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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#20 東京リレーウォーク(12) 〜西新井地域 歴史ある参詣道を行く〜 (足立区)

 2008年10月13日、前回の「東京リレーウォーク」の終着地となった東武伊勢崎線・竹ノ塚駅より、晴天の下、東京の町歩きを再開しました。竹ノ塚駅前は中高層の住宅群に商店街の景観が重なる近隣の商業拠点として、高密度過ぎずかつ粗放的でもない穏やかな住商混在地域としての表情を見せていました。タクシーやバスが駐留する西口を出て、小ぢんまりとした商店街を抜けて尾竹橋通りに出ました。三連休の最終日となった体育の日のこの日、からっとした晴天の下、多くの人々が路地を駅に向かって歩いていきます。

 古来葛飾や足立と名付けられた範囲は、利根川や荒川、綾瀬川といった、元来関東平野を乱流し東京湾に注いだ氾濫原一帯を指す広大なものであったことは前項より度々触れてきました。明治前期の地形図を確認しますと、今の足立区付近の地勢は、河川のつくる自然堤防上に集落が点在し、その家並を覆うような茫漠とした水田が広がるというものであったようです。地形図には、そんな農村的な要素が展開する中、一筋の道路が南北にぴしっと描かれ異彩を放っています。五街道のひとつ日光街道がそれであり、竹ノ塚付近では都道103号として現存しています。伊興町前沼交差点で北西から南東方向に交差し、旧日光街道にも接続する通りは上掲明治期の地図にも見える古くから存続する主要路のようで、駅前という条件も手伝って、尾竹橋通り沿線よりも多様な商業集積が見られるようでした。日光街道が、水田がどこまでも続くのどかな田園風景を進んでいた地域は、そののびやかな雰囲気を残しながら、現代大都市圏の都心近郊のベッドタウンとしてその表情を大きく変えました。

竹ノ塚駅

東武伊勢崎線・竹ノ塚駅(西口からの景観)
(足立区西竹の塚二丁目、2008.10.13撮影)
竹ノ塚

竹ノ塚駅西側、伊興町前沼交差点より南東側の景観
(足立区西竹の塚二丁目、2008.10.13撮影)
尾竹橋通り

尾竹橋通り沿線、マンションの見える景観
(足立区栗原四丁目、2008.10.13撮影)
環七通り

環七通り、満願寺前交差点より西方向
(足立区栗原三丁目、2008.10.13撮影)

 尾竹橋通りを南へ歩みます。日光街道筋をたどるようなルートで東武伊勢崎線が北千住から久喜までの区間で開通したのは1899(明治32)年のことでした。地形図を跡付けますと、日光街道筋に寄り添いながら、集落と集落の間の農地の卓越する部分を線路敷として建設された様子を窺い知ることができます。関東大震災で都心を逃れた人口の流入が契機となり都市化が進み、高度経済成長期を経て一気に市街化が進行したこのあたりは、高層マンションも屹立して、鉄道駅まで徒歩圏内となる大都市圏内の姿そのままの様相を呈していました。とはいえ、大通りを一歩離れると、ビニールハウスを伴う畑などをわずかながら目にすることもできまして、少しほっとした気持ちになります。

 東武大師線の高架をくぐり、すぐの路地を西に入って、閑静な住宅街を歩きますと、程なくして西新井大師の境内へと誘われました。五智山遍照院總持寺と号します。天長の昔、弘法大師が関東巡錫の折、当地に十一面観音を造って祈祷したところ、枯れ井戸から水が湧いて、地域の村民を疫病から救ったとの言い伝えがあり、その井戸がお堂の西側にあったことから、西新井の地名が生まれたという由緒があるようです。江戸時代以降は川崎大師とともに厄除開運の霊場として庶民の信仰を集め、門前町も形成されていました。広い境内に鎮座する本堂の上空には抜けるような青空が広がっていて、その透明な青の輝きをいっぱいに受けて、堂宇は一層たおやかさを増しているように感じられました。

