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HIROSHIMA REVIEW

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#7 白島界隈 〜都心近傍の活力あふれるまち〜

2005年8月7日、前日の“平和フィールドワーク”に引き続き広島の町において行っていた道程は、広島駅から上幟町エリアを越えて、中区北部の一角を占める白島(はくしま)地区へと至りました。まだ広島について現在ほど知識がなかった頃は(今でもそれほど広島について知っているわけではないけれど)、「はくしま」と重箱読みをする地名をなかなか覚えられませんでした。しかしながら、この白島の地名のルーツを知ったとき、そのもやもやは一気に氷解していきました。「はくしま」とは「はこしま」が転訛したもので、太田川のデルタが現在ほど陸地が広くなかった時代から方形の島状の地形であったことから「箱島」と呼ばれたことに由来するものである。現在の城北通りが通過する東西の一帯は、大正期に埋め立てられる前までは広島城の外濠があった場所であり、さらに遡りますとその外濠は京橋川などと同じように三角州を流れた自然の川の流路を利用したものであったとのことです。白島はまさに周囲を川に囲まれた箱状の島−箱島−であったわけです。外濠が埋められ、市電が通じ、市街地が連担して久しい白島地域はもはや「島」ではなく、広島市街地の一翼を担う活力みなぎるエリアとして、輝きを増しているように感じられます。

縮景園の西、さっそうと延びる白島通りは、戦後に新たな電車通りとして整備された一大幹線道路です。戦前の路面電車は、現在の白島通りより一筋西の道路を走って白島に達していたのだそうです。中心市街地の繁華街の1つ八丁堀から北へ、国の出先機関や裁判所等の行政・司法機関の集積するエリアをかすめながら広島市北部方面へと続いていきます。通りには2003年末に竣工した「アーバンビューグランドタワー」が青空に向かって屹立していまして、高密度の市街地の景観を引き締めるかのような存在感を示しています。地上43階、最後部では166メートルの高さを誇ります。鯉城通り沿いに完成したドコモビルとともに、広島における二大ランドマークとなっているといってもよいのではとも感じられましたね。電車通りは西へ緩やかなカーブを描きながら、城北通りとの交差点(白島交差点)南に立地する白島電停へと差し掛かっていきます。白島交差点は広島大都市圏を縦横に走る大通りどうしの交差点としてだけではなく、ファーストフード店などの入る北西隅のビルや北東隅の信用金庫支店の建物など特徴的な事物があって、近傍に立てられた「白島クレド(白島Qガーデン)とともに、このエリアの中心として存在し続けているように感じます。電停に入線する広電に乗り込もうと、交差点へは市民がひっきりなしに集まってきていました。

白島通り

白島通り・アーバンビューグランドタワーを望む
(中区東白島町、2005.8.7撮影)
白島交差点

白島交差点・城北通り
(中区東白島町、2005.8.7撮影)
京橋川・牛田

白潮公園より京橋川・牛田の町並みを望む
(中区白島九軒町、2005.8.7撮影)
白島九軒町

白島九軒町の町並み・白潮公園より
(中区白島九軒町、2005.8.7撮影)

白島交差点を東へ、昔九件の民家があったことからその名がつけられたという白島九軒町の町並みを進みます。東白島公園から新幹線・山陽線のガードをくぐり、白潮公園と呼ばれている京橋川右岸の緑地帯へ。このあたりは原爆により壊滅的な被害を受けた白島地域の住民が水を求めて集まり、その多くが息を引き取ったという悲しい歴史の刻まれた場所です。白島九軒町の自治会の手になる慰霊碑も建立されています。原爆の日の翌日のこの日には、前日に営まれたであろう慰霊式典の際に手向けられた花や水などが慰霊碑の前に供えられていました。桜の名所としても地域に愛される公園からは、京橋川の穏やかな流れや、対岸の牛田山の鮮やかな緑や市街地の景観がたおやかに眺められます。わしゃわしゃとまくしたてるせみの声が静寂を強調させます。悲しみの上に復興を遂げたこの町の尊さを、その光景の中に見た思いでした。きょうちくとうの鮮やかな花の向こう、住宅地域として、また中心業務地区近傍の活気ある商業地域として今を生きる白島の町並みが燦然と展開していました。

