を越えます。このあたりが昔の羽生市街地の町外れにあたり、鉄道も市街地を避けた場所に敷設されたことを物語っていました。
秩父鉄道の路線としばらく並行し、学校や住宅が建ち並ぶ近隣を進みます。西羽生駅近くになりますと徐々に田畑の面積も増えて、郊外然とした風景へと移り変わります。国道122号を越えて、さらに西へと向かいますと、田園の中に集落が点在する土地利用へと移行していきます。県道指定を受けた道路の周辺には家並みが続いていまして、これらの道路が藩政期来の、地域間を結ぶ幹線的な道で会ったことを示唆しています。そうした沿線を除けば、広大な低地に水田が広がり、わずかな微高地に集落が発達する景色が卓越していました。 この日歩いた羽生や行田を含む、埼玉県東部の一帯は利根川や荒川水系の多くの河川が乱流を繰り返してきた歴史があって、大地にもその痕跡が色濃く刻まれています。昔の河道の跡が帯状に低地となって、その後背地には自然堤防状のわずかに比高のある土地がつながっているというものです。近世以降は新田開発のため、そうした河道跡を軸に多くの水路が開発されて、広い水田が切り開かれました。県道128号と同7号とが合流する上新郷交差点に至るまでにも複数の用水路を越えてきていまして、地域の開発史を跡づける形となりました。
上新郷交差点の西側には伝統的な醸造元が立地しています。上新郷の集落は、東側を南北に細長い会の川の流路に沿って立地し、南側の下新田や下新郷へと帯状に集落を発達させています。集落の南は広大な水田地帯が再び広がり、稲穂が頭を垂れて、収穫の季節を待っていました。首都圏郊外の都市化が進むエリアというイメージが強い埼玉県内ですが、北部では水田が大きく広がる地域も少なくなくて、茫漠たる関東平野の壮大さを実感します。 秩父鉄道の鉄路を渡り、水田と幾筋かの用水路や集落を越えてさらに歩き行田市域へと入り、星川沿いを歩きながら美しい田園と集落とが織りなす風景を辿り、古代蓮の里へと到達しました。蓮の花の盛りはやや過ぎていましたが、わずかに可憐な花弁を開いているものもあって、初秋の空気にあたたかな情趣を添えていました。
古代蓮の里から西へ、こぢんまりとした集落の家並みに屹立する成就院三重塔(県指定有形文化財)を訪ねました。成就院の開創は天正年間(1573年~1593年)で、三重塔の建立は1729(享保14)年と伝わります。塔の内部には塔内には、忍城主阿部豊後守忠秋より拝領と伝えられる本尊(葉衣観世音菩薩)が安置されていまして、大藩が存置されなかった関東平野にあって、貴重な藩政文化を今に伝えています。旧忍川を再整備した「さきたま調整池」沿いの遊歩道を歩いて行きますと、埼玉(さきたま)古墳群の墳丘が目に入ってきます。 資料館が併設された将軍山古墳を訪問した後、二子山古墳の横を通り、円墳としては日本最大の丸墓山古墳へ。石田三成が忍城を水攻めするために築いたという石田堤の名残である道を進んで、石段により上部に上ることのできる古墳からは、史跡公園(さきたま古墳公園)として整えられた園内を一望しました。公園の一角にある県立さきたま史跡の博物館では、稲荷山古墳から出土した鉄剣を見学することができます。博物館周辺にも、奥の山古墳や中の山古墳、鉄砲山古墳などが集積していまして、それらを巡るように設けられた散策路を辿りながら、古代、中央政権と深いつながりを持ち勃興しこの地域を治めた先人へ思いを馳せました。
さきたま古墳公園からは西へ進み、武蔵水路と忍川を渡って、行田市街地へと向かい、水城公園や忍城址をたどった後に秩父鉄道行田市駅へと至って、この日の活動を終えました。羽生市から行田市へと、茫洋たる田園風景の中に点在する史跡を捕捉しながらやや長いルートを歩くこととなりましたが、埼玉古墳群は県名「埼玉」発祥の地としても知られる場所です。この埼玉の地名を採ったかつての埼玉郡(現在は南埼玉郡のみ残存)は、南は八潮市やさいたま市岩槻区、そして北は利根川南岸の羽生市や行田市を含む、かなり広い地域を含む郡でした。このような広いエリアがひとつの郡域とされたことは、この地が河川が分流氾濫を繰り返す、生活の場としては一定の困難性を持つ場所で会ったことを示唆しているのかもしれません。しかしながら、近世以降のたゆまぬ開発や都市化によって、現在の埼玉は、豊かな農地に抱かれる、多くの人々が暮らす大地へと生まれ変わっています。そうした多様な特性を持つことと、この地域の地名が県名へと昇華したこととは、少なからず関連があるのではないか。県庁を設置する予定であった岩槻の所在郡に因むとする通説も承知はしていますが、前期のような連想もまた頭に思い浮かびました。 |
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