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山陰ピクトリアル
〜鳥取県の諸都市をめぐる〜

 2007年9月、中国山地から山陰にかけてのエリアをめぐりました。中国山地のあわいに点在する中心地群に比して、山陰沿岸部に展開する都市群は、それぞれに個性に溢れた姿を見せていました。

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ページ設置:2008年1月21日

鳥取市街地を歩く

 2007年9月、久しぶりに鳥取の町を歩きました。初めて鳥取を訪れたのは1999年7月のことで、鳥取砂丘を訪れながら市街地周辺を少し歩いた程度の時間の中で、壮大な鳥取駅の駅舎と駅前から連なる大通りに「山陰の都会」を感じたのを覚えています。その時の感想をまとめた地域文「山陰の夏 II」には、鳥取市街地のようすを「鳥取市は、人口15万、県庁所在都市では決して人口規模が大きいほうではないが、巨大な駅舎に、駅前から県庁までの間に展開する市街地はなかなか高密度で、同人口規模の他の地方都市と比べても、中心性は高いと感じた。」と端的に記しています。それから約8年後の鳥取は、県庁所在都市としての市街地規模そのままに、そこにありました。高架の駅舎は相変わらずの規模で、昨晩投宿したホテルも立地する南口方面の市街地も、十分な密度を持っていました。広い駅前広場を通り、駅前を横切る幹線道路を横断して、県庁前まで続く目抜き通りを8年前と同じように歩みました。

JR鳥取駅

JR鳥取駅
(鳥取市栄町、2007.9.2撮影)


JR鳥取駅前の景観
(鳥取市栄町、2007.9.2撮影)
遠景は久松山

若桜街道の景観
(鳥取市戎町、2007.9.2撮影)
武家門

箕浦家屋敷武家門
(鳥取市尚徳町、2007.9.2撮影)

 歩道にかけられたアーケードが冬の山陰の気候を彷彿とさせます。駅周辺にはややまとまって高層建築物がある一方で、中心市街地は中低層の建物が主流となります。駅間広場の大きさとあいまって、鳥取の町並みのゆったりとした雰囲気に心揺さぶられます。駅周辺にマンションがいくつか建設されていた光景は、鳥取の都市としての集積性を感じさせるものの、どこか鳥取の持つ穏やかさの一部が削ぎ落とされてしまうようにも感じられ、どこか不思議な感覚でした。市街地の中心を流れる袋川は、鳥取市街地にうるおいを与えるシンボル的な要素も持っているようです。春になると川の両岸の土手は、美しい桜色に染まります。1952(昭和27)年の鳥取大火で一度は焼失したものの、その後に徐々に桜が植林され、現在に至っているのだそうです。また、袋川は北側(城側)の土手のほうが南側のそれよりも高くつくられており、洪水時に城とは反対側に水を流す設計になっていました。藩政期には一大城下町であった鳥取の物流を支える大動脈でもありました。袋川に架けられた「若桜橋」を渡って、鳥取城跡方面へと進んでいきます。

城跡

鳥取城跡・堀端
(鳥取市東町二丁目、2007.9.2撮影)
仁風閣

仁風閣
(鳥取市東町二丁目、2007.9.2撮影)
智頭街道

智頭街道商店街
(鳥取市元魚町二丁目、2007.9.2撮影)
わらべ館

わらべ館
(鳥取市西町三丁目、2007.9.2撮影)

 鳥取の町は、一言で言いますと「中世から現代までが見える町」だと思います。市街地を見守るようにあるたおやかな久松山を中心に城が開かれ、城下町が開かれ、県域規模の中核都市として成長いていった道筋が、市街地のかたちに反映されていると感じるためです。

 若桜橋は、この通りが若桜方面へ続く街道筋であったことからの命名で、現在でも橋以北の通りは「若桜街道」と呼ばれています。明治期の鳥取駅開設に伴いメインストリートとしての地位を確立しました。鳥取城下はこの若桜街道と並行して2本の主要街路があり、若桜街道から西へ智頭街道、鹿野街道となります。元来のメインストリートは一番西側の鹿野街道であったようで、城下町の拡大に伴いその繁華は智頭街道、若桜街道と東進していったのだそうです。市役所前を過ぎますと、県庁は目と鼻の先です。周辺には県民文化会館や県立図書館なども立地し、行政や文化の中心的なエリアとなっています。県立図書館の北にはなまこ壁の外観が壮麗な門が移築されています。鳥取藩士箕浦家屋敷の表門として鳥取城の堀端にあったというこの門は、1936(昭和11)年に現在地に移されて、城下町・鳥取のよすがを今に伝える貴重な事物です。鉢を伏せたような姿が秀麗な久松山に中世より山城として築かれたという鳥取城は、藩政期は山の麓に城郭を展開して存続しました。現在でも石垣や堀が残り、仁風館などの特徴ある事物が存在しています。鳥取の町はこのエリアから始まり、現代都市としての道筋を進み始めたとも言えそうです。