牛田神田八幡宮(現在は牛田新町にある自在坂神社に合祀)への参道筋に架けられた神田橋のたもとから心行寺前、牛田大橋南詰の各交差点を経て、安田学園の南へ。緑豊かな太田川沿いを、新交通システム「アストラムライン」を戴いた祇園新道(国道54号線)が颯爽と駆け抜けます。郵便貯金ホールや広島ホームテレビなどの大きい建造物も並びまして、緑と都市的な要素とが巧みにマッチしたエリアであるように感じられます。ホームテレビの社屋は一面がガラス張りになっている場所があり、そのガラスいっぱいに燦燦とした夏空と、きらめくばかりの緑とが映りこんで、背後の大空とシンクロしています。白島駅へと続く歩道橋から北大橋方面を望みますと、透明感を絵にしたような色彩の緑の並ぶ街路の向こう、三滝方面の緑に満ちた丘陵の稜線がたおやかにたなびいています。三篠橋から京橋川の分流点までの太田川左岸一帯は長寿園と呼ばれ、広島随一の桜の名所でした。現在では公営住宅の並ぶ一帯の中に、その桜の美しさの面影そのままの桜並木が堤を彩るのだそうです。それらの美しい緑や町並みの中にあって、太田川や京橋川の穏やかな佇まいはやはり心落ち着かせる風景ですね。新こうへい橋から眺める2つの川の姿は、水の都・広島を静かに表現しているかのようでした。この流がデルタをつくり、中州をつくり、人々の生活の舞台となって、このまちの礎となっていった。そんな母性のような輝きを水面がほとばしらせているようにも感じられます。

白島駅

アストラムライン白島駅と祇園新道
(中区白島北町、2005.8.7撮影)
ビルに映った夏空

広島ホームテレビ社屋
(中区白島北町、2005.8.7撮影)
太田川と京橋川の分流点

太田川と京橋川の分流点を望む
(中区白島北町、2005.8.7撮影)
工兵橋

工兵橋(南詰)
(中区白島北町、2005.8.7撮影)
白島電停

白島電停に停車中の路面電車
(中区東白島町、2005.8.7撮影)
祇園新道

祇園新道・長寿園高層住宅
(中区白島北町、2005.8.7撮影)

新こうへい橋から東にすぐのところに、緑に囲まれた吊り橋があるのが目に留まりました。工兵(こうへい)橋と名付けられたこの橋は、現在の安田学園の位置にあった陸軍工兵第五連隊と、京橋川対岸の牛田演習場(工兵作業場)への連絡路として1889(明治22)年に架橋され、1921(大正10)年の吊り橋化を経て、1933(昭和8)年に塔柱RC造、木造の吊り橋として再度架け替えられたものです。「工兵橋」の名もこのことによります。この橋は原爆投下時にも被害が軽微であったため、多くの被爆者がこの橋を通って牛田方面に逃れたことが、橋のたもとに設置された表示板によって語られています。付近は大都市の近傍とは一見して信じがたいほど、豊かな木々や緑に恵まれています。その緑が静かに影を落とす京橋川の流れに包み込まれるかのように、周囲の住宅地域も実にのびやかな印象です。京橋川の下流方向には、緑と水のいきいきした風景の彼方に牛田大橋、そしてその向こうの市街地へとつながる高層建築物のシルエットが美しい都市景観として展開していました。

新こうへい橋に戻り、アストラムラインの走る祇園新道を南へ歩み、白島中町公園で休息をとりつつ、JR線のガード下をくぐって白島クレドのところまで戻りました。そこには再び、南の中心業務地区を控えて、活気のある白島エリアが広がっておりました。デルタの中に生まれた四角形の「箱島」は、やがて城下町北側の市街地となり、近代都市の一翼を担うエリアとなって、原爆による被災を受けながらも着実に復興をとげ、今日に至りました。まさに今日の広島の趨勢を体で示す白島エリアは、周囲の豊かな水と緑の恵みを得ながら、その活力を維持し生長させているようにも感じられました。再び白島交差点に行き着き、電停で路面電車を待ちました。周囲の町並みがとても輝かしく見えました。

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