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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#41 東京リレーウォーク(26) 〜目黒区散歩(前)、味わいのある坂を歩く〜 (目黒区)

 2011年2月19日、前項にて三軒茶屋から目黒区碑文谷に向かって歩き、都立大学駅まで到達した私は、引き続き目黒区内の彷徨を続けました。現在の目黒区は1932(昭和7)年に旧荏原郡の全域が東京市に編入された際、旧来の目黒町と碑衾(ひぶすま)町の区域によって発足しています。このうち後者の碑衾町は合成地名で、旧碑文谷村の「碑」と、衾村から取って、1889(明治22)年の町村制施行の際に命名されたものです。碑文谷のほうはその後も住所地名として残っていますが、一方の衾は住所地名からは姿を消しています。目黒区内のうち、概ね環七通りより南の地域がかつての「衾村」の範域にあたるようです。都立大学駅から西へ、かつての衾村の地域を歩いていきます。

目黒通り

目黒通り・都立大学駅付近
(目黒区中根一丁目/柿の木坂一丁目、2011.2.19撮影)
氷川神社参道

氷川神社参道
(目黒区八雲二丁目、2011.2.19撮影)
八雲一丁目

八雲一丁目の通り景観
(目黒区八雲一丁目、2011.2.19撮影)


東光寺
(目黒区八雲一丁目、2011.2.19撮影)
常圓寺

常圓寺
(目黒区八雲一丁目、2011.2.19撮影)
町並み

常圓寺東側の道路沿いの景観
(目黒区柿の木坂一丁目/八雲一丁目、2011.2.19撮影)

 都立大学(現在の首都大学東京)移転後も周辺地域の呼称として息づき駅名も改称されていない都立大学駅付近にも、かつての小川が緑道化されています。その小川は呑川で、大田区内中央部では開渠として西から東へ流下しています。かつての「衾エリア」では、呑川の本流のほか、柿の木坂地域を南流する「柿の木坂支流」や駒沢オリンピック公園南から流れる「駒沢支流」も緑道化されていて、地域を特徴づける景観の一つとなっているようでした。そして、これらの河道部が形成する低地に向かって穏やかな坂があって、それらは時々特色ある名前で呼ばれていまして、都市近郊の住宅街に一定のアクセントを与えていました。この日の活動は目黒区西部を歩いた後に一旦隣の世田谷区にある九品仏の名で知られる浄真寺へ赴いた後、目黒区内を北東へ進むルートを採っていまして、その行程の中で名前のある多くの坂に遭遇することとなったわけです。


 呑川緑道を西へ、八雲小学校西に続く細い参道を進みますと氷川神社が佇みます。小学校や周辺の地名「八雲」は、この神社に祀られる素戔鳴尊(すさのおのみこと)が詠んだ和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」に因むものであるようです。同神社は前述の旧衾村の鎮守でしたが、その祭神から小学校の名称が採られ(1874(明治7)年)、やがてその名が衾の地名を多く残していた現在の八雲地区の住所地名となって、伝統的な「衾」の地名が姿を消すこととなりました。八雲小学校から東、八雲一丁目地内を北に大きく曲がるように続く商店街は旧衾村の中心的な集落であったようで、明治期の地勢図にも、北側の東光寺や常圓寺とともにこの道筋が描かれています。両寺院の境内には大イチョウがあり、地域とともに歩んだ古刹を象徴しているように思われました。
 

呑川駒沢支流緑道

呑川駒沢支流緑道
(目黒区八雲二丁目、2011.2.19撮影)
呑川緑道

呑川緑道
(目黒区八雲二丁目、2011.2.19撮影)
しどめ坂

しどめ坂(宮前小学校東側)
(目黒区八雲三丁目、2011.2.19撮影)
太鼓坂

太鼓坂(宮前小学校西側)
(目黒区八雲三丁目、2011.2.19撮影)
九品仏浄真寺・本堂

九品仏浄真寺・本堂
(世田谷区奥沢七丁目、2011.2.19撮影)
自由が丘駅前

東急自由が丘駅前
(目黒区自由が丘一丁目、2011.2.19撮影)

 氷川神社あたりより西側の呑川緑道は、北へ伸びる駒沢支流とともに直線的な流路となっており、周辺の街区も碁盤目状に整理されていることに気が付きます。これは昭和初期における郊外へ伸びる電車網の整備や、関東大震災の罹災から新居を求める人口の流入に伴い、それらの受け皿として盛んに耕地整理が行われた結果であるようです。耕地整理という名ではあるものの、実質的には住宅地としての基盤を確保するために行われたもののようです。常圓寺東の北野神社は耕地整理により現在地に遷座したものとのことで、境内には耕地整理の記念碑が建てられています。こうして、呑川やその支流に向かって緩やかに傾斜した地形を持ち、河道に沿った低地で稲作が行われていた農村地帯は、味わいのある坂道と歴史を伝える古刹、自然を感じさせる緑道とが程よく調和した閑静な住宅地へと姿を変えました。宮前小学校の東西には、目黒通りに向かって上る「しどめ坂」や「太鼓坂」などがあって、坂とともにあった地域の姿を映しているかのようです。

 目黒通りを横断し、九品仏方面へ古くから直線的な道路となっていたという谷畑(やばた)坂を、通り、自由が丘地内を進みます。坂の名前になっている谷畑は、自由が丘エリアのかつての字名で、ここでも耕地整理と軌を一にして、移住していた文化人の働きかけなどがあって自由が丘という地名となったもののようです。こうした地名の移り変わりを見ますと、近代的な都市化を標榜した当時の世相の、一種の熱気のようなものを感じます。世田谷区奥沢に所在する浄真寺は九品仏の名で知られる古刹です。3つの阿弥陀堂に安置される計9躰の阿弥陀如来像が著名ですが、戦国期の城郭の跡に建てられた来歴から、境内にその土塁跡を残す史跡としての一面も持っています。


中根公園

中根公園
(目黒区中根二丁目、2011.2.19撮影)
長屋門

長屋門の見える風景
(目黒区中根二丁目、2011.2.19撮影)
寺郷の坂

鉄飛坂下から寺郷の坂を望む
(目黒区大岡山一丁目/平町二丁目、2011.2.19撮影)
鉄飛坂

鉄飛坂
(目黒区平町二丁目/大岡山一丁目、2011.2.19撮影)

 九品仏駅から繁華な表情を見せる自由が丘駅を一瞥し、再び都立大学駅に戻り、呑川の緑道を下流へ辿りながら、穏やかな住宅街を歩きました。周辺の住所地名ともなっている中根公園は、前項でご紹介した荏原台の末端にあって、周辺からはやや高台となっています。公園はみずみずしい木々に包まれていまして、住宅地の中にあって貴重な緑地帯を形成しています。地名にある「根」は、台地の末端部を指します。北にある「東が丘」も字名としては「東根」であったようで、この中根と同様の地形に即した地名でした。中根や東根も旧衾村の字名に端緒を持つ地名です。元は「平根」であったという東隣の平町地区は、周辺と比べて街区がやや曲線を描いた道路によって構成されています。この街区の構造はここがかつての農村地帯であった時のそれを今に伝えるものなのではないかと思われました。この中根から平町にかけても、「寺郷(てらごう)の坂」や「鉄飛坂(てっぴざか)」といった坂があります。それらを結ぶ通り沿いには代々名主を務めた旧家の長屋門があって、往時を偲ばせていました。

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