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大阪ストーリーズ


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#8 大正区を歩く 〜渡船のある風景〜

 大阪は水の都であるといわれます。現在でも、中之島付近や道頓堀付近などにおいて都市の只中を流れる河川を目にすることができまして、水の都たる大阪を感じることができます。しかしながら、かつての大阪は今よりももっともっとたくさんの水辺が運河という形で縦横に張り巡らされていまして、まさに「水の都」たる都市構造となっていたことは、歴史的な知識としては大阪を知る多くの人々の頭の中にあるものの、それらの多くは暗渠となったり埋め立てられて幹線道路等に変貌していたりしていますから、視覚的に往時の様子を確認することはもはや困難なことであるといえるのではないでしょうか。今回ご紹介する大正区界隈は、そんな現代の大阪にあって、水の都として生きた時代の姿を今にとどめる要素を持った地域のひとつです。それは、今日大阪市内で運行される「公営渡船」8航路のうち、7つが大正区と関係していることと関係があります。

 河川水運が都市内流通の主役であった時代、その便を確保するために架橋が困難である場合が多く、運河の両側を人々が行き来するために渡船が運行されました。戦前の最盛期には30を越える渡船場が大阪市内にあったとされています。戦後高度経済成長の中で、上述のとおり運河が埋められ、また埋められなくとも架橋が進捗する中、渡船の多くが廃止されていきました。現在運行される公営の渡船は、天保山渡(港区築港三丁目〜 此花区桜島三丁目)、甚兵衛渡(大正区泉尾七丁目〜港区福崎一丁目)、千歳渡(大正区北恩加島二丁目〜大正区鶴町四丁目)、落合上渡(大正区千島一丁目〜西成区北津守三丁目)、落合下渡(大正区平尾一丁目〜西成区津守二丁目)、千本松渡(大正区南恩加島一丁目〜西成区南津守二丁目)、木津川渡(大正区船町二丁目〜住之江区平林北一丁目)、船町渡(大正区鶴町一丁目〜大正区船町一丁目)の8つです。これらは歩行者及び自転車専用で、日常的な交通手段の確保を目的とし、無償で利用できます。いずれも付近に橋が無かったり、また架橋されていても橋の高さが高く歩行者等が利用するには困難であったりなどの理由から今日まで運行が継続されています。JR大正駅から大正区役所行きのバスに乗り込み、大正区散策をスタートさせました。

大正駅付近

JR大正駅付近・大正通
(大正区三軒家東一丁目、2006.11.25撮影)
大正区役所付近

大正区役所付近・大正通
(大正区千島二丁目、2006.11.25撮影)
昭和山

昭和山
(大正区千島二丁目、2006.11.25撮影)
昭和山からの俯瞰

昭和山から大阪港方面を俯瞰
(大正区千島二丁目、2006.11.25撮影)

 大阪環状線のガード下をくぐってまっすぐに南へ延びる大正通(府道大阪八尾線)は、片側3車線の堂々たる大通りで、大正区域の中央部を背骨のごとく貫通しています。駅前を出発した区役所行きのバスは、大正通りを直進せず、大浪通りを迂回するように進む系統でした。大正区役所や公共施設が集積する一角の東に、千島公園の真ん中、「昭和山(しょうわざん)」と呼ばれる小丘があります。1969(昭和44)年9月、かつて大正運河(現在の大正区役所南付近を東西に、尻無川と木津川を連絡していた)や大阪市随一の貯木池があった千島町一帯に「港の見える丘」を造るという大規模な計画「千島計画」が策定されました。翌1970年には地下鉄工事の残土など、約170万立方メートル(ダンプカー57万台)の土砂が集められて人工の山が造成されて、標高33mの「昭和山」が誕生しました。頂上までは遊歩道が整備されていまして、緑豊かな昭和山は散歩に訪れる人も多く、憩いの場となっているようでした。港大橋や「なみはや大橋」を含むベイエリアへの眺望も利いて、まさに「港の見える丘」の風情でした。反対側に目をやれば、木津川を介して西成区方面の住宅地域も見通せます。昭和山を木津川の方向へ降りますと、目指す渡船-落合上渡-は間近です。

