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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#38 国分寺の自然を歩く 〜武蔵野の情景を感じる〜 (国分寺市)

 2010年12月4日、初冬の鮮やかな美しさを見せる雑木林の風景と現代における郊外のしなやかな都市的景観とがほどよいバランスを醸す国分寺を歩きました。国分寺は、多摩川の浸食活動によって形成された河岸段丘崖である「国分寺崖線」の名前としてもしばしば登場していました。国分寺駅のすぐ南をその段丘崖は通っていまして、駅近くにある都立公園「殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園」は、そうした高低差を利用した作庭となっています。国分寺崖線に沿って流れている野川は、駅にほど近い恋ヶ窪地区の湧水が源流です。現在は日立製作所の敷地内となっている場所です。

国分寺駅

JR国分寺駅
(国分寺市南町三丁目、2010.12.4撮影)
殿ヶ谷戸庭園

殿ヶ谷戸庭園
(国分寺市南町二丁目、2010.12.4撮影)
殿ヶ谷戸庭園

殿ヶ谷戸庭園内の湧水
(国分寺市南町二丁目、2010.12.4撮影)
野川

野川の景観
(国分寺市東元町三丁目、2010.12.4撮影)
不動橋

不動橋
(国分寺市東元町三一丁目、2010.12.4撮影)
お鷹の道周辺の景観

お鷹の道周辺の集落景観・国分寺崖線の斜面林
(国分寺市東元町三丁目付近、2010.12.4撮影)

 マルイが入る駅ビルを中心にコンパクトな商業地域が広がる中を東へ進み、殿ヶ谷戸庭園へと至りました。1915(大正4)年に満鉄副総裁の江口定條がこの土地の自然景観に魅せられて別荘を設けたことに始まります。その後1929(昭和4)年に三菱財閥の岩崎彦弥太の所有となり再整備がおこなわれ、現在の武蔵野の自然を巧みに取り入れた回遊式庭園の基礎となりました。戦後一度は商業地域建設の計画があったようですが、自然保護の市民運動などから都が買収し、現在は都立公園として開放されているようです。園内はまさに紅葉が最盛期を迎えていまして、カエデやイチョウなどが鮮やかな色彩を見せていました。段丘崖(「はけ」や「まま」などと呼ばれます)を利用した園内では、崖上から庭園を穏やかに眺めることができ、湧出する水源のみずみずしさもあいまって、地域を象徴するような自然の緑に親しむことができるようになっていました。近50年ほどで劇的に大都市近郊の住宅地域へと変貌を遂げました。駅前には「狛江弁天池緑地保全地区」があり、シラカシやスダジイ、ケヤキ、コナラなどの落葉樹の森が水辺に残されて、往時の面影をわずかながらに伝えていました。

 殿ヶ谷戸庭園を出た後は、庭園の西側の道路を南に進みます。この道も国分寺崖線を通過する部分は緩やかな下り坂になっていまして、坂下を緩やかに流れる野川へと行き着きました。都道の西には「不動橋」という小さな橋が架けられていまして、近傍に不動明王碑が建立されています。はけの湧水が信仰の対象となり、不動尊の立地を見たものでしょうか。ここから西へ案内表示に導かれるように住宅地を進みますと、、野川へ注ぐ小川に沿う静かな小道に到達します。周辺が藩政期に尾張徳川藩の御鷹場であったことから、この道は「お鷹の道と呼ばれています。周辺は崖線に沿った森が穏やかに色づくさまを眺められたり、家々の生垣の山茶花が美しい花をつけていたりと、昔懐かしい景観を目にすることができるようになっています。何よりはけから流れ出る小川の水が本当に清冽で、実に清らかな気持ちになれます。ホタルも生息しているようです。

真姿の池

真姿の池
(国分寺市西元町一丁目、2010.12.4撮影)
真姿の池周辺の林

真姿の池周辺の林
(国分寺市西元町一丁目、2010.12.4撮影)
湧水を流す小川

真姿の池湧水群から流出する小川
(国分寺市西元町一丁目、2010.12.4撮影)
お鷹の道

お鷹の道、国分寺方向へ向かう
(国分寺市西元町一丁目、2010.12.4撮影)
武蔵国分寺

武蔵国分寺
(国分寺市西元町一丁目、2010.12.4撮影)
武蔵国分寺址

武蔵国分寺址
(国分寺市西元町二丁目、2010.12.4撮影)

 お鷹の道をさらにたどりますと、名水百選にも選ばれている真姿の池湧水群と呼ばれる一角へと至ります。小道に沿った小川の本流たる流れは北の方向、はけの方から流れてきていまして、その源には真姿(ますがた)の池が豊かな森の木々の下にうずくまるようにしてありました。平安時代、玉造小町という女性が病に困り国分寺を訪れた際、この池の水で洗い清めたところ病気が平癒したことからその名があると言われれいるとのことです。東京郊外のベッドタウンの中にあって、お鷹の道や真姿の池湧水群の周辺は美しい緑がふんだんに残されて木漏れ日が快い、かつての武蔵野の風景を彷彿とさせる貴重な景観が残されていました。都市と隣り合わせとなったこうした自然は、その価値が際立って、人々を癒す存在となってきているのだと感じました。足元を流れる清らかな水も、緑を育み、そしてそれが人々を惹きつけるよすがとなったのでしょうか。周辺の住所地名は「西元町」・「東元町」で、これはかつての国分寺村の主要集落がここを中心に展開したことを示すものであるように思います。道路沿いには長屋門を擁する家々も認められます。そうした生活の舞台としての国分寺は古代にまでさかのぼります。

 お鷹の道を進み、真姿の池湧水群を超えてさらに西へ進みますと、武蔵国分寺の境内へと行き着きます。この寺院は奈良時代に全国各地に創建された国分寺のうち、武蔵国分寺の光景にあたる寺院で、伝承によりますと武蔵国分寺は1333(元弘3)年に分倍河原の戦いで焼失し、1335(建武2)年に新田義貞が薬師堂を再建したことに始まるといわれているのだそうです。現在の国分寺の南側一帯には、武蔵国分寺跡と武蔵国分尼寺跡の遺構が広がって、史跡公園として整備されています。国分尼寺跡は国分寺跡の西側、かつての東山道武蔵路を挟んで立地していたようで、現在ではJR武蔵野線が両史跡の間を南北貫く形となっています。

武蔵国分尼寺址

武蔵国分尼寺址
(国分寺市西元町四丁目、2010.12.4撮影)
伝鎌倉街道

伝鎌倉街道
(国分寺市西元町四丁目、2010.12.4撮影)
畑地

伝鎌倉街道付近、畑地とJR武蔵野線を介し市街地を望む
(国分寺市西元町四丁目付近、2010.12.4撮影)
西国分寺駅

JR西国分寺駅南口の商業施設
(国分寺市泉町三丁目、2010.12.4撮影)

 国分尼寺跡から北へはかつての鎌倉街道跡と伝えられる切り通しや、中世の寺院跡とされる伝祥応寺跡なども存在して、古代から中世にかけてもこの一帯が要衝性のある場所であったことを窺い知ることができます。史跡から北へ進み、高層住宅が立ち並ぶ一角を経て、JR西国分寺駅へ到着し国分寺の散策を終えました。都市化が進行した多摩地域にあって豊かな自然と史跡が残された地域は、国分寺の町の変遷を記録しながら人々に憩いの場を提供する揺りかごのような場所であるようにも思えました。

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