 鳥取駅方面への帰路は、お堀端から始まる智頭街道をたどりました。「わらべ館」などの風情ある建築物を含む商店街は、久松山のシルエットをバックにのびやかに展開していました。商店の前に庇が設置されていたり、アーケードが設置されている通りは、若桜街道沿線と同様に、商店街としての歴史の深さを感じさせます。歩道には「二階町」や「元魚町」などといった城下町以来の町名について解説されたモニュメントも置かれています。たおやかな水辺の景観を構成する袋川を渡りますと、碁盤目状だった道路構成が、鳥取駅へ向かう放射状の構造へと次第に変容していきます。町並みは一気に高密度になり、現代的な様相を呈していきます。駅から城跡までの散策で地域のプロファイルを辿れる鳥取の町の姿は、現代的な部分もあいまって、たいへん穏やかなあたたかさに溢れているように感じられました。


倉吉の町並み

 合併により市域がかなり拡大した鳥取市内を西に進み、東郷池のほとりをかすめながら、倉吉市街地を目指しました。JR倉吉駅は、倉吉市街地からはおよそ4キロメートル離れた位置にあり、かつてはここから倉吉市街地まで鉄路が通じていた時期があったことはよく知られています。駅前から南へ続く道路やその西側に並行する国道179号線の沿線はロードサイド型の郊外市街地の様相を呈していました。倉吉市街地は、町のシンボルとして親しまれる打吹山の豊かな自然に抱かれた、穏やかな町場です。鳥取県中部の主要河川である天神川にその支流の三徳川が合流する地点に平地に穏やかに展開しています。中世の城跡に開かれた打吹公園は、日本さくら名所100選や日本都市公園100選に選定されています。ゆるやかな山並みと目に鮮やかな緑がほんとうに美しくて、まさに町並みと一体となっていることが実感されます。

打吹公園

打吹公園の景観
(倉吉市仲ノ町、2007.9.2撮影)
本町通り

本町通り・赤瓦の町屋
(倉吉市東仲町、2007.9.2撮影)
玉川

玉川沿いの景観
(倉吉市新町一丁目、2007.9.2撮影)
打吹山

打吹山に抱かれる町並み
(倉吉市新町一丁目、2007.9.2撮影)

 打吹公園を散策した後、石州瓦の赤い瓦と白壁の町並みが印象的な市街地を歩きます。重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている町並みは平入二階建ての町屋が連続する本町(ほんまち)通り沿いと、玉川と呼ばれる水路に面して石橋と土蔵とが立ち並ぶ景観とによって構成されています。先述しましたとおり、倉吉は打吹城の廃城に伴って、近世以降城下町としての機能は喪失していました。しかしながら、鳥取藩家老の荒尾氏による委任統治(鳥取藩における藩内の分割統治の方式で、「自分手政治」と呼ばれます)が行われた倉吉は、江戸期から明治、大正時代を経て現代に至るまで、鳥取県中部における中心都市としての地位を保ち続け、商工業が興隆していました。

 古くからの市街地のメインストリートと目される本町通りは、酒造元や醤油醸造元などの町並みのほか、飲食店や旅館、寺院、旧銀行の建物などの、倉吉の都市基盤を支えてきた多くの建造物が立ち並んでいまして、往時の倉吉の趨勢を感じさせます。玉川の快い水音に癒される土蔵の町並みは、水運が物流の主役であった時代の喧騒を想起させるとともに、のびやかな町並みにうるおいを与えていまして、打吹山の穏やかな山並みともあいまって、倉吉のまちにとって深みのあるアクセントとなっているように思われました。

倉吉駅前

JR倉吉駅前
(倉吉市上井町一丁目、2007.9.2撮影)
堺町

堺町界隈
(倉吉市堺町二丁目、2007.9.2撮影)
旧銀行

旧第三銀行倉吉支店の建物
(倉吉市堺町一丁目、2007.9.2撮影)
本町通り

本町通りの景観
(倉吉市魚町付近、2007.9.2撮影)

 モータリゼーションが進んだ現在、倉吉の商業機能はより郊外の商業集積により重心を移していると目されることは、この項の冒頭で触れました。ホテイ堂や鳥取銀行のある通りは、そうした都市機能が郊外へと向かい始めるさきがけ的に成長していったエリアではないかと推察されます。バス通りとして近隣からの買い物客も少なくないと思われるこの地域は、私にとって懐かしい場所です。1999年に三朝温泉に宿泊した私は、翌日ホテイ堂前までバスで来て、ここから岡山県蒜山方面のバスに乗り継ぎました(2007年11月より蒜山方面へはバスは直通せず、関金温泉で真庭市コミュニティバスへの乗換が必要のようです)。その時の記憶で、この堺町界隈は比較的たくさんの人々が町を歩いていました。2007年9月の印象では、8年前と比べてその活気がほんの少しですが衰えているようにも感じられました。昔ながらの街並みを残す地域と、郊外エリアとをつなぐエリアとして、堺町界隈が今後ともその中心性を維持していってほしいと強く願いながら、自動車を止めていた打吹公園方面への帰路に就きました。

