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四国西部を行く
〜卯之町、四国山地を中心に〜

2002年7月、九州南部を訪問した私は、佐伯からフェリーに乗り、高知県・宿毛に着きました。ここから、中村でレンタカーを借り、卯之町、面河渓、四国カルストを回りました。高知市手前で大渋滞に遭い、高速バスの時間ぎりぎりに駅前到着というハプニングもありましたが、穏やかな四国のドライヴを楽しむことができました。


片島から望む夕日

片島から望む夕日
(高知県宿毛市、2002.7.29撮影)
柏島遠景

柏島遠景
(高知県大月町、2002.7.29撮影)

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ページ設置:2004年2月9日


四国西海岸を行く

1999年春に訪れて以来の四国、四万十川の夏はいっそう輝いて、春の頃とは違った穏やかさに満ち溢れているようでした。以前行ったことのある足摺岬方面は、時間的稲制約から行くことは断念しまして、前回訪問できなかった、竜串へ足を伸ばしてみました。ゆったりと、南国のくっきりとした景観を楽しみながら、特徴的な岩石の節理が美しい景観を作り出している竜串へと向かいました。砥崎の細長い突起(千尋岬というようですね)と、叶崎のまるい出っ張りとに囲まれた竜串海岸は、第三紀にまで遡る砂岩層が浸食されて形成されたという、巨大な動物(竜?)の背骨のような岩石の列が並ぶ、緑豊かな、しずかな内湾です。竜串からは、グラスボートに乗って、海によって浸食された奇岩がさまざまな姿を見せる「見残し海岸」を海上から眺めることができます。陸上から遊歩道を介してアクセスする方法もあるようで、かつては近づく手段が無く、「見残した」という海岸も、ずいぶんと身近になっているようですね。

浦に出ては、狭い湾を望み、岬の部分ではトンネルを貫通しながら、国道は続いていきます。夕暮れが迫っていたのですが、一度目にしてみたかった柏島へ、道幅が狭く運転には少々注意の要する岬の県道を進みました。この付近は大堂海岸と呼ばれているようで、観音岩などの、特色ある岩石海岸が続くこの一帯は、長らく陸の孤島で、船による移動が主流であったのでしょうか。2つの島が砂州で結ばれたような島は小ぢんまりと、太平洋に浮かんでいました。近くの海面には養殖のいけすがたくさんあり、想像ですが、宇和海特産の真珠のそれではないかと思いました。柏島の背後には、もっと小さな蒲葵島の島影の向こう、沖の島が横たわっていました。


四万十川

四万十川
(高知県中村市、2002.7.29撮影)
竜串海岸

竜串海岸
(高知県土佐清水市、2002.7.30撮影)
御荘町の町並み

御荘町の町並み
(愛媛県御荘町、2002.7.30撮影)

※愛媛県御荘町は、この町が属する南宇和郡の町村(内海村・城辺町・一本松町・西海町)と、2004年10月1日に対等合併し、現在は「
愛南町(あいなんちょう)」となっています。

※高知県中村市は、2005年4月10日に西土佐村と合併し、現在は「四万十市(しまんとし)」となっています。

宿毛市内で宿泊し、翌日は朝早く出発して、卯之町を目指しました。この日は、卯之町を見つつ、面河渓谷を経由して、四国カルストを見つつ、高知市まで移動する予定でしたので、国道56号線沿線の風光を楽しみながら、ひたすら北を目指しました。途中、西海半島を高台から望める場所がありましたので、休憩がてら鏡のような水面を覗かせる入江をしばし眺めました。海と山に囲まれるわが国にあっては、まさに「津々浦々」に見られる光景ですが、本当に美しいですね。こういった何気ない風景の1つ1つにも、しっかりと目を配りながら、地域を歩いていければ、と思います。そういえば、このあたりは、2004年の10月には、「愛南町(あいなんちょう)」になりますよね。新しい町にも、そうした地域を細やかに見つめる姿勢を磨いて欲しいものです。

歴史と美しい町並み、卯之町を歩く

宇和島の町を過ぎ、宇和島藩の支藩があった吉田の町を颯爽と行き過ぎ、快適なドライヴは進みます。吉田町と宇和町との境界をなす山塊は法華津坂と呼ばれ、かつては難所であったのですが、現在は急坂ながらも、いくつかのトンネルによって、難なく通過できるようになりました。ちなみに、付近の字名や面する湾の名前は、「法花津」という表記になっているところが興味深いですね。法華津峠を大きく掘りぬいた法華津トンネルを抜けると、宇和町の中心地、卯之町はすぐそこです。

卯之町(うのまち)は、宇和島藩領にありながら、唯一在郷町として位置づけられ、のびやかな宿場町として商業文化が花開いたところです。卯之町の繁栄は、独自の町民文化を育み、開明学校を起こす新種の気風を培い、洋学者の二宮啓作もこの卯之町に住みました。二宮啓作をめぐっては、氏を慕って当地に学んだシーボルトの娘イネ、蛮社の獄で一旦は捉えられたものの、脱獄し逃亡中の身の上で一時卯之町に身を寄せた高野長英の存在など、歴史上の鮮烈なエピソードも伝えられています。宇和川の流域に穏やかに佇むこの街は、宇和島方面とも、また北の八幡浜及び大洲方面とも、峠によって画されて一定の独立性をもっているためか、現在でも比較的活気のある町並みであるように思いました。江戸末期から現在にいたるまで、景観的にそれほど大きな変化が無く至っているとも伝えられる、中町(なかのまち、「なかんまち」とする資料もあり)の町並みに程近い観光用の駐車場に車を停めて、付近を軽く散策してみることにしました。

