Japan Regional Explorerトップ > 地域文・近畿地方

姫路・明石、晴眩秋麗

 2008年11月23日、晩秋(暦の上では「初冬」でしたが)の播磨路を訪れました。国宝姫路城の壮大さ、町並みの美しさそして明石海峡に抱かれた輝かしい風光に触れて、播磨エリアの力強さとたおやかさとを実感しました。
 
※「晴眩秋麗」は「せいげん・しゅうれい」、とお読み願います(筆者の造語です)。


姫路城

姫路城
(姫路市本町、2008.11.23撮影)
明石海峡大橋

明石海峡大橋(天文科学館より眺望)
(明石市人丸町、2008.11.23撮影)


訪問者カウンタ
ページ公開:2011年6月26日

姫路城に向かう 〜穏やかな晩秋の市街地を歩く〜

 晩秋の播磨路の空はどこまでもさわやかで、透明感のある空色を呈していました。11月23日の訪問は暦の上ではむしろ「初冬」とされる時季にあってもなお晩秋という表現がしっくりくるのは、何よりこの播磨の大地が全体として醸し出す、ある種の穏やかさとか、暖かさといいますか、この土地が内包する並々ならぬ地力のようなものが、あるいはそのように想起させるのではないかとさえ思えます。もちろん、隣接する岡山県が「晴れの国」を自負するように、瀬戸内海に面したいわゆる「瀬戸内」の気候を示す播磨地方は、もとより日差しに恵まれることが多い土地柄であることも踏まえる必要はあるでしょう。しかしながら、敢えて姫路市を中心とした播磨エリアの「地力」を強調したのは、姫路市自体の人口約53万人を擁するのをはじめ、現在神戸市の西部となっている部分を除く旧播磨国のエリアにおける人口は約186万人であり、1つの都道府県並みの経済規模を持つことがあります。

姫路駅

JR姫路駅前(写真の駅ビルは撮影当時)
(姫路市駅前町、2008.11.23撮影)
大手前通り

大手前通りから見通す姫路城
(姫路市白銀町、2008.11.23撮影)
石垣

大手前交差点付近・石垣(道路は国道2号)
(姫路市本町、2008.11.23撮影)
姫路城

三の丸広場から望む姫路城
(姫路市本町、2008.11.23撮影)

 筆でさっと描いたような白雲が青空の輝かしさを際立たせている姫路駅に荷物を置き、駅前大通りへと進みます。「フェスタ」と呼ばれる商業施設となっている駅ビルは、1959(昭和34)年にいわゆる「民衆駅」として建設されたものです。現在の商業性を前面に出した駅舎とはだいぶ趣を異にしていて、どちらかというと市役所に近い姿をしているように思います。この旧国鉄時代の官公署としての色彩の強い建築様式は、戦災で多くの駅舎が焼失する中、駅舎の再建に地元資本を投入しながら駅舎内に商業施設を設けるというものであったようです。現在ではその多くが駅前の再開発等により解体されているようで、現存例もだいぶ少なくなってきているようです。姫路駅舎もご多分に洩れず、駅の高架化と時を同じくして駅舎のリニューアルが行われるようで、2011年より解体が始められているようです。

 その町の中心駅からまっすぐシンボルロードたる駅前通りが伸びていて、その先にその町の象徴たる事物が燦然と屹立する風景−大手前通りから姫路城を見通す景色−はまさに“爽快”の一言に尽きます。姫路を訪れる者にとってはまさに「姫路に来た」と実感させるものですし、地元市民にとっても地域のアイデンティティを呼び起こされる、これ以上ない財産であるのではないでしょうか。ただ姫路城が見えるというだけにとどまらず、周辺には山陽百貨店やヤマトヤシキなどの大型商業施設を中心とした商業集積をはじめ、オフィスビルや金融機関などが林立して、まさに目抜き通りとして50万都市の顔となっています。ヤマトヤシキのあたりで東西に直交する二階町商店街や、通りの東に並行するみゆき通り商店街などのアーケード商店街も発達しています。

姫路市街地

姫路城から市街地を望む(南方向)
(姫路市本町、2008.11.23撮影)
姫路市街地

姫路城から市街地を望む(西方向)
(姫路市本町、2008.11.23撮影)
美術館

姫路市立美術館
(姫路市本町、2008.11.23撮影)
散策路

姫路城西側の散策路(左は濠、右は船場川)
(姫路市本町、2008.11.23撮影)

