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「希望の雪道」
彼方まで銀世界が広がる |
訪問者カウンタ ページ設置:2003年11月3日 |
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(1)稚内から紋別へ
「試される大地」 これは、北海道のホームページにアクセスしたとき、最初に現れる言葉である。この言葉は、平成10年に、北海道庁が北海道をアピールするためにキャッチフレーズとロゴを募集し、約6万点の応募作品のなかから選ばれたものである。「試される大地」とは、一見厳しい試練に耐える大地といった、受け身で辛辣な意味合いを多分に含む表現であるかに思える。同ホームページに選考過程が紹介されている。 キャッチフレーズの「試される大地」については、選考会でも「それは北海道にとって辛い言葉ではないか」、「受け身的な表現はいかがか」 などの意見が交わされました。とくに、「される」 という表現には異論が多く、選考会は6時間半にも及びました。 しかし、議論が深まるにつれ、「未来に向けて日本全体が変わらなければならないという流れの中で、北海道はそのひとつのモデルになるような変革を遂げなければならないのではないか」、 「これから北海道は、そういう意味で注目されるような新しい生き方を模索していこう」、「それは北海道だからできることではないだろうか」という非常に積極的な意見が増え、最終的に選考されました。 (北海道ホームページより、原文のまま抜粋) 試される大地、という言葉を自分たちの土地を広めるために敢えて選択した北海道の意思を思うとき、自らを中心にその姿をアピールし、成長していこうとする北海道の並々ならぬ覚悟が強烈に印象づけられるようで、これほどに鮮烈なインパクトを与えるフレーズはないとも思えてくる。そして、そのインプレッションは、北海道への熱い眼差しとして、揺るぎない憧憬として、大いなる尊敬の念として、この地を行く旅人の心を温めるのであろう。 その思いを感じるためには、夏の北海道だけでなく、冬の北海道の姿も見ておかなければならない。できれば、オホーツク沿岸を、北から南へ、縦走しながら、かの土地の冬を目の当たりにしてみたい。 2002年2月9日(土曜日)、私は冬の北海道にやってきた。札幌は、まさに冬の一大イベント「さっぽろ雪祭り」の真っ最中。建国記念日が絡んだ3連休ということも手伝って、おそらく全国から多くの人たちが、この街を訪れているのであろう。暖冬の影響を受けて、開催期間の終わり間近の雪像や氷像はすこし丸み帯びているように感じられた。しかしながら、当地の寒さはすさまじく、小雪のはらはら舞う中、凍えるような夜に大通りを歩いているのはさすがに見に堪えた。所々に設置されている仮設のプレハブの中で飲んだ甘酒の味は格別だった。尋常ではない寒さの中、大通りは冬の都会の幻想的な世界に酔った人々で、夜更けまで賑わいを見せるのだろうか。
私は、北を目指した。前の夏と同じように、深夜の北海道を疾走する特急利尻に乗って、稚内へと向かった。白白と夜が明け始めると、窓の外には藍色のベールを纏った、「白い」大地が顔をのぞかせた。午前六時の稚内駅は雪の中でした。わずかに日の光によって淡く滲み始めたジャパン・ブルーの空から、氷の雫のごとき雪たちが、無言のまま市街を、自動車たちを、そして背後の丘陵地を、白い白い世界へとうずめていく。この日の朝の、稚内市の最低気温は氷点下8.9度。地元の方のお話では、これでもまだ風は冷たくない方であるとのこと。 オホーツク沿岸を南に縦走する定期観光バス(とはいえ、路線バスに近い)の発車にはまだ時間があったため、雪の中の稚内市街地をタクシーに乗ってノシャップ岬へ。吹きすさぶ雪混じりの風、公園も、海も、モニュメントも、灯台も、すべて白というコンセプトの中で共鳴しているようにうずくまっている。この向こうに、利尻と礼文、サハリン、そしてユーラシアの大地が広がっている。