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瀬戸内逍遥 II

厳島神社大鳥居

厳島神社・大鳥居
(2003.8.29撮影)
竹原市・エデンの海ポケットパークより

竹原市から見た瀬戸内海(大崎上島の方向)
(2003.8.31撮影)
鞆の浦・対潮楼

福山市鞆の浦・対潮楼からの景観
(2003.9.1撮影)
 古来より、多くの人々や物資が行き交った海の道、瀬戸内海。さまざまなエッセンスを含んだこの珠玉の海とともに存立してきた諸地域をめぐりました。

訪問者カウンタ
ページ設置:2003年11月2日




1.安芸の宮島

広電の愛称で知られる広島電鉄の市内電車は、広島市の市街地を路面電車として通過した後、宮島口へ向かう郊外列車へと変貌します。宮島線は、海岸に近づいたり、庶民的な雰囲気が穏やかな住宅地を通過したり、国道と並走したりしながら、軽やかに広島都市圏の郊外化のすすんだ街並みを進んでいきます。

廿日市市地御前には、厳島神社の外宮である地御前(じごぜん)神社が鎮座します。旧暦の617日の夜に行われる厳島神社の管絃祭(かんげんさい)は、3艘の漕船に曳かせた御座船にご神体である鳳輦を乗せて厳島神社の本殿前を出航し、地御前神社まで神幸させる祭礼で、瀬戸内海を舞台に繰り広げられる優雅な管絃は、ご神慮を慰めるために行われる伝統行事です。元禄期に御座船が遭難した際、いち早く救援したのが、阿賀村(現在の呉市阿賀)の漁船と江波村(現在の広島市中区江波)の漕船であったことが縁となり、以来漕船には阿賀と江波の両町が奉仕する慣わしとなっています。

管絃祭に使われる船

管絃祭に使われる船が展示されている
(宮島町桟橋前、2003.8.29撮影)

宮島口の駅から、宮島航路の桟橋までは目と鼻の先です。JRと松大観光フェリーが運行されているのですが、広電の一日乗車券の利用であったので、松大観光フェリーを利用しました(双方近い距離で、並行した航路をとっています)。一日乗車券のカードリーダーが桟橋入口にもちゃんと設けられていました。

対岸の宮島は、弥山を中心とした急峻な山容が圧倒的な存在感を示しながらも、ゆたかな植生が島全体を被覆しているので、猛々しさとともに、緑色が落ち着いた雰囲気を醸す、どこかたおやかな容貌をも同時に見せているように感じられます。大野瀬戸が夏の終わりのゆるやかな日光を穏やかに小波に受けて輝き、凪いでいたこともあるいはそのやさしさを強調していたのかもしれないな、と今になって思い返しました。厳島神社の大鳥居は、満潮の時間帯とあって、社殿にまで浸水した海に両足を浸しておりました。

宮島を訪れるのは、19948月以来です。既に9年もの歳月が流れていることもあり、当時を思い起こして脳裏に浮かぶ事柄といえば、厳島神社の社殿が見事だったことと、やたら鹿がうろついていたこと程度です・・・。しかし、こうして改めて宮島を訪れると、厳島神社の荘厳な結構は勿論のこと、五重塔や千畳閣などに代表されるゆたかな建造物が多様に存在すること、そしてそれ以上に海運との関連で栄えた都市としての宮島の姿に、たいへん印象付けられたのです。実に魅力的な、瀬戸内の港町を髣髴とさせるような街並みがそこには展開していたのです。

厳島神社を過ぎて、大元神社の方向に進んでいくと、宮島水族館の手前に当地における江戸期の豪商江上家の住宅を改装した「宮島町立宮島歴史民俗資料館」があります。活況を呈した商家の漲る力を髣髴とさせる庭や、歴史と重みを感じさせる梁や調度の数々は、宮島町を語る歴史的、文化的な資料とともに、西廻り航路の拠点の1つとしての栄華に満ちたこの島の残像を静かに語っているようでした。清盛神社の鎮座する御手洗川河口付近は、西松原の美しい松並と、川にもやわれた小船とそこへ向かう階段が作られた景観となっていて、海と密接な関連のあったこの町の姿を今に伝えているかのようです。

