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2005・東北春彩

2005年5月、春爛漫鮮やかさに溢れた東北北部を巡りました。
うららかな陽光に包まれた大地は、この上のない透明度と爽快感のなかにありました。


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晩春、千秋の森

秋田駅東口は、「秋田拠点センターアルヴェ」として大きくリニューアルされ、市民サービスセンターやこども未来センター、多目的ホールなどの公共交流施設・「秋田市民交流プラザ」を核として、シネマコンプレックスやホテル、福祉施設やさまざまなショップ・スクール・レストラン等が一体となった施設が形成されています。これに伴い東口もターミナルとして整備が進んでいるようで、秋田自動車道・秋田中央インターチェンジから取り付けられた道路は一度も曲がることなく、秋田駅東口へと導かれています。現在、市街地再開発の目玉事業として、駅の東西を連結する一大幹線道路「秋田中央道路」の工事が急ピッチで進められているようで、あちこちで道路の建設異議を啓蒙する展示がされていることからも、行政当局が並々ならぬ力を入れていることが感じられます。千秋公園へ向かう途上、その工事現場の鉄柵に秋田(久保田)城下の絵図がプリントされた展示物がかけられていました。1661(寛文元)年、1742(寛保2)年および1821(文政4)年の城下の絵図が並べられており、当時「仁別川」と呼ばれていた旭川を西の守りとし、中央に盛り上がった要害としての台地上に城が築かれた経緯が理解できます。この台地は標高にして約40メートルであり、神明山と呼ばれているようです。3つの起伏を持つことから、三森山(みつもりやま)の別名もあったようです。現在でも台地の南に城郭の防御線としての御濠が残っており、城下町としての佇まいが印象づけられます。秋田中央道路は、一部濠の地下を通過する構造となっており、部分的に濠が大きな構造物で覆われていました。

秋田駅東口・アルヴェ

JR秋田駅東口・アルヴェ
(秋田市中通七丁目、2005.5.5撮影)
買物広場

秋田駅西口・買物広場
(秋田市中通二丁目、2005.5.5撮影)
千秋公園南の濠

千秋公園南・御濠
(秋田市千秋明徳町、2005.5.5撮影)
広小路の景観

広小路の景観
(秋田市中通一丁目、2005.5.5撮影)
赤れんが郷土館

秋田市赤れんが郷土館
(秋田市大町三丁目、2005.5.5撮影)
旭川

旭川の景観、二丁目橋より南方向
(秋田市中通一丁目、2005.5.5撮影)

3枚の絵図のいずれにも描かれていた城に最も近い東西の通りを受け継ぐ「広小路」は、駅前の買物公園や県総合生活文化会館(アトリオン)、県民会館などの間を抜けて、旭川へと至る市街地中心部の代表的な文化・商業機能の集積地域です。アーケードのある歩道沿いにはデパートやホテルも集まっていて、秋田では初となる超高層マンションも屹立しました。休日の早朝で人影もまばらでした。近年は多くの地方都市で、町を歩く人は少ないのに道路を通過する車両だけはやたらに多いという、交通流における一種の“逆転”現象が起きているようですが、秋田の中心街もその例に漏れないのではないのかなとも懸念しました。旭川にはさまざまな小橋が架けられており、昔ながらの情趣を感じさせますね。川を挟んで西側を川沿いに南北に進む「川反(かわばた)通り」は料亭や飲食店などが軒を連ねる、伝統的な歓楽街を形成しています。藩政期、火災によって類焼されるまでは舟運で栄え、米蔵の並ぶ通りであったのだそうです。竿灯大通りの東詰、旭川にかかる二丁目橋のたもと付近には、「那波家の水汲み場跡」と呼ばれる遺構も残されており、川反芸者で知られた往時の日常が垣間見られるようでもあります。

