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本来空のすみかなりけり
〜吉野・飛鳥短編随筆集 2001・春〜

奥千本から見上げる空


吉野・奥千本桜の咲く山中から、春の空を見上げる・・・
(2001.4.13撮影)

2001年春、私は吉野と飛鳥を訪れました。

吉野の桜は、一般的に観られるソメイヨシノではなく、少しピンクが濃く、桜色の葉も花と一緒に生えている、「山桜」の一種です。

吉野の桜は、一度に観ることはできないといわれています。近鉄吉野駅付近の「下千本桜」が4月上旬に開花するのを皮切りに、吉野ローカルの「桜前線」はゆるやかに山を駆け上がり、「中千本桜」、「上千本桜」と順次開花して、山奥の「奥千本桜」が見頃を迎える5月初旬まで、場所ごとに長く桜を楽しむことができる場所として知られています。

ところが、2001年の吉野山の桜は、違っておりました。なんと、ほぼ全山で同時期に見頃を迎えてしまったのでした。

2001年は、関東では成人の日に大雪が降るなど雪の多い寒い冬でしたが、3月に入って一転して暖かな日和が続いて、桜の開花が順調に進んだためと思われます。おかげで、下から上まで吉野桜を堪能できるという、またとない機会に恵まれたのでした。

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ページ設置:2003年9月9日


「木陰で」

初夏を思わせる日差しは、心なしかやわらかく
芽吹き始めたビロードの天蓋越しにまたたいている
その上の空は、かすかな乳白色の体躯をもたれかけて
突然にあふれだした山のピンクにいささか驚いているよう

山は、いっせいに春色に染まり
日増しに色濃くなる若葉たちを先導する
色という色は、みずみずしく弾けて
空や、風や、雲や、太陽にこころよくボールを投げ返す

険しい山道を歩くこと2時間半、
奥千本と呼ばれる桜のつつましい桜色の下
整然と屹立する杉林と、ウグイスやヤマゲラを宿す木々の下

舞い踊る春というこのときを、
しばし眺めていた



1.吉野山

 奈良へ来るのは、高校1年冬(1991年)の修学旅行以来である。しかも、その時は東大寺や法隆寺などを半日ほどの時間で巡っただけであったので、ほとんど始めても同然であった。以前から吉野や飛鳥を中心とした地域には惹かれていた。古来から日本の政治の中心として栄えてきた歴史。そうした遺産とともに豊な景観を受継ぎ育んできた文化。そういったものを実感したかったし、その中にこの国を構成する流れの1つとしての原風景のようなものを探してみたかった。この土地だけが日本をつくってきたわけではないが、濃厚な要素を与えたと考えられるかの地が語りかける「日本らしさ」とは、一体どのようなものなのだろう。この命題はあまりに難しく、重いものだけれども、1つでもそれのヒントを掴みたい。そんな気持ちで、新宿高速バスターミナル発の夜行バスに乗り込んだ。
吉野駅から見た下千本桜

近鉄吉野駅からみた下千本桜
(2001.4.13撮影)

大阪阿部野橋から、6時発の近鉄特急で約2時間、吉野駅はまさに吉野山の麓であった。駅周辺に広がる桜は「下千本」と呼ばれる。吉野山全山に展開する桜絵巻はそこから既に始まっているのである。
 吉野山の桜は、その場所によってこの下千本のほかに、「中千本」、「上千本」、「奥千本」と呼称され、高低差によりそれらが麓から順番に開花していく。したがって、全山が一斉に満開を迎えるということは通常ない。いわば、「満開」というバトンを、順次リレーしながら、山は春を身に纏っていくのである。ところが、今年の吉野山は違っていた。久しぶりの厳冬の直後にやってきた突然の暖かさに導かれるかのように、山はいっせいに桜色一色となってしまった。下千本の桜はむしろ盛りを過ぎているようでさえあった。

