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丹後、海原と山並みの彼方へ

 2013年7月13日、京都府北部・丹後地方の諸地域をめぐりました。日本三景の一つ天橋立から舟屋で知られる伊根、そして丹後半島最北端の経ヶ岬へ。その道程で、古来より大陸と交流し豊かな文化を育んだ丹後地域の歴史と自然の一端に触れることができました。

天橋立

天橋立(天橋立ビューランドより)
(宮津市文殊、2013.7.13撮影)
伊根の舟屋

伊根の舟屋
(京都府伊根町、2013.7.13撮影)


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ページ公開:2017年2月1日

天橋立から伊根浦へ 〜風光と羨望の地を歩く〜

 2013年7月13日、地元を未明に出発し、正午前にようやく天橋立に到着しました。梅雨時の蒸し暑い陽気の下、刹那降り始めた俄雨が止むのを車中でしばらく待っていました。日本海側は太平洋側の諸地域と比べて雨が多い傾向にあり、各地で「弁当忘れても傘忘れるな」という格言が広まっているといいます。幸い雨雲は十数分で抜けていったようで、雨は峠を越え、小雨の下天橋立周辺の散策に出かけることができました。

天橋立と宮津湾

天橋立と宮津湾(天橋立ビューランドより)
(宮津市文殊、2013.7.13撮影)
阿蘇海

阿蘇海(天橋立ビューランドより)
(宮津市文殊、2013.7.13撮影)
船上から見た天橋立

船上から見た天橋立
(阿蘇海より、2013.7.13撮影)
籠神社

籠神社
(宮津市大垣、2013.7.13撮影)

 言うまでもなく、天橋立は松島と宮島と並ぶ日本三景の一つです。丹藤半島の東側、宮津湾に蓋をするように砂州が発達しています。天橋立の名のごとく、天に向かって架かる橋のような美しい松波を、天橋立ビューランドや傘松公園から俯瞰しました。ビューランドから一度遊覧船で北側に渡って傘松公園に進んだ後、丹後国一之宮である籠(この)神社を参拝、天橋立を徒歩で南へ歩き駐車場へ戻る行程は、拙稿「三景巡礼 丹後天橋立〜山紫水明の階を歩く〜」にて詳述していますので、ここでは割愛します。豊かな自然景観と、それに惹きつけられた多様な文化的資産とに彩られる天橋立は、今も昔も多くの人々にとって、羨望の風光に出会える場所であるといえるのかもしれません。

 丹波国、中でも丹後半島を中心とした丹後地域は大規模な古墳をはじめ、日本最古(5〜6世紀)とされる製鉄跡や弥生時代中期の水晶玉づくりの工房跡が発見されるなど、古代より大陸との交易からヤマト政権とも比肩する位置ファイ勢力があった場所であると論じられるようになっています。また、上述の籠神社は「元伊勢」と呼ばれる、現在の伊勢神宮に祀られる天照大神(現在の皇大神宮:内宮に祀られる)と豊受大神(現在の豊受大神宮:外宮に祀られる)が一時的に遷座されていた由緒を持つ古社にあたっています。こうした歴史的背景を読み解くとき、天橋立から丹後半島の山々を縫って日本海へとつながる道筋は、やはり大陸とのつながりから勢力を持ったと目される出雲や北九州などの諸地域と、畿内とを結びつける交易の舞台であったともいえるのではないかとさえ思えてきます。そうした潜在性を持ちながらも、近代のにおける殖産興業の流れの中、丹波や但馬の地域が近代的な貿易港として整えられつつあった神戸港の後背地とするために現在の兵庫県という単位の中で行政区画が再編成され、ひとつの行政体としての範域を得ることができなかったのはどこかもどかしい気持ちになります。