西新井大師

西新井大師
(足立区西新井一丁目、2011.2.5撮影)
西新井大師

西新井大師・弁天堂付近の池
(足立区西新井一丁目、2011.2.5撮影)
西新井大師

西新井大師・山門
(足立区西新井一丁目、2011.2.5撮影)
西新井大師・門前商店街

西新井大師・門前商店街
(足立区西新井一丁目、2011.2.5撮影)

 江戸後期建立の山門を出ますと、心温まる雰囲気の門前商店街が続きます。店の名前が掲げられた提灯が並ぶ朱色のアーチをくぐりながら、団子屋や漬物屋などが立ち並ぶ商店街は、多くの人々で溢れています。程なくして到達する環状七号線を渡り、マンションやスーパーマーケットなどが並ぶ道路を東進しますと、大師前駅の東を南北に貫通する本木新道に出ます。沿線は古くからの商店集積があるようで、西新井から興野、本木へと至る道路沿いは、ほぼ切れ目なく近隣商店街が連続しています。本木新道は、千住宿から分岐して西新井大師まで続く参詣道であった「大師道」を承継する街路です。現在でも北千住駅と西新井大師とを連絡するバス通りとしてバスが頻発するルートとなっており、変わらずに両地域を結ぶ役割を果たしているようです。

 ひっきりなしにバスが通過する道路を一歩外れますと、昔ながらの集落が都市化によって稠密な住宅街へと変貌した様子が垣間見られます。住宅の裏手に、区の保存樹木に指定されたケヤキやスダジイの木立がのびやかな姿を見せていたり、区内屈指の樹勢というイチョウの大樹が二本並び立つ興野神社の様子は、かつての興野の原風景をいまに伝えているように感じられます。神社の前の比較的広い敷地を持つ住宅の向こうに、小さい区画の住宅が続く風景は、一部の住宅の土地がスプロール化によって細分されて宅地化されてきた歴史を如実に示しています。

本木新道

興野銀座会・本木新道
(足立区興野一丁目付近、2011.2.5撮影)
興野神社

興野神社
(足立区興野二丁目、2011.2.5撮影)
冬木弁財天

冬木弁財天
(足立区本木北町、2011.2.5撮影)
荒川

荒川左岸より西新井橋を望む(スカイツリーが右に見える)
(足立区本木一丁目、2011.2.5撮影)

 本木中央通り商店会と掲げられた街灯が並ぶ一帯に至りますと、本木小学校の前に「冬木屋敷跡」と書かれた説明板が掲げられているのに目が留まりました。小学校の敷地一帯は、明暦の大火の後に豪商となった材木商、冬木屋の別邸跡であるとのことです。二町四反(約23,800平方メートル)という敷地を誇った同邸宅は、小学校の北側にある冬木弁財天もその遺構であり、また西側の田中稲荷神社も屋敷内の稲荷であったというのですから驚きです。周辺は自動車も擦れ違いができないほどの狭隘な街路が連続する住宅街であり、ここにもかつての農村的な集落が無秩序に宅地化されてきた地域の履歴が刻まれています。

 本木地区から南に至って、かつての大師道は荒川の流れに寸断されます。このあたりの荒川は、1913(大正2)年から1930(昭和5)年にかけ、17年に及ぶ難工事の末に完成した放水路であり、千住宿と本木地区はもともとは陸続きでした。首都高速中央環状線の巨大な高架が寄り添う堤防上は自動車も侵入せず、たくさんの人々が散策やウォーキングなどを楽しまれていました。しばらく川沿いを東し、西新井橋により再び大師道をたどるルートへと進みました。

 西新井地域一帯は、広大な田畑が広がる中に門前集落や農村集落が点在していた地域の伝統的な姿を断片的に伝えながらも、東京大都市圏の郊外化の影響を最も早く、かつ大きく受けて、多くの人々を受け入れてきた、大都市圏近傍エリアの典型であるように感じられました。フィールドワークは荒川を越え、古くより宿場町として発達し、地域の一大商業中心であった千住へと続いていきます。

※2008年10月4日のフィールドワークでは、西新井駅前を経由して足立区役所前へ進み、その後都バスにて北千住駅へ進むルートを歩いております。西新井大師から本木新道を進むルートを2011年2月5日に追加捕捉を行い、本文章を完成させていますことをご了承願います。

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