厳島神社社殿

厳島神社社殿
(2003.8.29撮影)
歴史民俗資料館付近の町並み

町立歴史民俗資料館付近の町並み
(2003.8.29撮影)
宮島町中心部の町並みと五重塔

宮島町中心部の町並みと五重塔
(2003.8.29撮影)
御手洗川にもやってある小船

御手洗川にもやってある小船
(2003.8.29撮影)

そんな宮島町の中心部は、歴史的なムードに満ちた、懐かしい雰囲気の色濃い落ち着いた街並みの宝庫でした。土産物店が並ぶ表通りを歩いたのでは絶対に出会えない、瀬戸内の古い街並みは、見事という他ありません。厳島神社や大元神社を見た帰路に、千畳閣から見下ろした街並みのたおやかさに惹かれ実際に街中を歩いて見ましたが、そのあまりの奥ゆかしさに、路地を歩いていてとても晴れやかな気持ちになりました。

広島へ帰るため、再び桟橋方面へと歩き始めました。大鳥居を介して望む、海の向こうの本州は、広島大都市圏の拡大に呼応してつくられたと目される多くの団地たちが、丘陵の上にモザイク状に分布する景観でした。





2.竹原とその周辺

瀬戸内には、かつて北前船による交易で栄えた、数多くの魅力的な港町が点在しています。北前船は、江戸期を中心に栄えた海上の流通を一手に担った貨物船であり、特に蝦夷地から本州日本海岸を経て瀬戸内に入り、大坂・堺へと至る「西廻り航路」を介して盛んに物資が流通し、各地の産物が北前船の寄港地ごとに取引されました。北前船が輸送した主要な産物の1つが、瀬戸内の「塩」でした。竹原は、塩の生産によって栄えた伝統を持つ町です。

竹原は、賀茂川流域の産物の集散地として存立してきた港町でした。江戸時代になると、賀茂川河口に広がる広大な浅海を埋め立てて、農地の拡大が試みられたものの、塩分の強い土壌では稲は生育せず、十分な収量をあげることはできなかったようです。そこで、時の代官、鈴木四郎左衛門が塩田の開発を考案し、赤穂の技術を移入し、「入浜式」による塩の生産が始められました。生産された塩は、「竹原塩」と呼ばれ、名品として珍重されました。竹原の塩田の歴史は、1650(慶長3)年に始まり、1960(昭和35)年に塩田が廃止されるまでの310年間に及んで、竹原の発展の礎となりました。現在、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているゆたかな街並みは、塩の売買によって巨万の富を生み出した時の豪商、商家によって構成されています。831日、広島市方面から呉市、安浦町、安芸津町と経て、瀬戸内の海としまなみを堪能しながらドライヴを進めてきた私は、そんな竹原の伝統的な街並みを確かめようと、竹原の市街地へ足を踏み入れました。

観光駐車場で車を降り、かつて塩の積み出しが行われ雁木や常夜燈の見られる本川を渡って、街並み保存地区へと入ります。本川に沿った古い町筋が下市、上市とよばれる街路で、この一帯に江戸後期の商家が保存されています。「板屋小路」から本町通りに入ると、正面に竹鶴酒造を営んでいる竹鶴邸の豪壮な建物が目に入ってきます。入母家妻入の前面に3尺の庇を出した主屋と、その南に次第に軒を高くする主屋と同じ形の2棟が並ぶつくりとなっておりまして、長い庇と美しい格子が目を引きます。竹鶴酒造は、ニッカウヰスキーの創始者である竹鶴政孝の生家でもあります。竹鶴酒造の前を右に折れ、南に進むと町の南のはずれに町の境界神として、塩浜の守護と信仰される地蔵院の横を通って山側に進むと、長生寺の石段へと至ります。長生寺は、1587(天正15)年に、豊臣秀吉との戦いに敗れ竹原へ逃れた伊予の豪族河野通直が客死し、重臣四十二士もともに殉死したのを小早川隆景が哀れみ、寺領200石を寄進して創建したものと伝えられています。

竹原の町並み

竹原市町並み保存地区の景観
(2003.8.31撮影)
西方寺普明閣

西方寺普明閣
(2003.8.31撮影)
竹原市街地俯瞰

普明閣から望む竹原市街地
(2003.8.31撮影)
常夜燈と雁木

竹原市・本川に佇む常夜燈と雁木
(2003.8.31撮影)