天橋立・斜め一文字

天橋立・斜め一文字(傘松公園より)
(宮津市大垣、2013.7.13撮影)
天橋立から阿蘇海を望む

天橋立から阿蘇海を望む
(宮津市文殊、2013.7.13撮影)
伊根の舟屋遠景

伊根の舟屋遠景(伊根湾めぐり遊覧船より)
(京都府伊根町、2013.7.13撮影)
伊根浦・青島

伊根浦の風景・青島(伊根湾めぐり遊覧船より)
(京都府伊根町、2013.7.13撮影)

 そうした古代へのロマンへ気持ちを高ぶらせながら、天橋立によって宮津湾と隔てられる阿蘇海を迂回しつつ丹後半島の東岸を北上し、舟屋で知られる伊根浦へ向かいました。丹後半島の東、伊根浦は日本海岸では珍しい、南側に開けた湾です。西、北、東の三方を急峻な山々に守られ、外界に接続する南も青島が天然の防波堤の役割をしていて、伊根浦は波穏やかな環境にあります。湾を取り囲む陸地はそのまま海に落ちて深い淵をつくっているために波が起こりにくく、干満差が少ないという特徴もあります。海面の変動が少ないという特質は、海側に張り出して建築し、1階部分に海から直接船を格納する構造を持つ「舟屋」を伊根浦に発達させました。湾を取り囲むおよそ5キロメートルの海岸に、およそ230棟の舟屋が連続して建てられています。日本海岸で天然の良港といえば真っ先に北前船の寄港地を想起しましたが、伊根浦の場合そうした性格は薄く、船舶を係留する舟屋が連続する純然たる漁業集落として存立してました。そうした特色ある景観が評価され、2005(平成17)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。


伊根の舟屋をめぐる 〜海と隣り合う家並み〜

 伊根に到着後は、湾内を一周する遊覧船の発着所近くに車を止めて、まずは海から集落の様子を概観することとしました。遊覧船は約25分で伊根湾を周遊します。遊覧船乗り場は舟屋のある伊根浦の西側にある日出(ひで)地区の波止場です。この日出地区から伊根へ向かう狭い道路はかつて国道178号の指定を受けていましたが、現在は山側をトンネルなどで直線的に抜けるパイパスが完成しており、伊根地区を迂回して半島の北部へ向かうことができるようになっています。町役場も舟屋のある集落からこのバイパス沿いに移転しています。

伊根の街並み

伊根の街並み
(伊根町亀島、2013.7.13撮影)
妻飾りのある土蔵

伊根・妻飾りのある土蔵
(伊根町亀島、2013.7.13撮影)
舟屋の風景

伊根・舟屋の風景
(伊根町平田、2013.7.13撮影)
伊根・酒造会社の建物

伊根・酒造会社の建物
(伊根町平田、2013.7.13撮影)


伊根・湾奧の風景
(伊根町平田、2013.7.13撮影)
伊根・舟屋の風景

伊根・舟屋の風景
(伊根町平田、2013.7.13撮影)

 日出地区の小さな入り江を出発した船は、波穏やかな伊根浦へと緩やかに進んでいきます。足元を海に濡らすような舟屋の家並みは海上からははっきりと見て取ることができます。湾を取り囲む岩山は集落のすぐ近くまで豊かな森に覆われており、その裾をなぞるように妻側を海に向けた切妻造の舟屋が立ち並んでいます。伊根浦は若狭湾の西に南を向けて湾口を向けているため、湾を泳いできた魚が迷い込みやすい海域であるようです。そのため、絶好の漁場として古くより行業集落が発達、舟屋というこの地域独特の集落景観が生み出されました。自然そのままの木々に包まれた岩山に寄り添うような舟屋の群れは、さながら海に向けて魚群を待ち受ける定置網のようでもあります。湾内には養殖のいけすや釣り筏なども設置されており、現在でも漁業と強く結びついた景観が目を引きます。

