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都道府県花暦

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38.ナラノヤエザクラ(奈良県)

ソメイヨシノが満開を過ぎ、花もだいぶ散ってしまう頃、八重桜は見頃を迎えます。ボリューム感のあるふくよかな花を「たわわ」につけるさまは、晩春の名残のような穏やかさをも感じますし、桜吹雪のどこかさびしい雰囲気を少しでも緩和させるやさしさのような感傷も誘うような気がいたします。若緑色の葉も花と同時に生え揃います。晩春と初夏との橋渡しをするような、そんな雰囲気もあるでしょうか。

ナラノヤエザクラ(奈良の八重桜)の登場には、次のようなエピソードがあります。
1922(大正11)年の春、東大寺知足院訪れた三好学博士は、知足院裏のやぶの中に、ひっそりと咲いていた八重桜を見て、この八重桜こそ、古い記録にある八重桜と同種であると考えました。翌年3月、この八重桜は「知足院の奈良八重桜」として国の天然記念物に指定され、史跡として、また文学・植物学上重要な存在と見なされるようになったのだそうです。この八重桜が、奈良県花・ナラノヤエザクラです。

都がまだ奈良・平城京にあった頃より、奈良には八重桜が数多く植えられえていました。時は下って、都が京都・平安京に移ると、紫式部も仕えた
、一条天皇の中宮・彰子が、奈良・興福寺の境内に植わっていた八重桜の噂を聞き、宮中の庭へ植え替えようとしたところ、興福寺の僧がそれを頑なに拒んだため、移植は実現を見なかったのだそうです。また、一条天皇に奈良の八重桜が献上されたときに、中宮彰子にお取りつぎした伊勢大輔(いせのたいふ)が、詠んだ歌は、「詞花集」、後に「小倉百人一首」(第61番)にも収録される秀逸なものでした。

いにしえの 奈良の都の八重桜 けふここのへに 匂ひぬるかな



ナラヤエザクラ(YSK画)

そういた多くの文献に登場してきた「奈良の八重桜」は、東大寺知足院に生育していた現代の「ナラノヤエザクラ」と同種のものであるかどうかは分かりません。ナラヤエザクラについては、さまざまな議論が展開された結果、現代のナラノヤエザクラは、カスミザクラの変種であるとされるようになっているようです。いずれにいたしましても、歌枕によって遠い土地を思う時代から、奈良の大地には可憐な八重桜があり、若葉色の町や草原は、桜色に彩られていたのではないでしょうか。1つの花がこれほどまでに地域を象徴し、時代を色濃く投影している事実は、歴史のふるさと・奈良ならではのことといえるのかもしれません。

奈良に咲く桜は八重なる五輪かな


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