長生寺から街並みを概観した後、再び地蔵院の前を通過して、下市から上市方面へと、伝統的な街並みが連続する地区を歩きました。一口に伝統的な町屋と言っても、よく観察してみますと家ごとに構造が異なっておりまして、竹原市のホームページの記述を引用いたしますと、本町通りの中央部は主屋、座敷、蔵を連ねた多棟連結型の町屋が多く、南北端で独立型町屋や妻入りの町屋が見られるほか、本町通りから内側に入った横丁には、屋敷型の町屋や長屋もあるとのことで、実に多様な表情を見せる街並みを構成しています。街のほぼ中央には、塩田の所有者である「浜主」として財を成した豪商松坂邸が目を惹きます。同邸に備えられたしおりの記述を用いて建物のかたちを説明しますと、「てり、むくり」の流れるような屋根、うぐいす色のぬりごめの、しっくいぬりの大壁、低い二階の菱格子の窓、ゆるくカーブした庇、その下の彫りをもった出格子が特徴的な町屋であり、竹原の街並みの中では最も豪華な建物の1つと言われているのだそうです。その説明の通り、唐破風の屋根と菱格子の調和が美しい、すてきな建物でした。

松坂邸を過ぎて上市の町並みを進み、しばらくして東の山側につけられた石段を登ると、西方寺へ至ります。この寺院は、もとは禅寺で、地蔵堂の隣にあったものが、禅寺の妙法寺があった現在地へ移り、浄土宗に改宗したのだそうです。西方寺のとなりには、普明閣と呼ばれる朱塗りの柱が鮮やかな建物があり、特異な屋根形式と優れた細部意匠を持つことから、竹原の景観の中心となる重要な建築とされています。普明閣は、小早川隆景が京都清水寺の舞台を模して創建したと伝えられる方三間、宝形造・本瓦葺の二重屋根、舞台造の建物です。その特徴的な建物も一軒の価値がありますが、普明閣から眺められる眺望もまた、竹原の町並みを最も美しく望むことができ、たいへん著名です。

普明閣からの眺める竹原の街は、手前に連なる町並み保存地区の美しい瓦屋根の家並みをベースに、その西側に塩田跡地を開発しながら広がった新興住宅地や中心市街地が展開し、更に、三井金属の工場と煙突が背後に立地して竹原市の現代の産業を象徴するといった構造になっていまして、それらが瀬戸内のたおやかな丘陵のなかに静かに広がって、波穏やかな瀬戸内海と向きあっているのでした。瀬戸内海の水面と、なだらかな稜線を描く丘陵との中にあって、伸びやかに広がる、慎ましやかな町、そんな印象を持ちました。町の大きさも小さすぎず、大きすぎず、どこかほっとするような、そんな感覚です。

上市の町並みもまた実に特色に溢れる町屋の連続で、商家ごとに工夫を凝らして、その威を競った当時の町の活気をいまに伝えているかのようでした。竹原市歴史民俗資料館に立ち寄ってみました。館内には、竹原市における塩田の歴史や民俗に関わる資料が豊富に、かつ要領よく整理されておりまして、一見の価値があると思います。竹原はまた、元禄文化の影響で学問の文化が発達した土地柄でも知られておりまして、「頼山陽を知らずして竹原を語るなかれ」と言われるほど世に知られる、頼山陽をはじめとした頼一門による影響もあいまって、竹原文化は大いに栄えました。

上市のはずれには、地蔵院と対になって境界神として信仰を集める胡堂があり、また小早川氏代代の子弟の学問所として寺領300石を領していた照蓮寺などがあって、豊かな町並みをいっそう重厚なものにしているように思われました。竹原は、江戸期における、海を介した巨大な物資流通の繁栄の一端を今に伝える、昔語りの町です。町並み保存地区は、そんな竹原の歴史のエッセンスが見事に凝縮された、とても魅力的な景観に出会える場所でした。