 周遊船での舟屋の見学後は、船着き場で借りることのできるレンタサイクルを利用し、陸側から舟屋集落の景観を確かめます。国道の旧道に沿って舟屋が続く高梨(たかなし)地区の街並みを一瞥しながら、旧役場跡や商工会、漁業などが立地する集落の中心部(平田地区)方面へ進みます。集落は舟屋の背後に主屋を置く構成になっており、道路はこの主屋と舟屋の間の狭い空間を縫うように取り付けられています。主屋の背後の高台には寺院や神社が立地し、集落を見守るように甍が緑の杜に埋もれるような風景もまた格別の美しさがあります。この狭い道路にも舟屋が現在の形状をなすに至った鍵が隠されています。もともと、主屋と舟屋は近接して建てられており、集落に道路を通すにあたり舟屋を海側に移設して道路空間を確保した経緯があるようです。主屋は舟屋と違い平入の建物が多く、道路を挟んで対照的な構造を採っていることも伊根の街並みの特徴です。明治期から戦後まもなく頃までいわゆる「鰤景気」と言われる時期があり、その期間に舟屋の多くは瓦葺二階建てに改装され、主屋から離れたこともあり2階を居室とする舟屋も多くなったといいます。現在では舟屋を利用した民宿も多く、漁業と結びついた観光産業へと、舟屋の多様な利用が進んでいるようです。町の中心部の入口辺りには創業1754(宝暦4)年という酒造会社の趣のある建物が佇んでいました。

伊根浦の景観

波静かな伊根浦の景観
(伊根町亀島、2013.7.13撮影)
伊根の街並み

伊根の街並み、右が舟屋、左が主屋
(伊根町亀島、2013.7.13撮影)
舟屋と海

舟屋の横から海を望む
(伊根町亀島、2013.7.13撮影)
伊根の街並み

伊根の街並み、主屋は平入の家が多い
(伊根町亀島、2013.7.13撮影)
伊根の俯瞰風景

道の駅から伊根の街並みを俯瞰
(伊根町亀島、2013.7.13撮影)
伊根浦の俯瞰風景

道の駅から伊根浦を俯瞰
(伊根町亀島、2013.7.13撮影)

 集落の中心部を過ぎてさらに東へ、舟屋集落の只中を、ペダルを踏みました。建物の間から垣間見る海面は本当に穏やかそのままの風貌を呈しており、ここが漁業を生業とすべく生み出された聖地のようにさえ感じさせました。時折海に近づくことのできる場所から舟屋の家並みを眺めますと、そうした思いも一層高まります。質素ながら強固にしつらえられた土蔵も随所にあって、好景気に沸いた地域の歴史を然り気なく伝えていました。レンタサイクルを借りられる時間が限られていたため集落の南端までは向かうことはできませんでしたが、海との特別の関係で彩られた舟屋の家並みを存分に確かめることができました。集落を一望できる丘の上の道の駅から舟屋集落とその先に鏡のごとくたゆたう伊根浦のこの上ない澄んだ風景を確認し、伊根での行程を終えました。浦の入口に静かにある青島の向こう、夏空にかすむ丹後半島の山並みが海に溶け込むように連なっていたのも大変心に残りました。


伝説の海岸風景を行く 〜新井崎から経ヶ岬へ〜

 丹後半島の東北部を占める伊根町は、舟屋のある伊根浦をその南端として、山がちな同半島にその範域を広げています。幹線道路である国道178号は内陸を進んでいて、海岸沿いの集落へはそこから支線のように道路が設けられています。沿岸集落寒どうしを連絡する道路は隘路となっており、そこから海との間にはほとんど急崖といっていいほどの空間しかなく、猫の額のような平坦地を棚田にしている場所も見受けられました。古来より大陸との交流によってこの丹波の地域が強国としての地位を築いていたとする説が有力となっていることは既に触れました。そうした外界との接触の多かった地域性を反映するかのような、いくつかの伝説が残されている場所が伊根町内には存在しています。中国の歴史書「史記」に登場し、始皇帝に不老不死の霊薬の存在を上奏しその命を受けて東方に船出したとされる徐福にまつわるものです。

