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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#25 東京リレーウォーク(17) 〜湯島・神田界隈へ 坂を感じる〜 (文京区・千代田区・中央区)

 2008年12月28日、JR池袋駅をスタートしたフィールドワークは、巣鴨と本郷付近を経て、旧中山道を跡付けながら日本橋へと進んでいました。本郷通りと春日通りが交差する本郷三丁目交差点には、「本郷もかねやすまでは江戸の内」の川柳で知られる「かねやす」のビルが建てられています。次に、文京区のホームページによる説明を引用します。

 享保年間(1716〜1736)、この地に、兼康祐悦(かねやすゆうえつ)という歯科医が乳香散という歯磨き粉を売り出し、これが当たり店が繁盛していたが、1730(享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、「かねやす」のあたりを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じた。その一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、前述の「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれたとのことです。かねやすは現在複数のテナントが入居するビルとなって、本郷の町に歴史を連綿と紡いでいます。

本郷三丁目

本郷三丁目交差点、南方向(右前方は「かねやす」)
(文京区本郷四丁目、2008.12.28撮影)
本郷三丁目

本郷三丁目交差点、北方向
(文京区本郷三丁目、2008.12.28撮影)
湯島天神

湯島天満宮
(文京区湯島三丁目、2008.12.28撮影)
湯島天神・梅林

湯島天満宮・梅林
(文京区湯島三丁目、2008.12.28撮影)

 文京区は東京の中でも坂の多い地域を含むことで知られます。東京を下町と山の手に分ける台地の末端部が区域に重なるためです。東北・上越新幹線で東京駅を出発して地上に出ますと左手(西側)にちょうどその台地の末端に当たる崖状の地形を目にすることができます。台地と台地を刻む細長い谷地とが織りなす地形にまたがって都市化が進んだ結果、坂道の多い市街地が形成され、味わい深い坂のある風景が多数生み出されました。本郷三丁目交差点のすぐ北を北西に下る「菊坂」もそのひとつです。

 菊坂は本郷台地を刻む小河川の上につくられた道路になっています。その小川の水源は現在の東京大学の敷地内で、本郷通りは菊坂入口のところでそのわずかな谷間のために北に向かって下りと上りが連続しています。南側の坂を「見送り坂」、その後の上り坂を「見返り坂」と呼んでいます。江戸を離れる人を縁者が見送るのが「見送り坂」、去る者が別離を惜しみ振り返るのが「見返り坂」というわけですね。中山道はこれより本郷台地の尾根筋を辿るように板橋宿へと進んでいくことはこれまでお話ししてまいりました。

三組坂

三組坂、坂上より東方を望む
(文京区湯島三丁目、2008.12.28撮影)
清水坂

清水坂の景観
(文京区湯島三丁目、2008.12.28撮影)
妻恋神社

妻恋神社
(文京区湯島三丁目、2008.12.28撮影)
神田明神

神田明神
(千代田区外神田二丁目、2008.12.28撮影)

 「かねやす」のある本郷三丁目交差点を東に折れて、春日通りを湯島天満宮(湯島天神の通称で知られますね)へと向かいました。中高層のビルが建ち並ぶ町並みを緩やかなアップダウンを造りながら進む春日通りは、このあたりの台地を切り開いて造られた「切り通し」で、坂道も「切通坂」の名前が付けられています(かつて通りを走っていた都電も「切通線」でした)。通りに面した鳥居をくぐり、ビルに囲まれた湯島天満宮へ。学問の神様として多くの崇敬を集める天神様は、現代都市の中に埋もれるようにありながらも、押しも押されもせぬ地域のシンボルとして訪れる人々をやさしく迎えてくれているように感じられました。合格祈願や学問成就を願う多くの絵馬が奉納された境内にはたくさんの梅の木が、遠い春を待ちわびていました。

 湯島天神の南の鳥居前からは、神田川のほうに向かって緩やかな坂道が続きます。清水坂と呼ばれるその坂も、やはり都会の密集した建物群の中を緩やかに下っています。清水坂自体も台地上の小高い稜線に沿っているようで、東側の昌平橋通りに向かって下り坂が形成されていまして、「湯島中坂上」や「三組坂上」といった坂の上にしばしばみられる交差点を通過しています(昌平橋通りには、これらの対になる「湯島中坂下」や「三組坂下」の交差点名が見えます)。昌平橋通りへ落ちる坂道の中には階段になっているものもあります。日本武尊伝説に由来を持つ妻恋神社が面する妻恋坂を一瞥しながら、蔵前橋通りを横断し階段を上って神田明神の境内へと進みました。清水坂は、湯島天神へと抜ける新道を建設する際に土地を提供したという会社の名前が、三組坂は旧町名がそれぞれ坂の名前の由来であるようです。さらに言いますと、「三組町」の地名は、徳川家康没後、江戸に召還された家康付きの三国の御家人がこの一帯を拝領したことにちなむものであるといいます。東京の坂には生活や歴史、あるいは土地の形状そのものなどに密着した豊かな名前が付けられているのが無機質な現代の都市の景観を「地域の情景」としてをより味わいのあるものにさせているように感じられます。

万世橋

万世橋(北詰)
(千代田区外神田一丁目、2008.12.28撮影)
秋葉原

万世橋交差点付近から秋葉原を望む
(千代田区外神田一丁目付近、2008.12.28撮影)
三越前

日本橋三越前
(中央区日本橋室町二丁目、2008.12.28撮影)


日本橋・夜景
(中央区日本橋室町一丁目付近、2008.12.28撮影)

 730(天平2)年創建とされる神田明神は、徳川家康が江戸幕府を開き江戸城が拡張されたとき、表鬼門に当たる現在地に遷座されたものであるといいます。以後、「江戸総鎮守」として東京都心108町会の総氏神として多くの信仰を受けています。朱塗りの柱が鮮やかな随神門をくぐり、「初詣」の横断幕も掲げられ新年の準備が整った鳥居を観ながら、再び国道17号に出ます。江戸時代、聖堂を中心とした儒学の本山であった昌平坂学問所のあった、湯島聖堂から東京医科歯科大学のある敷地を囲む「昌平坂」を散策し、神田川を越える聖橋の姿を一瞥しながら、昌平橋交差点、万世橋交差点と進みます。このあたりの神田川は、江戸城下町建設の際に、防衛線として台地を切り崩して建設された人工河川で、聖橋あたりからは特に渓谷のような谷の深さを感じることができます。

 夕刻となりネオンが明るい秋葉原の電気街の雰囲気を感じつつ、万世橋の欄干のほのかな照明が醸す昭和モダンに心を温められながら、神田駅前を過ぎ、日本橋へ至りました。クリスマスが終わり、多くの事業所が年末年始の休業に入って新年を迎える一時のインタバルの中人通りのやや落ち着いた日本橋の街並みは、それでもきらびやかな電飾に包まれていまして、都心の商業地としての伝統をアピールしているようにも見て取れました。この年の3月、東京駅から日本橋へ歩いて始まった東京めぐりは、およそ8か月の時間をかけて首都の東郊から北郊をめぐって、再び日本橋へと戻ることができました。夜の日本橋は街灯のあかりが空間をより穏やかなものに演出して、1911(明治44)年からここに在り続ける石造アーチ橋の重厚感を都市の格式ある歴史的景観として昇華させてくれています。東京駅周辺とともに再開発の進む日本橋エリアは今も昔もそしてこれからも、巨大都市たる東京のアイデンティティとして、存在していくこととなるのでしょうか。

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