竹原を後にして、さらに三原市方面へと車を走らせました。その道程もまた、瀬戸内海の静かな海原と、それに重なるようにして浮かぶ島々と並びながらのドライヴです。途中、「エデンの海」と呼ばれるポケットパークがあり、そこからは大崎上島や大三島、生口島などの島々を美しく眺めることができまして、夕刻には、島の向こうに鮮やかな太陽が沈んでゆく様子をばっちりと望むことができそうでした。この「エデンの海」とは、忠海を舞台にした映画に因むのだそうですね。生口島と大三島とを結ぶ多々羅大橋と思しき橋梁もまたはっきりと目にすることができましたね。やがて、国道は広島の浅野家支藩であった三次藩の蔵米積出港であり(三次藩はその後断絶した)、北前船の寄港地としても繁栄した忠海へと入っていきます。

忠海港の景観

忠海港の景観
(2003.8.31撮影)
忠海の常夜燈

忠海・JR呉線の踏切前に佇む常夜燈
(2003.8.31撮影)

現在の忠海は、なだらかな丘陵の前面に広がった小ぢんまりとした海岸集落のように見えます。穏やかな波の寄せる港には、たくさんの艀がもやってあり、静かな漁村としてのたたずまいを見せています。海岸すれすれを行過ぎるJR呉線の踏切近くには、立派な常夜燈が建てられていました。忠海には、瀬戸内のかつての植物相を今に伝える照葉樹林の社叢を背にした忠海八幡神社や、小早川氏の一族で猛将として名高い浦宗勝が菩提寺として建立した勝運寺などが佇む、歴史の香りも感じさせる町なのでした。忠海町内の小字である二窓と、お隣の三原市幸崎町内の能地は(二窓は能地の支村)瀬戸内から九州方面に広く漁業を展開した家船(えぶね)の一大根拠地としても知られています。家船とは、1つの船に家財一式をすべて積み込み、家族全員が船の中に居住し(つまり船を住居とし)、海上を移動しながら漁業によって生計を立てる、漂海民の船です。現在、能地における家船は絶えてしまったのですが、戦前だけでなく戦後もしばらくは家船が残存していたといいます。能地は瀬戸内における家船の根拠地として、瀬戸内一帯に100以上の枝村を擁していました。また、何度か触れております小早川氏は瀬戸内の水軍との関わりも深く、海の上を自由に移動して活動した水軍の活動海域としても重要な海であったことでしょう。

北前船による交易の歴史、家船による漁業が展開した歴史、そして戦国時代の情勢を左右した水軍が割拠した歴史、それらのエッセンスを各所に残しながらも、忠海の集落は穏やかな瀬戸内海に接して、ゆったりとした時間の中にあります。竹原市の周辺には、そんな海と濃厚にかかわってきた地域の姿が随所に残されているようです。





3.瀬戸内海の真ん中 〜鞆の津〜

福山市南部、鞆の浦は、古くから瀬戸内における有力な寄港地として栄えた、歴史とふるい町並みとで知られます。その豊かな風光もさることながら、鞆の浦が重要な港湾としての地位を築いてきた理由としては、鞆の浦がちょうど瀬戸内海の真ん中にあたるという、地勢的な要因もまた重要です。紀伊水道と豊後水道・関門海峡からほぼ等距離にある鞆は、東西両方向からの潮流の分岐・合流点であり、上潮に乗れば容易に鞆の浦に近づくことができましたし、また鞆にて風待ち、塩待ちをして引き潮に乗れば、容易に東にも西にも航行することができるためです。万葉歌人の大伴旅人が、任地大宰府からの帰路に鞆に立ち寄り、往路は健在であった自らの妻を偲んで詠んだ、「鞆の浦の磯の室木見むごとに相見し妹は忘れられらも」「吾妹子が見し鞆の浦の天木香樹(室木)は常世にあれど見し人ぞなき」の歌はあまりに著名ですね。これらの歌は730(天平2)年に詠まれたものですから、当時の「むろの木」はもちろん現存しておりませんが、鞆の浦に面して歌碑が建てられています。

一般に「鞆の浦」と呼ばれるこの港ですが、風待ちの湾ということ以上に、船舶が投錨する「港湾」としての性格をより重要して、現地では積極的に「鞆の津」という呼び方がされているようでした。そこで、本稿では、これからは港町としての鞆の町を見つめる意味から、「鞆の津」という呼称を用いていこうと思います。

鞆の津の町並み

鞆の津の町並み
(2003.9.1撮影)
安国寺山門

備後安国寺山門と付近の景観
(2003.9.1撮影)