 新井(にい)地区は、伊根浦の北、新井崎の西にわずかに湾入した部分に発達した集落です。海岸段丘上の平坦地にはやや規模の大きい水田も開発されていました。伝承では、徐福はこの新井の地にたどり着き、やがて住み着いて地域に多くの知識や農耕や漁業などの産業を根付かせたといいます。そうした功績から住民は徐福を祭神として新井崎神社に祀ったとされます。大海原を眼下に望むような立地にある新井崎神社は、豊かな森に包まれながら、ひそやかに鎮座し地域を見守っていました。潮騒がかすかにたなびくようなその神社は、故地よりはるばるこの地を踏み、ついに帰還のかなわなかった徐福に対し、故郷を偲んでもらおうという、当地の人々の思いやりもまたはたらいていたのかもしれません。新井崎よりさらに北へ、この地域では比較的規模の大きい低地を形成する筒川河口の本庄浜には、浦島太郎伝説で知られる浦嶋神社も存在しています。

新井地区の水田

新井地区の水田
(伊根町新井、2013.7.13撮影)
棚田

新井地区、棚田の景観
(伊根町新井、2013.7.13撮影)
新井崎神社鳥居

新井崎神社・鳥居
(伊根町新井、2013.7.13撮影)
新井崎神社社殿

新井崎神社・社殿
(伊根町新井、2013.7.13撮影)

 新井崎を訪問した後、なおも丹後半島を北へ車を走らせて、伊根町の西隣の京丹後市域に入り、近畿地方北端にあたる経ヶ岬へと達しました。若狭湾はこの岬と、福井県の越前岬を結んだ線より南の湾入部であると定義されています。この岬を境に西側は西南へと緩やかに後退しつつ山陰海岸と呼ばれるエリアへとつながり、東側は日本海岸でも稀有なリアス式海岸を形成する若狭地域へとドラスティックに連接していきます。

 岬の周辺には柱状節理と呼ばれる柱状に割れ目が入った断崖が連続し、一説にはその柱状節理が連なる様子が経巻のように見えたことが経ヶ岬の名の由来であるといいます。駐車場のある展望所から徒歩400メートルの場所には、日本初の水銀槽式回転機械を擁する灯台である経ヶ岬灯台があります。眼下の海岸は繁茂した草木によってその猛々しさを隠されていましたが、岸に近い岩礁の先の海が細かい波をつくって逆巻く様子は、まさに地の果ての断崖上ともいうべきこの場所の地形を物語っているように感じられました。そして、目の前にどこまでも広がる大海原に、古来多くの人々が往来し、様々な文物や技術を伝えてきた時代に思いを馳せました。

新井崎神社付近の海岸風景

新井崎神社付近の海岸風景
(伊根町新井、2013.7.13撮影)
経ヶ岬展望所からの風景

経ヶ岬展望所からの風景
(京丹後市丹後町袖志、2013.7.13撮影)
経ヶ岬灯台

経ヶ岬灯台
(京丹後市丹後町袖志、2013.7.13撮影)
経ヶ岬展望所からの風景

経ヶ岬展望所からの風景
(京丹後市丹後町袖志、2013.7.13撮影)

 古代より風光の地として知られた天橋立から北へ、経ヶ岬へとつながった今回の彷徨は、大陸との交流を経て豊かな国力を得たこの地域の歴史を意識したものであったように思います。畿内から大陸に向かうベクトルに沿ってたおやかにつながる丹後の山並みやそれらを包み込むような海岸風景は、それぞれの地域における特色ある景観も相まって、ここが辺境ではなく、多様な文化と産業とが興隆した豊かな生活の舞台であったことを強烈に実感させました。近年、京都府から兵庫県にかけての日本海岸、いわゆる「北近畿」エリアがまとまった範域として認識されつつあるように思います。そうした視角の背景には、この地域が共有する、多くの文化的・歴史的・自然環境的側面があるといえるのではないかと思われました。



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