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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#14 東京リレーウォーク(6) 〜清澄周辺、江戸東郊の今昔〜 (江東区・葛飾区)

 2008年6月1日、門前仲町周辺は抜けるような快晴の空の下、多くの参詣客や買物客で大変なにぎわいを見せていました。深川不動尊参道の喧騒を確認しながら、東となりの富岡八幡宮へ。緑深い社叢に覆われた境内では骨董市が開催されていたようで、こちらも芋を洗うような人出となっていました。このお社は、1627(嘉永4)年、当時永代島と呼ばれていた隅田川河口の砂州に送検された由緒を持ちます。社有地は、周辺の砂州一帯の埋め立てにより、6万508坪が開発されたとのことです(同社ホームページを参照)。「深川の八幡様」として親しまる富岡八幡宮は、一般に江戸最大の八幡様としも知られているようで、前述の骨董市の賑わいもあいまって、本当にたくさんの人々が境内に参集していました。

 同社の呼び物の一つとなっている「日本一の大神輿」は、1991(平成3)年に奉納された、純金や宝石の散りばめられたたいへん豪奢な意匠が印象的な神輿です。総重量が4.5トンもあり担ぐことが困難なことから、1997(平成9)年に重量2トンほどの二宮神輿も奉納されているようです。この神社には、元来元禄期に紀伊国屋文左衛門によって寄進された神輿が3基あり、関東大震災による焼失後、宮神輿がない時代が続いていたそうです。富岡八幡宮には、江戸勧進相撲発祥地としての由来を反映した「横綱力士碑」や、深川に居住し信仰の深かった測量家・伊能忠敬像などの事物が佇んでいまして、江戸期における町人文化の足跡を濃厚に残しているように感じられました。

富岡八幡宮

富岡八幡宮
(江東区富岡一丁目、2008.6.1撮影)
富岡八幡宮

富岡八幡宮・境内
(江東区富岡一丁目、2008.6.1撮影)
富岡八幡宮

富岡八幡宮・鳥居
(江東区富岡一丁目、2008.6.1撮影)
大神輿

富岡八幡宮“日本一の大神輿”
(江東区富岡一丁目、2008.6.1撮影)

  前項でも一部ご紹介したとおり、江戸に一大城下町が開かれるまでは、深川エリアを中心とした現在の江東区域一帯は、隅田川河口に展開するデルタ地帯と浅い海域が広がるのみでした。江戸初期から中期にかけて徐々に埋め立てや開発が進められ、深川エリアは次第に江戸の市街地の只中に含まれるようになり、多くの武家地や町人地が旧市街地より移転し、現在の町並みの礎が築かれました。江戸期における開発史を、江東区のホームページより抜粋して以下にご紹介します。

 江東区の発展は、江戸初期からの埋立てに始まります。慶長期(1596〜1615)に深川八郎右衛門が森下周辺の新田開発を行い、深川村を創立しました。また、万治2年(1659)に、砂村新左衛門一族が、宝六島周辺の新田開発を行い、砂村新田と名づけられました。
 明暦3年(1657年)の大火後、幕府は火事に強い町づくりを計画し、密集した市街地の再開発、拡張に努めました。まず貯木場を永代島に集めて木場を創設し、元禄14年(1701年)に現在の木場に移転させました。さらに埋立て開発の進んだ深川地区には、武家屋敷や社寺を移し、正徳期(1711〜1716)になると市街地に編入されました。

門前仲町

門前仲町交差点(西方向)
(江東区門前仲町二丁目、2008.6.1撮影)
葛西橋通り

清澄通り、深川一丁目交差点より南方向
(江東区深川二丁目、2008.6.1撮影)
採荼庵跡

採荼庵跡
(江東区深川一丁目、2008.6.1撮影)
仙台堀川

仙台堀川(海辺橋より西方向)
(江東区深川一丁目/清澄三丁目、2008.6.1撮影)

 富岡八幡宮境内の喧騒を抜けて、永代通りに面して立つ大鳥居をくぐって、相変わらず多くの人手であふれかえる門前仲町の商店街を歩き、門前仲町交差点を北へ、再び清澄通りを進んでいきます。首都高の高架下をくぐり、現代の町並みの中を歩いていきますと、「採荼庵跡」と刻まれた石碑と、縁側風のベンチに腰掛けるような格好をした、旅支度の人物像が目に入ります。採荼庵(さいとあん)は、1689(元禄2)年3月に松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に出立する以前に、深川に最初に住んだ門人杉山杉風の別墅(別荘)のことで、前述の石碑や像は、仙台堀川に架かる海辺橋の南詰付近にあります。

 深川エリアが市街化していくにつれ、江戸の東郊には利根川水系を介して江戸と結ばれる水運の受け皿としての運河が多く開削されました。仙台堀川もそのひとつで、仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れていたことがその名の由来であるとのことです。物流のチャネルとしての機能は既に失われ、現代都市の只中の水辺空間として潤いを与えている仙台堀川のほとりは「芭蕉俳句の散歩道」となっており、芭蕉が奥の細道の旅先で詠んだ18の俳句が掲げられているようです。地下鉄半蔵門線と大江戸線が交差し、都心へのアクセシビリティが向上しつつある清澄に入り、東京都清澄公園へ向かいました。



清澄庭園
(江東区清澄三丁目、2008.6.1撮影)


清澄庭園
(江東区清澄三丁目、2008.6.1撮影)
堀切菖蒲園

堀切菖蒲園
(葛飾区堀切二丁目、2008.6.1撮影)
堀切菖蒲園

堀切菖蒲園
(葛飾区堀切二丁目、2008.6.1撮影)

 泉水、築山、枯山水を主体にした「回遊式林泉(りんせん)庭園」として都会の中のオアシスのような佇まいを見せている清澄庭園は、大名屋敷などが立地してきたと推定されるこの邸宅地を1878(明治11)年に岩崎弥太郎が購入し、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園の造成を計画、1880(明治13)年に「深川親睦園」として一応の竣工をみたものを端緒としています。その後も庭園は改良が加えられ、後に東京市への寄付を経て、現在へと至っています。ふんだんな緑に囲まれた庭園は、緩やかなさざなみを湛える池を穏やかに包み込みながら、下町の風情を残す町並みにあってのびやかな風雅を漂わせているように感じさせました。

 清澄から大江戸線で両国に出て、亀戸、曳舟、青砥と電車を乗り継ぎながら、堀切菖蒲園へ。燦々と降り注ぐ陽光の下、極上の輝きを見せる菖蒲の花は、背後を通過する高速道路の高架を借景にしながら、凛とした季節感を演出していました。


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