鞆の津には、辻(交差点)が1つしかないのだそうです。最近の道路の新設や拡幅によって複数存在するようなのですが、そういったまちのつくりを見ても、鞆の町がただならぬゆかりを持つことが知られます。そんな昔ながらの細い路地には、時代を重ねた奥ゆかしい民家が軒を並べています。これだけの古い町並みが、町ぐるみの規模で保存されている地域は日本中探してもそうないのではないだろうか、などと思いをめぐらせながらそぞろ歩いていますと、深い茶色にくすんだ建物の間に、洋風の近代建築がいきなり現れました。明治期あるいは大正期に建設されたものだろうか。丁字路に面して、おだやかに時をかさねた薄めのグレーの外壁が、古きよき時代の洋風建築の佇まいを見せておりまして、現在でも「しまなみ信用金庫」の店舗として現役なのがまた、鞆の町らしいような気がいたします。この建物の存在は同時に、明治大正期に至っても趨勢の衰えなかった鞆の津の活況を今に伝えています。

信用金庫の角を北に折れ、沼名前神社へと続く参道を西に向かい、1989年の海と島の博覧会の時に整備されたという案内表示をたよりにさらに路地を北に折れ、備後安国寺へ。この古刹は、創建が鎌倉時代文永年間(12641275年)に遡るとされており、南北朝時代に足利尊氏が元弘以来の戦没者を慰めるため、国ごとに一寺一塔を建立したものの1つです。唐風の入母屋造りの釈迦堂は創建当時からの建物で、均整のとれたしなやかな結構が背後の丘陵に繁茂する常緑樹の緑と、奥ゆかしい町並みの雰囲気によく溶け込んでいるように感じられました。

沼名前神社社殿

沼名前神社社殿
(2003.9.1撮影)
沼名前神社から見た鞆の町並み

沼名前神社から眺めた鞆の町並み
(2003.9.1撮影)

来た道を戻り、「鞆の祇園さん」と呼ばれる沼名前(ぬなくま)神社へ向かいます。付近の郡名である「沼隈」と音が似ているので、きっと関連があるのでしょうね。神社前に設置されていた説明表示の文章を借りますが、この神社は、「大綿津見命(おおわたつみのみこと)」を祀る渡守(わたり)神社と、「須佐之男命(すさのおのみこと)」を祀る祇園宮とが合祀されたもので、平安時代に編まれた「延喜式」にもその名があるのだそうです。渡守神社には、神宮皇后が武具の「鞆」を奉納したという伝説が残っていて(これが鞆の地名の始まりと伝えられてるそうです)、海上安全祈願の神社で、一方の祇園宮は無病息災を祈る神社です。そして、京都祇園の八坂神社も、この祇園宮から移されたものだとも言われているのだそうですから、驚きです。地域の住民の信仰も厚いようで、この日(91日)も朝10時前には神職の祈祷の時間に合わせて何人かの人たちがやってきて、いっしょに祈りを捧げていらっしゃいました。「お弓神事」(旧暦の17日に近い日曜日)と「お手火神事」(旧暦の67日に近い土曜日)は、福山市の無形民俗文化財に指定されているとのことです。また、例年630日には「夏越の大祓(なごしのおおはらえ)」と呼ばれる行事も行われます。これは、人間の形を模した紙片(人形;ひとがた)に家族の名前を書いて身体をなで、息を吹きかけたものを神社に奉納して無病息災を祈祷してもらい、それを茅の輪の形にくくりつけて軒先などに掲げて魔よけとする「茅の輪行事」が中心となります。沼名前神社は、江戸期の福山藩主水野氏の信仰も厚く、石鳥居や能舞台など数多くのものが寄進されています。能舞台は国指定の重要文化財で、京都・伏見城内にあったものを、福山築城の際に幕府から拝領したものであるといいます。沼名前神社から鞆の町を眺めると、手前の寺町を基礎として、仙酔島に向かって穏やかに連なる、緑豊かなまちなみが眺められました。