卯之町遠景

卯之町遠景
(愛媛県宇和町、2002.7.30撮影)
旧開明学校

旧開明学校
(愛媛県宇和町、2002.7.30撮影)
卯之町・中町の町並み

卯之町・中町の町並み
(愛媛県宇和町、2002.7.30撮影)
卯之町・生活の舞台としての風景

卯之町・生活の舞台としての風景
(愛媛県宇和町、2002.7.30撮影)

※愛媛県宇和町は、この町が属する東宇和郡の町村および西宇和郡三瓶町が2004年4月1日に合併し、現在は「西予市(せいよし)」となっています。

中町の景観は、基本的に切妻屋根の、間口が狭く奥行きの長い町屋が路地の両側に立ち並ぶという、商人町に見られる一般的な景観を見せていました。際立つ卯建(うだつ)、白壁、半蔀(はじとみ)、出格子などが、往時の繁栄を今に伝えています。中には、長大な門を持つものもあり、伝統的な町並みがこれほどまでに穏やかに、かつ当たり前のように残されている卯之町の今を余すことなく感じることができましたね。そう、こうした歴史的な佇まいを残す町が、今でもまさに「現役」で人々の生活の場になっている、ということに大いなる感慨を抱いたのでした。洗濯物が干されたり、テレビやラジオの音が聞こえてくる街中を北東へ、裏手の丘陵方向へ軽やかにつながる石畳の道を行くと、高台に旧開明学校の擬洋風の建物が目に入ってきます。

開明学校は、幕末から明治の始めにかけて、儒学者の左氏珠山が大師堂で開いていた私塾が基礎となっています。珠山が宇和島藩校明倫館の教授として赴任した後に、学問を志した門弟が中心となり、新しい校舎、申義堂(しんぎどう)が建てられました。そして、1872(明治5)年の学制発布により、申義堂を校舎として開明学校が創立されました。現在の校舎は、1882(明治15)年に建てられたもので、瓦を用いた和風のテイストながらも、白壁にアーチ型の窓、洋館を思わせる正面玄関の張り出し部分などの特徴をもつ、擬洋風のハイカラな雰囲気は非常に珍しかったようで、建築当時から見学者が絶えなかったと伝えられているのだそうです。校舎は、途中小学校例の発布により「開明学校」の名前は変わりましたが、地域の子供たちの学び舎として、1921(大正10)年まで使用されました。訪れた日は、朝日も夏の猛々しい太陽となって、町を燦燦と照らし、夏にしてはめずらしいくらいくっきりとした青空の下、旧開明学校の建物を見ることができましたので、建築時の町人や学徒たちの意気込みが並々ならぬものであったことを、深く印象付けられたように思います。かつての開明学校の前からは、中町のやさしい屋根が連なる様子や、その町並みが現代の町並みと共に実に穏やかに、かつ自然に共存している様子をはっきりと眺めることができました。

こういった、卯之町の深い歴史を重視してのことでしょうか、卯之町に程近い丘陵上には、愛媛県歴史文化博物館が設立されています。館内には、豊富な展示スペースが確保されていまして、愛媛県内の原始から現代にいたるまでの歴史や文化にまつわる史料がふんだんに展示されていました。新居浜祭りで使用される巨大な「太鼓台」や、松山市内の昔懐かしい街角を再現したものなど、目を引く展示も見所です。


四国山地の自然に触れて


卯之町を後にした私は、大洲、内子を経由し、国道380号線、同33号線、県道を経て国道494号線と、四国山地へと進み、面河渓へと至りました。清冽な流れと、周囲の深く鮮やかな緑に癒されましたね。さらに、四国カルストを経由しながら高知県内に入り、関東平野に暮らしていては絶対に通ることはない、狭く曲がりくねった道を何とか進んでなんとか国道33号線に出て、高知市へと向かいました。途中急傾斜の斜面にあって、わずかに点在する緩傾斜の部分に固まるようにして発達した集落の様子などを見て、どこか中国山地の只中でも見られるような風景だな、と思いましたね。そういえば、徳島県の祖谷山地方も同様ですね。山の中の暮らしとか、集落景観の態様などは、これからも私が見つめていきたい、主要なテーマの1つです。今回のドライヴは、そういった地域に雰囲気を感じる上での、貴重なイントロダクションになったものと思っています。

面河渓

面河渓
(愛媛県面河村、2002.7.30撮影)
山中の集落景観

山中の集落景観
(愛媛県柳谷村、2002.7.30撮影)
四国カルスト・姫鶴平

四国カルスト・姫鶴平
(愛媛県柳谷村、2002.7.30撮影)
※愛媛県面河村及び柳谷村は、久万町及び,美川村とともに2004年8月1日に合併し、現在は「久万高原町(くまこうげんちょう)」となっています。

この旅程の前半部分(九州南部)については、地域文・「西海道訪問記 II 」をご覧ください。


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