桜といえばソメイヨシノという今日の趨勢にあって、吉野山をしめやかに彩るのは日本古来からの種である山桜たちである。華美すぎることなく、それでいて地味であることもなく、透き通るほどのかすかな桜色の一枚一枚は呼応しあうかのように囁き、芽吹いている若葉たちと一体となってそのえもいわれぬ豊かな色彩をつくりあげる。山はその桜色の集合によって形成された新たな桜色を快く受け入れ、それらと協調しあいながら、春という音楽を奏であげていく。もしも、これがソメイヨシノであったとすれば、そのあまりの豪奢な表現力のために、「春の歓び」という吉野山のしずかで荘厳なメッセージは正確に伝わらないに違いない。下千本から続く旅館街を抜けて、荘厳な威容の仁王門を従える金峰山寺(きんぷせんじ)へと到達した。
下千本桜遠望

下千本桜遠望
(2001.4.13撮影)

金峰山寺は、大峰信仰登山の本拠となる古刹で、金峰山修験本宗の総本山である。中心にある蔵王堂は国宝に指定されており、34メートルの高さは、東大寺大仏殿に次ぐ世界第二の木造建築である。その均整のとれた美しい容姿は上千本からも、桜で埋まる稜線の上に浮かび上がるようにはっきりと見て取れるほどの迫力だ。その巨大なスケールの蔵王堂の正面には、小ぢんまりとした石柵に囲まれた中に植えられた4本の桜がある。ここは、1333年に護良親王が最後の酒宴を行ったところである。南北朝時代のドラマティックな事件の舞台では、桜たちがその酒宴を物語るようにかすかな色合いの桜色が、ひらりひらりと風の中を舞い降りていた。

金峰山寺を過ぎ、吉水神社から谷を下って、如意輪寺の森へと続くコース沿いに、「中千本」の山桜たちが広がる。吉野山の集落を尾根伝いに縫うメインルート沿いから少し外れた谷あいの桜たちは、近くに、遠くに、微妙な色合いを見せる。あるものは、日差しを受けてみずみずしく薄紅色に輝き、またあるものはほのかに赤みを帯びた新芽の衣に身を隠しながらつつましく色づき、またあるものは周囲の若桜色にすっかり身を任せて、いきいきと黄緑色に染まっている。それらが、組み合わされ、融合し、共鳴しあって、実に緻密なパッチワークを形成し、深緑色に沈黙する杉林の額縁の中にすっぽりと納められている。静かな木立の中に佇む如意輪寺の裏手から吉野神社へと上る急坂に息を切らしながらも、眼下に広がる桜の群れと、彼方の三輪山の遠望は、とても爽快で心躍らされるものだった。
水分神社の枝垂れ桜

水分神社内の枝垂れ桜
(2001.4.13撮影)

水分(みくまり)神社は、水の配分をつかさどる天之水分大神を祀る神社である。鬱蒼とした杉等の木々に埋もれそうな社殿は、左右に流造をつないだ三連にわたる流麗な結構をなし、それは「春日造」と呼ばれる。そしてこの本道と相対する楼門や幣殿、拝殿及び回廊が、小ぢんまりとした中庭を囲んでいる。中庭には、数本の枝垂桜があり、社殿の暗がりから眺めるそれはシルエットのなか一段と際立って、その鮮やかな姿と、はらはらと舞う花弁たちのつくる小波のコントラストは、言葉に言い尽くせないほど、美しい。

水分神社から、さらに山道を奥へ進む。そこはもはや桜の吉野山の面影はなく、幹回りが2メートルはあろうかと思われる杉の林立する「奥山」の世界だった。義経が追っ手を逃れて立てこもり、屋根を蹴破って難を逃れたと伝えられる「義経隠塔」のある金峰神社や、西行が住んでいた庵、西行庵などが、杉たちの柱やその屋根を掻い潜った穏やかな日光に照らされている。幾多の先人のたゆむことのない自然への畏敬、また所信を力を尽くして全うしようとした、偉人たちの揺るぎない魂が、鮮明に、かつ、慎ましやかに、そこには、刻まれている。そして、それらは互いに寄り添うように咲き誇る「奥千本」の桜たちとともに、悠久の空間のなかに、あるべき虚無と現実(うつつ)とをうつろいながら、確かに存在している。いくつもの時代が過ぎようとも、幾多の歴史やドラマが繰り広げられようとも、変わることのない尊さ、快さ。「本来空のすみかなりけり」ふと、この土地で読まれた和歌の一節に接し、このようなことを考えてみた。

