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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#12 東京リレーウォーク(4) 〜月島から佃島を歩く〜 (中央区)

 3月15日の東京駅〜築地までの行程に続き、2008年6月1日、東京エリアを数珠つなぎに歩いていく「東京リレーウォーク」の2日目の日程を、前回の到着地点である勝鬨橋よりスタートさせました。この日は、前回の東京フィールドワークの陽気を髣髴させるような、抜けるような快晴で、梅雨入り(2008年、関東甲信の梅雨入りは6月9日でした)前の快い青空が広がりました。

 勝鬨橋は、周知のとおり可動橋(跳開橋)として知られます。1905(明治38)年、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として、築地と月島とを結ぶ「勝鬨の渡し」が設置されたことが橋の名の始まりです。その後、1940(昭和15)年に「東洋一の可動橋」と呼称されるほどの現橋が完成しました。隅田川を船舶が航行する際は可動部を跳ね上げる運用は、交通量の増加と船舶通航需要の減少により1967(昭和42)年に終了するまで続けられました。1970(昭和45)年には可動部への通電が遮断され、可動橋としての利用は完全に停止し、現在に至っています。可動部と、それを中心とした双葉部のアーチ橋のコントラストが隅田川の穏やかな川面に映える光景はとてもすがすがしい印象です。橋上からは聖路加ガーデンをはじめとした、ウォーターフロントの高層ビル群が軽やかに眺められました。

勝鬨橋

勝鬨橋(築地側より撮影)
(中央区築地六丁目、2008.6.1撮影)


勝鬨橋より聖路加ガーデン・大川端RC21を眺望
(中央区築地六丁目/勝どき一丁目、2008.6.1撮影)
月島

月島もんじゃストリート(西仲通)の景観
(中央区月島三丁目、2008.6.1撮影)
勝鬨橋

勝鬨橋遠景
(中央区月島三丁目、2008.6.1撮影)

 勝鬨橋を渡る晴海通りを東へ進み、都営大江戸線が地下を通る清澄通りに入ります。周辺は「もんじゃ焼き」の町として有名な月島エリアとなります。1892(明治25)年に、埋め立てにより完成した月島は、東京湾にあったという観月の名所「月の岬」にちなんだ命名であるとのことです。晴海通りから、「もんじゃストリート」(通りの名称は、「西仲通」)と呼ばれるもんじゃ店の集まる界隈へと歩を進めていきます。トラス構造の梁が町並みに変化を与えている西仲通り商店街には、果たして、一般の店舗に混じって多くのもんじゃ焼き店が集まっていました。路地に入ると昔ながらの民家が軒を連ねていたり、通りの向こうには高層マンションが張り出していたりと、新旧の街並みがのびやかに交錯する月島は、ここが曲がりなりにも都心に近いエリアであることを実感させます。路地を西に入り隅田川沿いの散策路に出て、くっきりとした青空の下、隅田川の穏やかな流れに沿って川上へ進んできます。

 佃大橋の下をくぐりますと、佃エリアへと至ります。江戸初期に恩賞により家康から1613(慶長18)年に江戸近海での漁業権を許されていた摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁民が、1644(正保元)年に築造された隅田川河口の島に永住することとなり、故郷にちなんで島名を佃島とした歴史はよく知られていることであると思います。佃大橋の完成(1964(昭和39)年)によって月島と佃島を隔てていた佃川は埋め立てられ、現在はその支川が佃エリアに残されています。川面にもやってある漁船や、昔ながらの家並みが残る景観は、背後に屹立する大川端リバーシティ21の高層マンション群とのコントラストともあいまって、東京の新旧を感じさせる象徴的な風景であるように思われます。

月島川

月島川の景観
(中央区勝どき一丁目、2008.6.1撮影)
佃大橋

月島より佃大橋を眺める(右奥に中央大橋も見える)
(中央区月島一丁目、2008.6.1撮影)
石川島灯台

佃公園・石川島灯台のモニュメント
(中央区佃一丁目、2008.6.1撮影)
住吉神社

佃島・住吉神社
(中央区佃一丁目、2008.6.1撮影)

 佃公園のシンボルモニュメントとして設置された石川島灯台や、前述の佃村漁民が故郷の住吉社(現在の田蓑神社)から分霊を勧請して創建された住吉神社、佃大橋が完成するまで運航されていた「佃の渡し」の記念碑、佃島の名物である佃煮の老舗など、佃の穏やかな歴史と文化を感じさせる事物に接しながら、佃エリアを歩いていきます。石川島播磨重工(現・IHI)の造船所跡地を再開発した大川端リバーシティを一瞥しながら清澄通りに戻り、相生橋へと進みます。

 行政上「隅田川派川(晴海運河とも呼称される場合があるようです)」と呼ばれる水路に架かる相生橋は、隅田川がくの字型にカーブする場所にあるために上流から運ばれた土砂が堆積しやすい場所であるようで、水上公園となっている中の島公園がある小島(現在は埋め立てにより越中島方面からは陸続きになっています)があるのもその影響であるとのことです。中の島公園を境に長短二対の橋が架けられた(1903(明治36年))のが相生橋の端緒で、関東大震災による類焼後、震災復興事業による再架橋(1926(大正15))を経て、都電通りとして月島エリアへの交通動脈としての役割を果たし(都電は1972(昭和47)年廃止)、現在は1998(平成10)年に建設された3代目の橋が供用されています。

佃

佃川支川と大川端リバーシティ21の景観
(中央区佃一丁目、2008.6.1撮影)
佃

佃島・佃煮の老舗
(中央区佃一丁目、2008.6.1撮影)
豊洲

相生橋南詰より豊洲を眺める
(中央区佃三丁目、2008.6.1撮影)
相生橋

相生橋上より大川端リバーシティ21、永代橋を眺める
(中央区/江東区境、2008.6.1撮影)

 相生橋からは、上流を見渡すと左手に大川端リバーシティを擁しながら永代橋方面を望み、下流方面には豊洲の高層ビル群を軽やかに見据えることができました。隅田川河口に発達した三角州状の小島群は、江戸城下町の成長に従って庶民の町として成長し、近代に入り産業エリアとしての月島の造成を経て晴海や豊洲方面へと拡大する東京臨海エリアの懸け橋となりました。月島から佃島にかけては、江戸から東京へ、大都市が歩んできた歴史の姿が縮図的に刻まれた数少ない事例の一つであることが実感として理解できました。相生橋から眺めるウォーターフロントの風景は本当に快く、青空はさらにさわやかさを増して、歩道を多くの人々が闊歩し、休日の散策を楽しんでいるようでした。

 次稿は、中央区から江東区に入り、門前仲町方面を目指します。

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