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HIROSHIMA REVIEW

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#1 広島市概観 〜「市電」に特徴づけられたまち〜

私が居住する東日本において、いわゆる「市電」が走る光景については、全くを持ちまして身近なものではありません。「市電」の法律上の定義とか、そういった厳密なことは分かりませんので、敢えて「市電」と鉤括弧つきで表記いたしますが、自動車が通過する道路の中央にあるレール上を電車が走る風景を目にすることは、私にとっては、通常では全くといっていいほど無いことなのです。ですから、1994年に初めて訪れた広島の町を見て、私は市内を縦横に走る「市電」の姿を見て、すぐさまそれに惹かれてしまいました。多くの人々が街中の目抜き通りのほんとうにど真ん中にある電停に立ち、次々に入線する市電に乗り込み、まちを自由に移動している、その光景に。

現在、モータリゼーションは非大都市圏において顕著に進行しており、それは大都市においても例外ではなく、自動車が中心的な位置を占めがちな中にあって、人間が都市を動かす血流であるという、至極当たり前のことを、「市電」は我々に明瞭に示してくれているかのようでした。もちろん、現実的にはジャスト・イン・タイムによる配送方式が主流となっている現代の流通体系は、自動車ぬきには成立し得ず、それは大都市圏とて例外ではないのですが・・・。
JR広島駅

JR広島駅
(2003.8.29撮影)

2003年8月29日金曜日の早朝、JR広島駅に到着した私は、そんな広島の動脈たる「市電」と、広島の町との関連を存分に味わいたくて、広電全線に加えて、宮島松大観光フェリーに乗船することができる一日乗車・乗船券(大人840円。市内電車は1回乗車につき原則150円、宮島線は270円、宮島観光船は往復で340円ですから、相当お得です)を購入し、宮島行きの市電に乗り込みました。平日の朝とあって、駅前には通勤・通学の人々がほんとうに大勢電車を待っておりまして、電停前はまさに芋を洗うようでした。すべての車両にはカードを読み取る装置が設置されているようで、一日乗車券もそれに対応したカード(一旦装置に挿入すると、カードに印刷された数字が、利用日の日付に対応してパンチ穴が空けられる仕掛けになっています)になっておりまして、乗降も本当にスムーズです。

「市電」は猿猴橋町(えんこうばしちょう)の電停を過ぎると大きく右(西)にカーブしながら荒神橋によって猿猴川を渡り、的場町で宇品線を分けた後、稲荷町電停を経て、程無くして京橋川を稲荷大橋によって越え、軽快に広島市の中心部へと滑り込んでいきます。銀山町(かなやまちょう)電停からは、大通りの両側に百貨店やオフィスビルなどをはじめとした高層建築群が建ち並ぶようになり、車両、人の流れともに多くなっていきます。八丁堀付近は、かつて広島城のお堀としての「八丁堀」があったところのようですね。車窓からは、三越や天満屋、福屋といったデパート、本通に直行する方向のアーケード街の入口などが、人ごみの向こうではありましたが、しっかりと確認することができました。八丁堀からは、白島線が分岐します。この白島線だけは、1回の運賃が100円と、少し安くなっているようです。今回の広島訪問では訪れることができませんでしたが、県立美術館や縮景園へは、この路線が便利なようですね。

鯉城通りの景観

鯉城通りの景観
(中区中町付近、2003.8.29撮影)
本通の景観

本通の景観
(中区紙屋町二丁目、2003.8.29撮影)

八丁堀から紙屋町にかけては、本当に広島における業務機能の中枢が集るエリアの代表格のようで、多くの金融機関の支店や本店、各企業の支所が大通りに面して集積しているようでした。地図で確認しますと、広島県庁や県警本部、県合同庁舎などの行政機関もこの付近に収斂しているようです。紙屋町で広電本社前方面への路線が分岐すると、市電は原爆ドーム前電停へとさしかかります。1994年8月には、私は「市電」をここで降り、眼前の原爆ドームを初めて目にし、拝礼して、平和の尊さや、このまちで50年程前に起こった出来事について、明確に、印象づけられたのでした。平和公園、平和記念資料館などを見学して、原爆について、平和について、広島市が歩んできた道のりについて、いろいろなことを学びました。あれから、9年程が経過したのですが、そこにはあの日のままの原爆ドームが、佇んでおりました・・・。

その後、久しぶりに宮島を訪れた後、再び市内に戻り、江波、横川を「市電」によって訪れました。横川から十日市町で下車し、相生橋から平和公園へ向かい、9年ぶりに資料館を訪れ、平和への思いを新たにいたしました。今日の広島市のあるのは、あの日−1945年8月6日−のできごとが礎にあることは申し上げるまでもないことであると思います。

確かに、広島市の成長は、戦後日本が歩んできた高度経済成長の流れの中で、中国地方を統括する中枢管理機能がこのまちを志向したことが大きく関係していることは多くの論考が指摘するところです。しかし、広島市をこれほどまでに魅力的なまちに押し上げ、平和を希求するすばらしい土壌を作り上げたのは、あの日を基点とした、あまたの貴い犠牲であったことは、今日の広島の町が如実に、物語ってくれています。そういた広島のまちを象徴し、盛り上げているのが、市内の主要地域を細やかに連絡し、今日においても多くの利用者が支えている、この「市電」なのではないか、私はそう思うんです。

ノンステップ車両

広電のノンステップ車両
(宮島口駅構内にて、2003.8.29撮影)
電停に接近する「市電」

電停に到着する「市電」
(原爆ドーム前電停、2002.9.21撮影)

原爆投下からわずか3日後に、一部路線で運行を開始し、市民を勇気付けた「市電」は、現在でも被爆した車両数両が現役で活躍していると聞きます。広島市の市電は、全国のほかの多くの都市において市電が廃止されたり、利用者数が減ったりしている中でも順調に推移しており、全国から多くの車両を受け入れ、最近ではノンステップで乗降のしやすい新車両「グリーンムーバー」を導入するなど、市内交通の主役として、日々進化しているようです。詳しいことは分からないのですが、戦前から、戦争中、そして戦後、現在という時代の流れの中を、「市電」のレールは、一部の路線変更や補修などはあったのでしょうが、軌道敷の石だたみとともに、生きつづけ、人々の笑い、汗、そして血や涙をその肌で見てきた、感じてきた生き証人なのではないか、と感じました。そう思うと、今日の活気ある広島の町を確固たる力強さで牽引する「市電」の存在は、広島の町の包含する、たくさんのかけがえのないものを象徴しているのではないかと、強く思うのです。

JR広島駅前の「市電」電停

「市電」のレール、まちを半世紀以上にわたって見守ってきた
(2003.8.29撮影)

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