中千本桜

中千本の桜
(2001.4.13撮影)
上千本桜

上千本の桜
(2001.4.13)
奥千本の桜

奥千本の桜
(2001.4.13撮影)
西行庵

西行庵
(2001.4.13撮影)

「本来空のすみかなりけり」

春は、いま、この地で、新たなときを見つめている
数々の思い出を、懐に感じながら

世の中は、うつろいながらも
季節は巡り変わろうとも
それぞれの理想や信念が
時にいくつもの幻想を生み出したとしても
この今の、かけがえのない“とき”が
耀きを失うことなど、あるのだろうか

この地に春が記憶され
木立のあわいを、いくつかの時代が流れていった
自然は、大地をつくり、水をうるおし、緑をはぐくみ
その恵みを、多くのものが享受する
そして、それらはあるべき場所へ還っていく

吉野山のたなごころに、立つ
春は、またたいている

“吉野なる深山の奧のかくれ塔
   本来空のすみかなりけり”

遥かなる空の彼方の
そのあるべき場所へ
時は風となり、輪となって
一時の春を演出している



2.飛鳥

「甘橿(あまかし)の丘」

春の雨が頬を伝うのを気にしながら
夕刻が迫る時間で少しペダルを漕ぐペースを速めながら
飛鳥の里を見渡せる丘を目指した

「甘橿の丘」の上に立つ
木々を刹那ざわつかせる風に吹かれて
古代の都が展開した土地に向かい合っている

南に、高松塚や石舞台などを載せた明日香村の扇状地
西に、剣池を足もとに聳える、畝傍山
そして、吉野川の下る先に鎮座する耳成山と天香久山

あたたかそうにたわむ竹林を背後にした集落
大和三山のたもとにひろがる溜池と耕地
そのうえに、大都市圏から溢れた住宅団地にマンションの群れ
新旧が微妙にこの地で重なっている

この里は、得体の知れない驚きをたくさん持っている
ときめきのかけらを、いっぱい隠し持っている

春の暖かさを伝えた雨粒は
昔も、今も、このたおやかな大地を潤している



飛鳥川と高取川が大和盆地へとゆるやかなスロープを下る土地に、日本で最初の都が開かれたのは、今から1400年程前、推古帝が豊浦宮(とゆらのみや)に即位した6世紀の終りころからという。710年に都が平城京に移るまでの間、十数年間のインタバルはあったものの、このたおやかな大地−飛鳥−に数々の宮城が開かれ、日本で最大の政権が営まれつづけた。石舞台や高松塚やキトラなどの豊かな古墳群に、亀石や酒船石、猿石などの個性的な石造物群、岡寺や橘寺、飛鳥寺などの歴史ある寺社に育まれたこの大地のテイストは、今も豊かに息づいている。

しかしながら、社会経済的に見れば大阪大都市圏の一部をなす奈良県の一隅、近鉄線を使えば大阪には至便なこの土地は、北の橿原市などともあいまって、現代的な住宅団地やマンションなどの建物の立地もまた目立つ。