 大手前交差点で交わる国道2号は中濠通りと通称されているようで、その名のとおり姫路城の中濠を埋め立てて造られた道路であるようです。道路に沿って、北側には土塁や石垣が残されていて往時をしのばせます。姫路城は、天守のある姫山を中心として濠が三重に城を取り巻くように縄張りが施されています。これにより城下は「内曲輪(くるわ)」、「中曲輪」、「外曲輪」の3エリアに区分されていました。現在私たちが姫路城のあるエリアとして認識しているのは現存する内濠の内側である「内曲輪」にあたる範域であるということになります。中曲輪は侍屋敷のある地区、外曲輪は下級武士や町人の住むいわゆる「城下町」としての機能を持つ地区で、山陽道をはじめとした主要街路もここを通過していました。城下町をも濠で囲む「総構え」の構造を呈しており、外濠の南端はJR姫路駅付近にまで達していたようです。

 大手前通りを北へ進み大手前公園あたりまで来ますと市街地が途切れて空は一層広くなり、姫路城を構成する連立式天守や櫓、それらをつなぐ廊下が一体的に織りなす建造物群の流麗な姿が間近に、目の前に迫ります。内濠を桜門橋から大手門をくぐり、姫路城を初めて見学しました。白鷺城と美称されるにふさわしい白亜の城の美しさと、要塞として何重にも施され、工夫された防衛上の構造や施設配置を一通り目にして、ここが我が国における中世から近世にかけての城塞建築のまさに顔であることを実感しました。大天守の上からは、ここを中心にたおやかに展開する姫路市の市街地が、姫路城周辺の緑や郊外のなめらかな山々に抱かれ発達している様子が穏やかに眺められました。青空はどこまでも寛容な光と風を播磨の大地に返していて、木々を鮮やかに紅葉の錦絵へと導いていました。



景福寺公園から見た姫路城
(姫路市岡町、2008.11.23撮影)
龍野町

龍野町の景観
(姫路市龍野町一丁目付近、2008.11.23撮影)
二階町商店街

二階町商店街
(姫路市二階町、2008.11.23撮影)
みゆき通り

みゆき通り
(姫路市呉服町付近、2008.11.23撮影)

 姫路城を出て、北側の姫路市立美術館の赤煉瓦の建物(旧大日本帝国陸軍姫路第十師団兵器庫・被服庫を経て一時姫路市役所として利用された建物を再生利用、2000年国の登録有形文化財指定)を一瞥しながら内濠や船場川に沿って姫路城の周辺を散策しました。市之橋を越えて、「姫路城十景」のひとつである景福寺公園や旧山陽道に沿って昔ながらの街並みが残る龍野町と歩きながら、播磨の中心地たる姫路の町としての側面も感じました。龍野町あたりの船場川の西側一帯は飾磨津との舟運の発達により姫路の経済の中心となっていたようで、現在でもこの一帯は「船場」と通称されるエリアであるようです。龍野町の宅地には、庭石として転用された船繋ぎ岩が残されていまして、往時の喧騒を物語っています。

 旧山陽道を承継する二階町のアーケードに再び達して、先に触れた「みゆき通り」へと入り、姫路の市街地のいまを目に焼きつけました。12月を間近にして、商店街はクリスマス一色のようになっていまして、ツリーをはじめあちらこちらにクリスマスを意識した飾り付けが施されていました。自家用車利用の拡大に伴う商業機能の拡散により姫路の中心市街地も苦戦を強いられているとする情報がネット上でも散見される中にあっても、休日の商店街は人通りも少なくなくて、一定の活気も感じられました。そこに、姫路城のおひざ元としてだけでない、ひとつの都道府県に比肩するほどの経済圏を束ねる一大中心都市としての顔を垣間見た気がいたしました。姫路城は2011年現在、平成の大改修と称する大規模な補修工事が実施されています。戦災を奇跡的に乗り越え、昭和の大改修を経て化粧直しを行う町のシンボルは、やはり再開発の進む姫路駅周辺エリアとあいまって、さらなる進化を姫路のまちにもたらすこととなるのでしょうか。


明石市街地を歩く 〜海を望む旧城下町を感じて〜

 神戸から西へ進み都会と寄り添いながら聳える六甲山地は、須磨区から垂水区に入るあたりで大阪湾に出会います。この山が海へ張り出すような地形は古来より明確な地域的境界となっていまして、律令国における摂津国と播磨国を分けていました。現在はこの険しい山の迫る狭い海岸を越えて神戸市の範域が大きく西へ広がっていまして、大都市圏の郊外化の影響を色濃く反映しています。そんな神戸市に東から北の多くを囲まれる明石市も、その東半の地域では、神戸を志向する向きが強いようです。姫路から加古川を経てたおやかな播磨平野を進んだ電車は、明石駅へと到着しました。

 駅を出て、道路を挟んですぐ近くの明石城へ向かいます。道路は明石城の堀に寄り添っており、柳の街路樹が水面に涼やかな印象を与えています。堀の城側は石垣に沿って松などの常緑樹がふんだんに生育していまして、こちらも水辺をよりみずみずしい風景へと誘います。城内は明石城を中心とし野球場や陸上競技場、図書館などが配された「明石公園」として整備されており、多くの市民にとって憩いの場となっているようでした。