 渡しのある一帯は、製造業や流通関連の業種が昔ながらの住宅地域に接しながら集積する住工混在地域であるように見えました。一部近代的なマンションなども立地していまして、大都市圏内における土地利用の変遷の縮図を見ているような雰囲気もあります。先に紹介しましたとおり、この千島周辺はかつて大阪における材木商の集まる地域であり、また南の平尾地区周辺には造船所関連の業種が大正期頃から勃興していたとのことで、伝統的に製造業が立地してきたエリアであったようです。高潮時における水の逆流を防ぐ役割がある木津川水門のアーチがひときわ威容を見せる中、数名の乗客と自転車とを載せた渡船は木津川の流れの中へと出発しました。川の両岸はクレーンが立ち並び、住工混在地域として産業色の色彩が強い地域性を感じさせます。高い防波堤も海に間近な土地柄を反映しています。この付近の木津川には架橋が少なく、また橋爪にループを擁する高さによって歩行者が共用するには不便な橋もあって、落合上渡をはじめ4つの渡しが活躍しています。大阪市章である「澪標(みおつくし)」を側面に記した定員46名の渡船は、100メートルほどの木津川の水面を弧を描くように進み、対岸の西成区側の発着所に到着しました。

落合上渡

落合上渡
(大正区千島二丁目、2006.11.25撮影)
木津川水門

落合上渡船上から見た木津川水門
(大正区/西成区、2006.11.25撮影)
落合上渡

落合上渡・渡船を眺める
(西成区北津守四丁目、2006.11.25撮影)
落合下渡

落合下渡
(西成区津守二丁目、2006.11.25撮影)

 落合上渡で木津川を越えた私は、木津川に沿って下流にある「落合下渡」の乗船場を目指しました。「津守」の住居表示で統一されたこの地域は、字の雰囲気から「港を守る」というイメージが想起されて、ウォーターフロントとしての地域性を感じさせます。実際には、「津守」の名は古くは万葉集にも見えるという歴史のある地名のようで、長らく「津守新田」と呼ばれる江戸中期に開発された新開の地であったようです。現在の津守地域は、西成高校付近までは住宅地域としての色彩を帯びる一方、浄水場や下水処理場がある一帯は、生コンクリート工場などの原材料を製造する工場群が木津川に沿って続く人気の無いエリアとなっていまして、住工混在地域として穏やかな町並みを見せていた大正区側とは対照的な景観です。セメントなどを運搬する大型の車両に気をつけながら道路を進みますと、これら工場群や倉庫群の間に隠れるように、落合下渡の渡船場がありました。簡易な待合所には人影は無くて、乗船口に自転車1台と歩きの方がお1人いらっしゃって、今まさに大正区側から到着しようとする渡船を待っていました。

 落合下渡周辺は、落合上渡周辺以上に産業的な色彩が濃厚な景観を呈していました。先に紹介したコンクリート工場や倉庫・クレーンの列、そしてゆるやかに煙をたなびかせる煙突などが現代の産業地域であることを語っています下流方向には橋の下で渡船が活躍している千本松大橋も見えています。渡船は波静かな木津川を再び越えて、大正区平尾地区へと到達しました。製造業関連の工場が立ち並ぶ一帯を過ぎますと、穏やかな住宅地域です。比較的古い佇まいの戸建て住宅地域の中に一部高層住宅が混じるエリアでした。平尾も江戸中期に開かれた新開地域を起源としていまして、地名はこの区域の新田開発を行った平尾与左衛門の名前に由来します。なお、区の南と北にある「恩加島」の地名も、この地域一帯の新田開発を手がけた岡島嘉平次の性の字を変えたものが起源であるようです。江戸中期以降に開発が進められた大正区域は、水運の利便性から製造業集積区域となり、その後住宅地域としての機能も加わっていきました。平尾地区の住宅街を歩き、通りかかった天保山行きの市バスに乗車しました。大正区を中心とした渡船の風景は、この地域における伝統的な製造業・流通業の集積地域としての景観の中に溶け込みながら、水の都・大阪の風物詩としての風情を漂わせながら、そうした地域の中で生活する人々の日常的な足となり、今日も運行が続けられています。

落合下渡

落合下渡・渡船場
(大正区平尾一丁目、2006.11.25撮影)


落合下渡・渡船上から南方向
(大正区/西成区、2006.11.25撮影)

 ※渡船は基本的に道路と同じ扱いとなるため、誰でも無料で利用することができます。


<お断わり>
 取材に使用したデジタルカメラが現地にて突如調子が悪くなってしまい、写真画像がやや不鮮明となっています。ご了承願います。

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