こういった現代的な側面に浸食された現在の飛鳥について、本来の飛鳥ではないと断じ、観光シーズンにでもなれば、あちらこちらを歩き回る観光客の趣向に異議を唱えるような論調を目にしたことがある。本来的には、現在の飛鳥の姿、あり方をもって古代のそれと同一視することは、現に謹むべきで、道理ということになるのであろう。
そういったパースペクティブがある一方で、私は甘橿の丘から眺望した、あの豊かな飛鳥の今の姿に、限りない憧憬を感じたのである。時はまさにあたたかさ漲るうららかな春、萌黄色に彩られた飛鳥の里は、現代的なエッセンスを受け止めながらも、どこまでも、どこまでも、美しく、魅力的な容貌を見せてくれていた。このような、現在の飛鳥の姿、あながち捨てたものではないのではないのか。
石舞台古墳

石舞台古墳
(2001.4.14撮影)

吉野の桜を堪能した後、岡寺あたりの、昔懐かしい集落景観が残る界隈に投宿した私は、翌朝からレンタサイクルを利用して、飛鳥の里散策に出発した。

まず、宿を出て、明日香を代表する石造遺物である石舞台古墳へ。この古墳は、もともとこの石室を覆っていた封土が失われて、巨石を積み上げた石室が露出したもので、使用されている花岡岩は三十数個、中でも天井部に使われている石は長さ12.5メートル、幅17.9メートル,厚さ8.9メートル,重さは77トンもあるとのことである(明日香村ホームページより一部修正引用)。周囲は国営飛鳥歴史公園の一部として整備されており、穏やかな飛鳥の広々とした台地の只中に積み上げられたその石室は、威容を示すというよりは、優しい眼差しで里を見下ろす好々爺のような表情をしているように感じられた。

再び宿のほうに戻って、天智帝の勅願により創建されたと伝えられる岡寺へ。談山神社につながる丘陵を背にした本坊と書院は、堅牢ながらも整った結構を見せる仁王門の奥に、山の緑の色彩を受けて実に奥ゆかしい佇まいを見せていた。伽藍全体は、奥の院から続く少し高い丘陵の斜面につけられた参道から俯瞰できる。
岡寺

岡寺
(2001.4.14撮影)

岡寺を後にすると、背後の丘陵の高台につけられた農道を駆け上がって、高い位置から飛鳥の里を遠望。暖かな日差しに恵まれたこの日は、風も快く、緑もいっそう太陽の受けて輝いて、この地域のゆったりとした雰囲気をこれ以上ないくらい見事に盛り上げているように感じられる。丘陵の畑の畦ではアセビの木が青々と葉を広げ、白い鮮やかな花の房が目に眩しい。

春爛漫の農道を折れて山道に入り、何気ない山中に突如現れるのが、酒船石。平たい花岡岩の上に丸い窪みや溝を刻んだ巨石で、酒の醸造に使われたとか、油を絞ったなど諸説があって、長年その来歴については謎に包まれていたが、近年ふもとの遺構から亀型の石造物が発見され、酒船石はそこへ導水するための施設ではないかとする見方が有力という。かつてのこの地で権威を振るったとされる女帝斉明の時代に、この地で営まれた水上式の庭園の存在が、そこには想定されるのだという。ここにも、飛鳥が持つ凄みがある。そんなすごいものが、ごくありふれた、里山の山道の道すがらに「転がって」いるのだ。
亀石

亀石
(2001.4.14撮影)

再び農道に戻り、そのまま快適なサイクリングを楽しみ、お隣の桜井市域にある、飛鳥資料館へ。ここは、奈良国立文化財研究所の展示館で、石舞台や須弥山石など、飛鳥が誇る石造物群のレプリカの展示をはじめとして、飛鳥の歴史や発掘史などを学ぶことができる。

付近のレストランで三輪そうめんを食べて休憩した後、午後は飛鳥寺を経由しながら、一路亀石や鬼の俎、鬼の雪隠のある明日香村のメインスポットへ。先述したとおり、明日香村が展開する土地は、吉野川が山間部から平地へ差し掛かるあたりの、扇状地状の台地を基盤としているため、なだらかなスロープを描く大地をところどころ河川が行き過ぎて穏やかに斜面を浸食しているため、平坦な中でも比較的アップダウンのある、変化に富んだ地形を呈している。平坦な土地は、多くが畑となっていて、丘陵地の斜面に寄り添うように、集落が所々にかたまりながら存在していて、こういった自然豊かな眺めは、飛鳥の奥ゆかしい景観の醍醐味といえるのではないだろうか。菜の花などの春の花が咲く道端に、有名な「亀石」がユーモラスな表情を見せ、また丘陵の裾の斜面に鬼の雪隠、鬼の俎が台地の緑に寄り添っていた。