明石公園

明石公園・堀
(明石市明石公園、2008.11.23撮影)
明石城跡

明石城跡、艮櫓(左)と巽櫓(右)
(明石市明石公園、2008.11.23撮影)
明石市街地

明石城跡から市街地を眺める(背後は淡路島)
(明石市明石公園、2008.11.23撮影)
明石市街地

明石城跡から市街地を眺める
(明石市明石公園、2008.11.23撮影)

 淡路島を臨み、古来より山陽道をはじめ多くの主要道路が貫通していた明石の地は交通の要衝として、重要視されてきた土地柄であったようです。海を間近にする緩やかな丘陵地の末端に、ここまでの堀を擁する城が築かれ、整然とした町割りがなされた明石の町は、現代のベッドタウンとしての風景の中に飲み込まれる前は今よりもずっとずっと燦然とした町場であったのではないかと容易に想像が及びます。明石公園に入り真っ先に目に入る本丸の城壁とその両端に屹立する二つの櫓は藩政期より存続している建造物で、その本丸における位置から東側のものを「巽櫓(たつみやぐら)」、西側のものを「艮櫓(ひつじさるやぐら)」と呼称されるようです。

 緑豊かな城跡は今も昔も明石のシンボルのように輝いていまして、本丸跡の高台からは高層建築物が林立する現代の街並みが緑豊かな公園の向こうに穏やかに眺められます。視線を少し東へ向けますと淡路島の島影が町の背後に迫る山並みのように寄り添います。その隣には世界最長の吊り橋である明石海峡大橋のケーブルも目に入ってきます。橋の下にやっと水平線が顔を出して、ここが海と隣り合わせの地域であることに気づかされます。これほど稠密な建築物群が無ければ、まさに眼前に淡路島との間を軽やかに抜ける海峡のマリンブルーを見通すことができていたのでしょう。

長屋門

織田家長屋門
(明石市大明石町二丁目、2008.11.23撮影)
天文科学館

市立天文科学館
(明石市人丸町、2008.11.23撮影)
市役所前

市役所前の公園
(明石市相生町二丁目、2008.11.23撮影)
明石海峡

明石海峡・夕照
(明石市相生町二丁目付近、2008.11.23撮影)


錦江橋付近の港湾景観
(明石市中崎二丁目、2008.11.23撮影)
魚の棚

魚の棚(うおんたな)商店街
(明石市本町一丁目付近、2008.11.23撮影)

 再び公園から市街地へ戻り、織田家長屋門の結構や日本標準時子午線が通過することをシンボライズした時計塔がある市立天文科学館などを見学しながら、日が傾きつつある海岸へ出ました。夕日を波の一つひとつがゆったりと返す明石海峡は本当に静かな表情をしていまして、明石海峡大橋から淡路島へと続く風景がいっそう輝かしく眺められました。海岸近くにある市役所周辺はゆったりとした海浜公園となっていまして、美しい色彩を見せるこの海峡に対するこの地域の愛情の大きさを表しているような気がいたしました。市役所北の国道に出てフェリーターミナルを一瞥しながら港に架かる錦江橋を渡ります。「錦江」とは中国にある川に由来し、光輝く海湾の様子を表していると、設置されている説明板に記されていました。この錦江の名は明石海峡の美称や明石城の異称などとして親しまれているようでした。

 明石訪問の最後は、市街地の魚の棚(うおんたな)商店街を訪れて、その活気に触れました。明石の町は藩政期における町割りを基盤としながら、連続した市街地を形成しています。錦江橋にあった旧城下町絵図によると城の堀とは別に、城に近い場所を占める武家町と、その南の町人町とを分ける掘割が城の外周を取り巻いていていわゆる三の丸が形成されていたようです。現在ではこの外側の掘割は市街地に埋没して消滅しているようです。魚の棚商店街は明石名物の明石焼のほか、多くの新鮮な海産物が扱われており、夕刻の時間帯にあって多くの買い物客が訪れていました。駅前に戻り、クリスマスを間近に彩られたイルミネーションの輝きを確認しながら、この日の活動を終えました。東端の明石周辺では神戸大都市圏の影響を受けながらも、姫路を中心に一定の経済圏を形成している播磨エリアは、そののびやかな平野と丘陵の展開する大地とそれを抱く穏やかな瀬戸内の風光とが鮮やかに交錯して、この上のない晴れやかな姿を見せてくれていたように感じられました。

最後に:
冒頭のタイトル「晴眩秋麗」の「晴眩」には「はりま」の語感も意識しております。お気づきでしたでしょうか?



このページの最初に戻る

地域文・近畿地方の目次のページにもどる     
トップページに戻る

Copyright(C) YSK(Y.Takada)2011 Ryomo Region,JAPAN