夏にこの地を訪れたとき、多くの交流を受け入れてきた、と感じた海原と、眼前の蒼白の荒海が同じものであるとは! 里谷選手のメダル獲得のニュースを待合所で見た後、流氷ロードバス「ポールスター号」で、いよいよ冬のオホーツク海沿岸の縦走に出発する。朝日が差し込む稚内バスターミナルを午前8時に出発し、日曜の朝、ほとんど車通りのない稚内の市街を抜け、声問、潮見を経て、国道238号線をひたすらに進む。沿道には、入口の雪かきをする人々の姿があちらこちらにみられた。また、屋根の雪下ろしをする人たちの姿もちらほら確認できた。日曜日の朝、最初の仕事は雪の除去。かの地の日常を垣間見て、地域性を感じることができた喜びと、ここの方々の苦労とを思い、複雑な気持ちになる。 夏に見た、どこまでも広がる緑の草原と、異様に丈の高いイタドリの群落に象徴された平原が、すっかり白を基調とした風景画になっている。やがて、凍りつくような海面も見えてくる。宗谷岬に近づくにつれて、再び吹雪が激しくなり、海面はかすんでしまった。日本最北端の碑のある岬でバスは停車し、私を含めた乗客はこぞって碑の方に向かったが、容赦なく吹き付けるブリザードのごとき雪風の攻撃の前に、5分ともたず、バスに戻る。バスは、大岬の集落を抜け、丘陵を越え、時に海に近づきながら、また時には山と肩を並べながら、白い平原となった大地の上を、白銀色の幕のような海を左に、走ってゆく。サイロや、畑と畑の間に植えられた針葉樹の林が、白い大地の上に点在している。夏の日に見たまぶしいばかりの牧場のイメージからはあまりにむなしい光景だが、冬の造形としては、こちらもすがすがしい感じで、美しいと思えてくる。
浜頓別、枝幸と、この地域の中心地を過ぎる。バスターミナルとなっている場所は、かつての国鉄の駅のあったところである。バス乗り換えのため、少し時間のあったため、この停車場の変遷を簡単に紹介した資料室ともなっている、枝幸バスターミナルの建物内を見学した。そこには、天北線や興浜北線に冠する写真資料が並べられており、往時を偲ぶことができた。年表には、1985年興浜北線廃止、1990年天北線廃止とある。もう20年早く生まれていたら、そう思わずにはいられない、かなわぬ現実。枝幸の町は、雪に覆い尽くされているとはいえ、この一帯の中心地としての基盤を整えた、想像以上に大きな町だった。オホーツク海沿岸は、たとえばサロマ湖の砂州に代表されるように、起伏の少ない砂浜海岸が卓越している印象を受けるが、地図を細かくあたってみると、所々に小規模な「でっぱり」があり、オホーツクの景観のよいアクセントになっている。今回の道程でも、浜頓別町南部の神威岬や、雄武町の日の出岬など、個性溢れる地形が多い。この枝幸町の市街地も例外ではなく、ウスタイベ岬の突出部分の南にわずかに内陸に食い込んだ湾入部を利用して開かれている。投錨地として適する地勢であり、この地がローカルな中心として成長してきた足跡をも、それは物語っているようである。 街中に、人影はほとんどなかったが、バスターミナルに隣接するショッピングセンターは巨大で、スーパーマーケットのほか、洋品店、レストラン、クリーニング店、薬局、書店、CD・ビデオショップなどが1つの建物に集約して入っており、中を覗くと、多くの人たちが訪れていて、買い物や食事を楽しんでいた。鮮魚コーナーに「ぼうだら」が売られていたのが印象的だった。 再び別のバスに乗り換え、雄武、興部、沙留、渚滑と、やはり個性溢れるローカルな中心地を過ぎ、いよいよ旅の目的の1つであった、紋別−それも、冬の紋別−へ。バスの通過した大地は、押しなべて白という色に同調していたが、夏になれば、色とりどりの花に彩られる緑の大地に変貌する。その躍動の季節に向け、すべての大地の事物たちは、ひっそりとうずくまり、その時を待っているのだろうか。 「雪色」 |
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