沼名前神社を後にして、右手の方向に進みますと、顕政寺、妙蓮寺、静観寺、法宣寺、南禅坊、阿弥陀寺、明円寺から山際の医王寺へと寺院の甍が並んで、鞆の津の町に落ち着きと奥行きとを与えています。その寺町を歩いていると、「ささやき橋」という表示のある、小ぢんまりとした、「橋」があります(本当に小さいんです)。鞆の津は、朝鮮通信使の一行が逗留した土地の1つですが、その一行を接待した役人と、大使の世話をした官妓が人目を忍んで橋の欄干に寄り添って愛を交わしたというラヴ・ストーリーが伝わる場所なのだそうです。そして、その橋のすぐ側には、山陰の雄、尼子氏に仕えた十勇士の一人として知られる山中鹿之助の首塚と伝えられる、自然石の墓標が立派な石垣に囲まれてあります。このような対照的ないわれを持つ事物が並んでいるというのも、鞆の津で紡がれた歴史の、奥の深さのようなものをそれが物語っているようでもあります。

寺町を過ぎて、医王寺の鎮座する山際への坂道を歩みます。坂道の途中にある明円寺には、榊の木を手にした多くの地元の人たちが、墓地に足を運んで祈りを捧げていらっしゃいました。後で、地元の方にお話を伺ったのですが、この日に特別な行事があったわけではなく、鞆の人々は日常的に祖先への供養を行う人が多いとのことでした。先の沼名前神社での祈祷のことといい、とかく大衆社会化の進む現代にあって、このような信仰の習慣が連綿と受け継がれている鞆の津の、豊かで、穏やかな人々の気質を目の当たりにした思いでした。現在、鞆の津には19の寺院があるそうで、ただでさえ町の規模に比してお寺の数が多いように感じられるのですが、これが戦前には27も存在していたというのです。これは、地域の人々の信仰が深かったということ以上に、北前船交易で鞆の津に多く勃興した廻船問屋が海上安全や繁栄を祈って、それぞれに寺院を建立したためなのだそうです。鞆の津がいかに栄えた港町であったかを示すものであると言えますね。

鞆の津遠景

医王寺から眺めた鞆の津
(2003.9.1撮影)
鞆の津遠景

医王寺から眺めた鞆の津(港)
(2003.9.1撮影)
七卿落遺跡付近の景観

七卿落遺跡付近の景観
(2003.9.1撮影)
鞆の津の常夜燈

鞆の津の常夜燈
(2003.9.1撮影)

医王寺からの鞆の津の眺望は、実に見事です。仙酔島などの島嶼が広がる東側から、大可島城跡のある岬をまわって、ゆるやかなカーブを描く静かな港までの間に展開する歴史の町、鞆の津の全体を、まさに手にとるように眺望することができます。おだやかな海面、慎ましく広がる町並み、それらをやさしく取り囲む鮮やかな緑に接して、鞆の津の風光を、余すところなく味わうことができましたね。

その後、日本一の高さを誇る常夜燈や雁木(階段状の桟橋)が美しい港のようすや、尊皇攘夷を主張する三条実美ら7人の公家が公武合体派に追われ長州に下る途中、鞆の津に寄稿して立ち寄った「旧保命酒屋」を中心とした「鞆七卿落遺跡」や、朝鮮通信使の李邦彦が、そこから眺める眺望を「日東第一形勝」と賞賛し(1711年)、同じく朝鮮通信使の洪景海によって「対潮楼」の名を得たという、福禅院対潮楼などを回りながら、鞆の津の町並みの中を歩きました。

古くより海上交通の要衝として重要な位置を占め、かつ歌枕として多くの憧憬を集めてきた鞆の津。江戸期の北前船による交易を経てその繁栄を維持してきた、経済都市としての鞆の津。高度成長期の荒波を受けて多くの歴史ある町並みが重大な変容を経てきたわが国にあって、変化をしながらも地区を規定する中心的なエッセンスをかたくなに維持してきた、ノスタルジックなこの町が、今後ともそのベースを崩すことなく、歩んでいって欲しいと心から願わずにはいられません。





4.瀬戸内逍遥II おわりに 〜風景としての“瀬戸内海”〜

瀬戸内とそのしまなみが作り出す風景は、多くの人々の旅愁を誘うシーンの1つであろうと思います。穏やかな海、その海に重なるようにたゆたう無数の島々が織り成す情景は、朝鮮通信使の一員によって「日東第一形勝」と言わしめたのをはじめ、瀬戸内を航行した多くの人々によって、魅力溢れる風景として記述されるところとなっています。岡山県倉敷市の鷲羽山から望む瀬戸内の風景は、そんな瀬戸内の風景美が凝縮されたものとして、瀬戸内を代表する景観となっています。備讃瀬戸のゆったりとした海面と、本島や与島、六口島などの島々からなる塩飽諸島の島々が、讃岐富士や五色台、屋島などを連ねた四国の島影と重なって、実にのびのびとした眺めです。現在はそれらの島伝いに瀬戸大橋の一連の橋梁が架けられていることは周知のことと思います。