"山陰の巨人"米子を歩く

 米子は山陰地方にあって鳥取・松江の両県庁所在都市と肩を並べるほどの存在感を見せるまちです。根雨から米子へ向かって自動車を走らせて、米子市街地へ向かう間、郊外に展開する住宅地の姿などに接して、この町が形成する都市圏がただものではないことが伝わってきました。果たして、米子市役所周辺は、大きな市街地となっていまして、公会堂前交差点付近からJR米子駅にかけての一帯は大型店舗や業務ビル、ホテルなどが多く立地していまして、あるいは県庁所在都市である鳥取よりも町の迫力としては上を行っているのかもしれません。

 鳥取・島根両県のほぼ中央に位置し、JR伯備線や米子自動車道、米子空港など交通アクセスの面でも優位性を保つ米子は、企業立地上、山陰地方を統括する拠点として選択されるケースも多いようです。そうした拠点性の高さもあいまって、米子は市域人口こそ約15万人と、平成の大合併によって20万人前後の人口を確保した鳥取・松江に及ばないものの、山陰地方の要としての存在感は、米子を山陰で輝きのある都市たらしめているように感じられます。市役所からJR米子駅まで歩く道すがら、米子の町の大きさを改めて実感しました。JR米子駅前は、「だんだん広場」と呼ばれる駅前のイベントスペースを中心とした現代的な空間として整えられ、山陰の交通の要衝たる米子の町の力強さそのままの姿を見せています。



国道9号線(市役所前付近)
(米子市加茂町一丁目、2007.9.2撮影)
JR米子駅前

JR米子駅前
(米子市弥生町、2007.9.2撮影)
加茂川

加茂川沿いの景観
(米子市中町、2007.9.2撮影)
後藤家

後藤家(母屋)
(米子市内町、2007.9.2撮影)

 米子も倉吉と同様、中世から江戸初期までは城下町としての成長を見ながら、その後鳥取藩における「自分手政治」による支配を受け(施政者は倉吉と同じ鳥取藩家老荒尾氏)、主に商業都市としてその都市基盤を築いてきました。駅前から続く通りを進みますと、やがて左手に米子城跡が迫ってきます。石垣のみを残す米子城は、江戸初期に駿河国から伯耆国18万石に封ぜられた中村氏が築いた城は五重の天守閣を擁し、山陰屈指の名城でした(中村家はその後断絶し、前述のとおり家老による支配を受けることになります)。米子城跡は、米子市街地から中海を介して島根半島までを一望の下に見渡せる眺望スポットともなっているようです。付近には鳥取大学医学部のキャンパスや付属病院が立地しています。

 大通りを折れて、「米子下町」と呼ばれるエリアへと向かいます。市街地をゆったりと流れる加茂川沿いは、白壁の土蔵群や江戸期に隆盛を極めた廻船問屋の建物が残された、商都米子の歴史を今に伝える穏やかなエリアです。中海から市街地へ繋がる加茂川は、北前船によって運ばれた物資を移し変えた小船が行きかう、米子市街地の物流における大動脈でした。その河口付近に立地する重要文化財・後藤家は、藩政期に海運業を営み、藩の米や鉄の回漕の特権を与えられた回船問屋でした。切妻造の大きな屋根を持つ主屋は堂々たる存在感で、豪商としてならした往時の財力がいかに膨大なものであったかを物語っているかのようです。その巨大な母屋に加え、後藤家には現存しない多くの蔵や付属の建物があったそうです。後藤家の前を過ぎて加茂川を下りますと程なくして中海の湖岸に到達します。たおやかな島根半島方面の山並みのあわいにたゆたう水面が鏡のように穏やかで、夕闇迫る中、いっそうの美しさを呈していました。「山陰の大阪」とも称される商業の町・米子の礎を築いた水運、それを支えた中海は、いわば米子の町の生命線であったのでしょう。城下町として藩主の直接の支配を受けず商業町として存立した米子には、交通の要衝としての開放的な気風が生まれたといいます。中海のゆったりとした景色に、そんな穏やかな米子の町の地域性が重なって見えました。

中海

中海の景観
(米子市西町、2007.9.2撮影)


本通りへ向かう街路、モダンな建物
(米子市尾高町、2007.9.2撮影)
本通り

本通り商店街
(米子市東倉吉町、2007.9.2撮影)
山陰歴史館

山陰歴史館(旧市役所)
(米子市中町、2007.9.2撮影)


 鳥取市街地散策から始まったこの日のフィールドワークは、倉吉、根雨と経て米子に到達し、米子下町の風情に浸る中で夕刻を迎えていました。市役所の駐車場への帰路は、米子の中心商店街のひとつである本通り商店街へと続く街路を辿りました。味わいのある町屋に混じってモダンな雰囲気の建物も立地する商店街は、やがてアーケードのある本通り商店街へと変化し、現代の町並みへと溶け込んでいきます。国道9号線に面して左右対称の美しい姿を見せる、赤レンガの洋館-山陰歴史館-があります。1930(昭和5)年に完成したこのモダンな建物は、1984(昭和59)年に現在の歴史館として衣替えするまでは、米子市役所として親しまれていたのだそうです。「山陰」の名を冠して展示を行う
歴史館は、米子が山陰経済をリードする商業都市として、今も昔も変わらぬ活気と自負とを持っていることを示唆しているのではないかとも感じられました。




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