キトラ古墳を見て、高松塚古墳の壁画が再現された資料館を見学したあたりから、雲行きが怪しくなり、春の暖かさがこの土地に慈雨を運びつつあった。木々は春雷のごとき一陣の風に揺られながら、ひたすらに身を任せている。私は、甘橿の丘へ急いだ。ぜひ、あの丘の上から、飛鳥の里を一瞥して、そこでの風を感じてみたいと思っていたからだ。
 そして、甘橿の丘の上に立った。そこからは、耳成山、天香久山、畝傍山の、いわゆる「大和三山」の眺めをはじめとして、盆地の間をゆったりと流れる飛鳥川と高取川の流れ、豊かな丘陵の木々と平地林に彩られた集落、そして都会から染み出した都市化の末端とが、おだやかに並んで存在する、現代の飛鳥がひろがっていた。幾年の歴史を経ながらも、移ろいゆくものと、不変のもの。この大地は、それぞれのバランスと、ニュアンスとを、心得ているに違いない。春の雨は、依然としてやわらかく、春風を濡らしていた。

甘橿の丘

甘橿の丘全景
(2001.4.14撮影)
耳成山、天香久山

甘橿の丘より、耳成山・天香久山を望む
(2001.4.14撮影)
甘橿の丘より南西を望む

甘橿の丘より、南西方向を望む
(2001.4.14撮影)
畝傍山

甘橿の丘より、畝傍山を望む
(2001.4.14撮影)

「畝傍山」

飛鳥と、大和の大地の上に
おだやかな顔をした畝傍山を見つけた
足元の木々から自然につながる雑木林の向こう
木々を羽織った、いくつかのこぢんまりとした丘の背景に
自らを飾ることなく周囲のみどりに同調する
たおやかな山容をみせている

溜池と、小規模な丘の群れは
かの地の悠久の風をその身に受けながら、その感触を今に伝えて
鉄路の過ぎる、新興住宅群が加わった風景の中にあっても
揺るぎない古代絵巻の色調を静かに保っている

畝傍山は、そのまなざしでいまを見つめる
歴史の蓄積を確実に感じて、今の脈動をその身に感じて
大和を、飛鳥を、見守っている

甘橿の丘は、21世紀の春を迎え
着実に時は流れてきたけれど
畝傍の山の、その山の端のかすかな色に
原風景をみていたのだろうか



多くの日本らしさの集合
が、この地で花開き、この地から発信されて、またこの地に受け入れられて、生まれた。それがどのような色をしているかは、まだ分からない。ただ、その過程だけは、ささやかながら感じることができたのではないだろうか。


本来空のすみかなりけり〜吉野・飛鳥短編随筆集〜   −完−



Regional Explorer Credit

4月12日  新宿駅西口より、大阪阿部野橋行きの夜行高速バスに乗車。
4月13日  近鉄特急により吉野駅へ向かい、吉野山を散策する。明日香村の民宿で宿泊。
4月14日  飛鳥をレンタサイクルにて散策。13日と同じ民宿にて宿泊。
4月15日  奈良県長谷寺、室生寺方面をドライブ、奈良市内で宿泊。
4月16日  京都駅経由で新幹線にて帰宅する。

<謝 辞>
 この「吉野・飛鳥短編随筆集」は、グリグリさんが運営されている個人サイト「都道府県市区町村」コーナーの掲示板である、「落書き帳」の中で連載させていただいたものです。グリグリさんには、たいへんお世話になりました。謹んで御礼申し上げます。

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