91日の午後、鷲羽山から備讃瀬戸を眺めました。瀬戸大橋はもちろんのこと、讃岐富士をはじめとした四国の大地もくっきりと望むことができました。眼下には、やはり北前船の交易と、金毘羅参りの参詣客が四国へ渡る渡船場として栄えた下津井の町が広がります。なお、下津井から北東へ8キロメートルほどの山中に、「由加大権現」とよばれる神社があり、ここは金毘羅さんと由加大権現と、両方をお参りしなければおかげが半分になってしまうという、いわゆる「両参り」の慣習がありまして、その両方の神社へのお参りの拠点としても、下津井は重要な場所だったわけです。

水島付近の蓮田

倉敷市水島付近の蓮田
(2003.9.1撮影)
廻船の模型

むかし回船問屋に展示されている廻船模型
(倉敷市下津井、2003.9.1撮影)
下津井の町並み

下津井の町並み
(2003.9.1撮影)
下津井港と瀬戸大橋

下津井港と瀬戸大橋
(2003.9.1撮影)

下津井には、回船問屋の歴史を感じることができる「下津井むかし回船問屋」という施設があります。ここは実際の回船問屋の建物を資料館として修復したもので、中には北前船の精巧な模型が飾られていて、下津井の往時を偲ぶことができます。周辺の地域も、狭い路地に間口が狭くて奥行きのある、白壁の家々が並んでいまして、昔懐かしい風情が残されています。現在では、四国への玄関口という性格はほとんどなくなり、交易による繁栄も過去のものとなって、昔ながらの雰囲気を残した漁村的な性格の町となっているようです。ちなみに、下津井のタコは美味で知られているそうです。

下津井から、児島湾の干拓などで大きく広がった岡山平野を東へ進みます。かつては海に浮かぶ島であったであろう、丘陵地がゆったりとした景観をつくり出す中で、広大な水田が広がります。水島コンビナートの付近では、蓮田も広がっていましたね。かつては独立した市であった西大寺の町を過ぎて、朝鮮通信使の寄航した港町、牛窓へ向かいました。

鷲羽山からの眺望

鷲羽山からの眺望、坂出市方向
(2003.9.1撮影)
鷲羽山からの眺望

鷲羽山からの眺望、塩飽本島方向
(2003.9.1撮影)
牛窓の町並み

牛窓の町並み(本蓮寺より眺望)
(2003.9.1撮影)
室津港(兵庫県御津町)

室津港夕闇
(2003.9.1撮影)

牛窓は、岡山藩の表玄関として、江戸期を通じて栄えた海運の町です。沖合いに大小の島々が浮かんでよく波を防ぎ、天然の良港としての地勢を備えた牛窓を、岡山藩は重視し、港内に「一文字波止」と呼ばれる防波堤を整備したり、街の東端に灯篭堂を建設したりしました。その結果、牛窓浦には多くの参勤交代の大名船に加え、幕府の賓客である朝鮮通信使も牛窓に立ち寄るようになりました。やはり昔懐かしい町並みの残る牛窓の町や港を望む本蓮寺は、朝鮮通信使の接待所として利用された歴史があります。港に接して、明治時代に建てられた旧牛窓警察署の本館を利用したという資料館、海遊文化館。館内には、県の重要有形民俗文化財の「だんじり」が3基展示されています(牛窓全体では8基あり、町内ごとに「だんじり」が所有され、町内の所々に格納庫があります)。架空の麒麟や龍がモチーフとなっており、迫力も十分です。10月の第4日曜日に、町を練るのだそうです。また、朝鮮通信使に関する展示もなされていて、古くから栄えた牛窓の歴史と文化を鮮烈に知ることができました。

日が徐々に西へ傾こうとする中、赤穂を経由して、やはり風待ち港として、「海の本陣」と謳われた、室津へ自動車を走らせました。西国大名が参勤交代を行う際は、途中まで海路を利用したのですが、海から陸へ上がった場所が、この室津でした。室津へ到着した時にはすでに日没の時刻になっておりまして、深く湾入したその良港は、薄暗い闇の中へとまさに消えてゆこうとしておりました。