さらに西に進みますと、「赤れんが郷土館」のシックな赤煉瓦の建物のあるエリアに至ります。1912(明治45)年に秋田銀行本店として建設された建物です。1981(昭和56)年、秋田市制90周年にあたり、秋田銀行が同行創業100年を記念して市に寄贈したものであるとのあるとの由来が傍らの石碑に刻まれていました。盛岡の赤れんがと同様に、こちらも国の重要文化財に指定されているようです。盛岡の建物が、塔部分と建物部分とで高低差をつけて変化のある構造となっていたのに対し、秋田の赤レンガ郷土館の建物は四隅に円筒形の塔があるもののそれらは建物の主体からは大きく突出せず、全体として起伏の少ない、単体の寄棟造のような格好になっています。建物の背後には主に展示スペースとなっている新館を併設し、秋田市の郷土資料の展示が行われています。1989(平成元)年には、秋田市出身の版画家勝平得之(かつひら とくし)の作品を展示する記念館、1997(平成9)年には、異なる金属を結合させる「接合せ(はぎあわせ)」技法で人間国宝となった秋田市出身の鍛金家・関谷四郎(せきや しろう)の記念室がそれぞれ拡張されているようです。赤レンガ通りとなっている、郷土館東の道を北へ、竿灯大通りを渡り、日本銀行秋田支店横を通過します。ホテルや大型スーパーのある一角を過ぎた北側には、“ねぶり流し館”の愛称で知られる民俗芸能伝承館が、赤レンガ郷土館の分館として開館しています。竿燈をはじめとする郷土の民俗行事や芸能の保存伝承のため、竿灯の展示をはじめとした、秋田を彩るさまざまな祭礼や民俗芸能にまつわる資料が集められているようです。

御隅櫓より北東方向

千秋公園、御隅櫓より北東方向
(秋田市千秋公園、2005.5.5撮影)
千秋公園・御隅櫓

千秋公園・御隅櫓
(秋田市千秋公園、2005.5.5撮影)
御隅櫓より男鹿半島方向

千秋公園、御隅櫓より男鹿半島方向
(秋田市千秋公園、2005.5.5撮影)
御隅櫓より日本海を望む

千秋公園、御隅櫓より日本海方向
(秋田市千秋公園、2005.5.5撮影)
晩秋の千秋公園

晩春の千秋公園
(秋田市千秋公園、2005.5.5撮影)
千秋公園、満開を過ぎたソメイヨシノ

千秋公園、満開を過ぎたソメイヨシノ
(秋田市千秋公園、2005.5.5撮影)

久保田城跡に復元された御隅櫓の上から、秋田の町を眺望しました。この御隅櫓は、久保田城に元来8つあったもののうちの1つで、本丸の北西隅、一番標高の高い位置にあります。秋田市制100周年記念事業として、市街地を俯瞰できる歴史的シンボルとなるよう、復原されたものであるとのことでした。一番高い位置といっても、先述したとおり台地の標高は約40メートルで、櫓の高さ約22メートルを加えても100メートルに満たない高さですので、秋田駅方面の眺望は手前の木々によって大方隠されてしまっています。秋田駅周辺の再開発された建物群をきれいに見通すことはできません。しかし、そのことがかえって秋田の町のたおやかな町並みと、穏やかな周辺の風景とを際立たせて美しく見せる効果を持っていたのかもしれません。北東、太平山のゆったりとした山容から続く山並みは幾重にも緑のヴェールをはらむかのように、しなやかなカーブを描きながら秋田平野に落ちていき、豊穣の大地の礎をなしています。そのなだらかさの向う、狭くなった八郎潟の水面を介して、寒風山をはじめとした男鹿半島の山々が荒々しくもやさしい眼差しを春の空へ届けて、日本海に向かい合います。秋田の市街地は旭川と寄り添いながら、春の日差しそのままの佇まいを見せてくれます。南の地平上、うっすらながら鳥海山の峰が雪をまとう姿が見て取れ、奥羽山脈の慎ましやかな風景の中に溶け込みます。

晩春の千秋公園は、わずかにソメイヨシノがを残して、2005年春の、最後の花吹雪を散らさせていました。久保田城址は、1890(明治23)年、城跡を秋田市が久保田氏から借り受け、公園として整備されました。1896(明治29)年には、秋田県の管理するところとなり、造園家・長岡安平の手により、公園としてさらなる洗練性が加えられました。1953(昭和28)年に再び秋田市に管理が委譲された後、1984(昭和59)年に十五代佐竹義榮(さたけ よしなが)氏が秋田市に公園を寄贈、名実共に市民の公園となった、と千秋公園の由来を説明する現地の看板は伝えていました。その由来の結びに、公園の命名者・秋田市出身の漢学者・狩野良知(かのう りょうち)が、「秋田の秋に長久の意の千を冠して長い繁栄を祈って」命名したといわれるとする一文がありました。千秋公園は春の宴を終えて、はらり、はらり舞い散る桜の花びらの下、初夏へのスタートの直前の、刹那の静けさの中にありました。秋田の町が、多くの時間を経て、幾つもの経験を重ねて、紡いできた、自然な、しかしながら世界にたったひとつの、かけがえのない美の尊さをそこに見た思いでした。この一時(いっとき)、この春の最高の輝きは、この町にゆたかに降り積もり、千秋の未来へ受け継がれていくことでしょう。

2005.東北春彩 −完−


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