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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#53 神田神保町の周辺 〜震災後の都市計画と下町の面影〜 (千代田区)

 2013年3月16日、新宿御苑散策を終えて靖国通りを東へ、JR神田駅付近までを歩きました。靖国神社境内でこの年の東京におけるソメイヨシノ標本木の開花を確認し、九段坂を降りて、神田エリアへと歩を進めました。首都高速5号池袋線が直上を通過する水路は日本橋川です。日本橋川は、かつて平川と呼ばれていた神田川の旧流路を踏襲する流れです。神田川は江戸市中に上水を供給する目的と、外濠として機能させるために湯島から南へ突き出していた台地を切り崩した現在の流路に付け替えられ、下流部分は海上から市街地への水運のルートとして機能することとなりました。水上交通の役割を終えた現在でも、高速道路の用地となり、陸上交通に形を変えて物流を支え続けています。日本橋川に架かる橋は俎(まないた)橋。日本橋川は神田川掘削の際に一度部分的に埋め立てられて神田川から切り離されていた時期がありました(1903(明治36)年に再び連結)。俎橋の上流にある堀留橋の名にその史実を読み解くことができます。

俎橋

俎橋から見た日本橋川
(千代田区神田神保町三丁目付近、2013.3.16撮影)
九段坂を望む

俎橋から九段坂を望む
(千代田区神田神保町三丁目付近、2013.3.16撮影)
神保町交差点

神保町交差点、東方向
(千代田区神田神保町二丁目、2013.3.16撮影)
靖国通り

靖国通りが駿河台を避けカーブを取るあたり
(千代田区神田神保町一丁目、2013.3.16撮影)

 俎橋を越えてさらに通りを進みますと、古書店街として内外に知られる神田神保町へ至ります。書店や出版社なども近隣に集積していまして、通りを歩いていても多くの本屋が店先に書籍を並べている光景を目にすることができます。周辺には多くの大学が立地しており、学生街としての側面も併せ持ちます。ところで、この神田神保町をはじめ、周辺の地名はその多くが「神田○○町」など、「神田」を冠したものとなっています。これは1947(昭和22)年に麹町区と神田区が統合して現在の千代田区が発足した際、旧神田区の町名に「神田」を付けたものにしたことによります。

 靖国通りは関東大震災後の復興事業に伴い拡幅された道路で、開設当初は大正通りと呼ばれていました。神保町交差点から東へ向かいますと、これまで直線的だった道路が南へ少しカーブしている様子を確認できます。この緩やかな街路構成は、明治期に作成された地勢図でも確認できます。程なくして到達する「駿河台下」の交差点。これがこの曲線が存在する理由のヒントです。先に神田上水の通水などの目的で湯島方面から続く台地を削って水路を通したことをお話ししました。この神田川によって北側の大地と分断された台地の南端部分が駿河台です。靖国通りはこの駿河台の高台を避けるように通されているというわけです。なお、駿河はご案内のとおり、現在の静岡県中部の旧国名です。その晩年を駿府(現在の静岡市)で過ごした徳川家康の没後、家康付を解かれ江戸に帰った旗本たちがこの地域に多く居を構え、また富士山もよく見えたことから駿河台と呼ばれるようになったようです。それまでは神田山などと呼称されていたようで、この神田川を掘削して出た土砂は日比谷入江の埋め立てに利用されました。

靖国通り正面に東京スカイツリーを望む

神田小川町、靖国通り正面に東京スカイツリーを望む
(千代田区神田小川町二丁目、2013.3.16撮影)


小川町交差点、東方向
(千代田区神田小川町二丁目、2013.3.16撮影)
神田青果市場発祥の地碑

神田青果市場発祥之地の碑
(千代田区神田須田町一丁目、2013.3.16撮影)


神田多町付近の街並み
(千代田区神田多町二丁目、2013.3.16撮影)

 駿河台を迂回する部分を過ぎ、道路は北東に曲がって、小川町交差点を経て、須田町交差点に至り再びほぼ東西方向に進むようになります。この北東に進む部分からは、両側のビル群の間、正面に東京スカイツリーを望むことができます。須田町交差点はかつては現在よりも1本北の通りにあり、交差点に面して赤煉瓦のモダンな万世橋駅がありました。須田町交差点は往時は市電が行き交う交通の要衝であり、周辺は銀座と比肩するほどの繁華街であったようです。1923(大正12)年の関東大震災における駅舎の被災や、震災後の区画整理により須田町交差点が現在に移転したことから人の流れが大きく変化、利用が大幅に減った万世橋駅は1943(昭和18)年に休止されました。駅のあった場所は長年交通博物館が移転、同館のさいたま市への移設後は、旧駅の遺構を利用した商業施設「 mAAch ecute(マーチエキュート) 」が2013年に完成しています。

 神田エリア一帯は藩政期には町屋が集められ、日本橋方面からの水運を利用した河岸も多く整備され町人が多く集まるいわゆる下町として成長しました。神田須田町一丁目の靖国通り沿いに、「神田青果市場発祥之地」と刻まれた石碑を見つけました。江戸初期の慶長年間(1596年〜1615年)には、神田川や南に隣接する鎌倉河岸(内神田二丁目の鎌倉橋あたり)から荷揚げされた青果物を扱う市場がこの辺りに開かれていました。1万5,000坪(約4万9,500平方メートル)という広大な市場は、店が市場で働く人の住居も兼ねており、町そのものが市場であるようなものでした。関東大震災の被災後の1928(昭和3)年に秋葉原西北に復興後、1990(平成2)年に大田区に移転しています。都心の一角を占める神田地域は高層ビル群によってその多くを占められる景観が連続している印象ですが、ひとつ路地に入りますと昔ながらの商家のような建物をも散見されまして、伝統的な商工業地域としての下町の系譜に触れることができます。

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