古来、人々にとって、風景とは意味世界、文学の中の世界でした。「歌枕」に代表されるように、景観的な、あるいは視覚的な感覚よりも、その土地に寄せる人々の感傷的な思いの集合が、その土地そのものを象徴していたのでした。今日のように、風光を愛でるために各地を旅するという習慣がなかった当時の人々にとっては、それぞれの土地を訪れた先人の残したエピソードの重なり合いが、まさにその土地の“風景”そのものでした。

今、穏やかな瀬戸内の海としまなみに接して、私たちはその風景ののどかさに感動し、癒されます。それは、江戸時代以降、町民の間にもお伊勢参りなどの旅行的な習慣が普及するにつれて、日本人が次第に景観としての風景の魅力に気づき、写実的な西洋の世界観を移入する過程において獲得してきた、新たな世界観でもありました。このプロセスにおいて、歌枕のような、伝統的な地域への眼差しは、風景としての眼差しという視点を加えて、より奥行きのある、より詩情と芸術性に溢れた、眼差しへと昇華したのでした。

私は、今回瀬戸内沿いを思いのままに彷徨したわけですが、そこに展開してきた瀬戸内の風景は、重要な海路として多くの物資や人々を運んできた歴史を反映したものでもありましたし、ゆたかな輝きと穏やかさとをいっぱいに溶け込ませた自然そのものでしたし、瀬戸内に足跡を残した多くの人々が見て感じた言葉によって洗練された文学的な世界でもありました。それらが絶妙に重なり合いながら、瀬戸内の風景はそこに存在し、またそれに多くの人々が現在進行的に接して、無数の新たな世界観が生産されて、積み重ねられています。そんな風景こそ、瀬戸内の魅力なのではないか、そう思います。

私は、まだそんな瀬戸内のほんの一端に触れたに過ぎません。これからも、さまざまな歴史や風土、風光に裏打ちされた、瀬戸内の風景に学びながら、瀬戸内の諸地域を歩いていけたらと考えています。

瀬戸内逍遥II −完−





Regional Explorer Credit
 2003年8月29日  前夜出発した東京新宿発の高速バス「エトワールセト号」にてJR福山駅着、新幹線でJR広島駅に移動し、宮島へ行った後、広島市内を市電で散策。夜、生まれてはじめてのプロ野球観戦を広島市民球場で果たす。野球終了後、急いで三次市へ移動(JR芸備線利用)、同市内で宿泊。
       8月30日  午前中、三次市内を散策。午後、庄原市の国営備北丘陵公園へ移動、とあるイベントに参加。この日も三次市内で宿泊。
       8月31日  三次市内でレンタカーを借り、中国道を広島北I.C.まで走行後、広島市可部で止まり、町並みを歩く。その後、広島市中心部〜呉市〜竹原市とドライヴし、竹原と忠海を散策。その後、福山市までレンタカーで移動し、同市内で宿泊。
       9月 1日  福山市鞆の浦を散策し、倉敷市下津井・鷲羽山、牛窓町などを散策後、備前市、日生町、赤穂市、御津町を経て、姫路市でレンタカーを返却。神戸市へ移動し、同市内で宿泊。
       9月 2日  神戸市内散策(JR灘駅周辺、兵庫周辺)。午後8時に大阪・なんば発の高速バスにて帰路に就く。
 ※ 上記行程のうち、広島市内分、三次市内分及び神戸市内分につきましては、別稿にて発表をしたいなと思っています。


主な参考文献

広島県の歴史散歩研究会(1992)『広島県の歴史散歩』山川出版社 “新全国歴史散歩シリーズ”
羽原又吉(1963)『漂海民』岩波新書
西田正憲(1999)『瀬戸内海の発見 意味の世界から視覚の風景へ』中公新書
山本慶一・西田正憲(1997)『鷲羽山』日本文教出版(岡山市)“岡山文庫”シリーズ
沖浦和光(1998)『瀬戸内の民俗誌 −海民史の深層をたずねて−』岩波新書
加藤貞仁・鐙啓記(2002)『北前船 寄港地と交易の物語』無明舎出版(秋田市)



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