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シリーズ・クローズアップ仙台

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#70 あすと長町から広瀬川河畔の地域を歩く 〜町の変化を感じる〜

 2009年12月12日、地下鉄仙台駅から中田エリアへと進み、JR南仙台駅に達していた私は、東北線で2駅進み、再開発事業が進捗する長町駅で下車、「あすと長町」と呼ばれる再開発エリアを概観することにしていました。かつて東北地方有数の規模を誇った長町駅東方の操車場跡地を再開発し、新たな商業拠点として生まれ変わらせるこの事業は、交通の主軸となる大通り(新・国道4号)や東西軸となる都市計画道路長町八木山線の完成及び東北線の高架化・新駅(太子堂駅)設置による都市インフラの完成を経て、町の輪郭が少しずつ見えて始めていたところでした。

 旧来からの町場である長町駅西口方面は「たいはっくる」に代表されるシンボルビルも完成し、長町南駅・太白区役所付近のショッピングモールエリア(ザ・モール等)と共に仙台南部地区における拠点的地区として一定の都市基盤が形成されています。一方、線路より東のあすと長町のエリアは訪問時は商業施設の立地も限定的で、広大な更地の中に一本通る幹線道路を多くの車が行き過ぎる光景のみが依然として印象に残る状況でした。2014年現在では地区北端の区画に移転、同年度中に開院する市民病院の作業が最終段階を迎え、それに南接してアリーナを中心としたスポーツ関連の施設が一定の集積を見せるなど、徐々に町としての成長が見えつつあるようです。

長町駅東口

JR長町駅東口(あすと長町側)の景観
(太白区あすと長町一丁目、2009.12.12撮影)
長町駅西口

JR長町駅西口の景観
(太白区長町五丁目、2009.12.12撮影)
あすと長町

あすと長町の景観(現在はゼビオアリーナなどが建つ場所)
(太白区あすと長町一丁目、2009.12.12撮影)
あすと長町大通り

あすと長町大通り線の風景
(太白区あすと長町一丁目付近、2009.12.12撮影)

 市民病院移転に向けての地盤調査が実施されていた一角を一瞥しながら新幹線・東北線の高架下をくぐり、広瀬橋のたもとへと出ました。広瀬橋は仙台城下、後に続く仙台市街地へ名取郡下から入る旧奥州街道が通過する南の玄関口の役割を担い、広瀬川北岸の河原町は城下南端の町場として栄えました。市街地の拡大によって長町が名取郡下の中心地から仙台南部の副都心的な位置へと変容する過程においても、それらの地域を結ぶ動脈として物流を支えてきました。現在では前述のあすと長町内を縦断する大通りが、旧来の長町市街地を通るルートに替わって国道4号となり、広瀬橋で川を越えていた国道4号は広瀬河畔通(広瀬川右岸の幹線道路)から愛宕大橋へ進むルートとなっていますが、この日においても多くの車両が橋上を通過していました。

 芭蕉の辻(国分町通と中央通(大町)の交点)から南の旧奥州街道は、大雑把に言えば、国分町通、五ツ橋通、荒町と進み、南鍛冶町、穀町、南材木町を経て河原町へ通じていました。このルートが藩政期から近代初期にかけてにおいては、いわば国道4号の位置にあったわけです。昭和に入り荒町以南は仙台市電を通すために拡幅・新設された道路(地下鉄南北線も同じルートを辿っています)へとメインルートは変化し、さらに高度経済成長期には市街地外縁を仙台バイパスが開通するとともに、あすと長町開通に伴って国道4号の指定変更が行われたのは先述のとおりです。河原町から北の旧奥州街道筋一帯は一部を除き旧来からの町名が残っておりまして、穏やかな住宅地域となっています。



広瀬橋より仙台市街地を望む
(広瀬橋上、2009.12.12撮影)
広瀬橋より長町を望む

広瀬橋より長町を望む
(広瀬橋上、2009.12.12撮影)
広瀬橋から泉ヶ岳を望む

広瀬橋より泉ヶ岳を望む
(広瀬橋上、2009.12.12撮影)
広瀬川・郡山堰

広瀬川・郡山堰(左岸より)
(若林区河原町一丁目、2009.12.12撮影)

 広瀬橋から長町の街並みを眺めた後、歩道に設けられたバルコニーから広瀬川の清流を望みました。この日は寒気の流れ込みの影響で雲の多い陽気であったものの、川上には泉ヶ岳方面の視界が開けていて、仙台における超高層ビルの草分け的な存在である住友生命仙台中央ビル(通称、SS30(エスエスサーティ))の隣に当時間もなく竣工を迎えようとしていた仙台トラストシティの高層ビル群を見通すことができました。その後は広瀬川に沿って歩き、ツインタワーが目立つ存在であるツインタワー広瀬川春圃のたもとには、郡山堰があります。周囲は広瀬川の流れを中心に穏やかな水辺の緑地となっていまして、穏やかな散策を楽しむことができます。

 仙台中心部付近までは峡谷然としていた広瀬川も、経ヶ峰や大年寺山を過ぎたこのあたりからは広い河川敷を擁する下流域へと遷移して、田園地帯へ水を供給するためいくつかの堰がつくられました。広瀬橋のひとつ上流に位置する宮沢橋の北、さらに上流の愛宕橋の近くには、愛宕堰があって、ここからは仙台市東郊の農地を潤す七郷堀や六郷堀がここから分流しています。もともとはそれぞれの用水にに取水堰(「七郷堰」と「六郷堰」)があって、さらに上流の四ツ谷堰とともに仙台三堰とも呼ばれていたようです。愛宕堰は七郷、六郷の両堰を統合する形で仙台市が新たに造成した堰で、ここから七郷堀が流出し、その下流から六郷堀が分流しています。こうした堰があって船着き場としても供されていたことから、この地域は堰場(どうば)と呼ばれるようになりました。

広瀬川中州

広瀬川の中州(現存せず)
(若林区堰場、2009.12.12撮影)
南材木町

旧奥州街道・南材木町(右端はツインタワー広瀬川春圃)
(若林区南材木町、2009.12.12撮影)
旧奥州街道

旧奥州街道・クランク部分
(若林区南材木町、2009.12.12撮影)
都市計画道路宮沢根白石線

都市計画道路宮沢根白石線の予定地
(若林区南鍛冶町、2009.12.12撮影)

 宮沢橋と愛宕橋の間には、広瀬川の中でも有数の規模の中州があり、その河畔林は多くの動植物を養っており、身近に野鳥に接することのできる場所として知られていました。この付近は上述のとおり中流域から下流域への転換点に位置するという地勢上の要因から土砂の堆積が進みやすい場所です。2009年12月の訪問時にも葉を落とした森のような中州があって、大年寺山の緑と重なって見える様子を確認しました。現在、洪水抑止といった河川管理上の理由から中州は完全に撤去されて、河畔林の規模は大幅に縮小しています。中州の除去工事は訪問後間もなく開始されいたようで、私は本当に中州の最晩年を観た格好となったようでした。

 広瀬川の河川敷を歩いた後は七郷堀に沿って河原町に戻り、先にお話しした旧奥州街道筋を通って光のページェントが開催されている中心市街地方面へと戻りました。一部に昔ながらの土蔵が残ったり、南鍛冶町と穀町の間にはクランクがあったりと、城下町時代から続く町並みの雰囲気に浸れる地域となっています。こうした場所にあっても、旧街道のすぐ西を、都市計画道路宮沢根白石線が南北に貫通する予定となっており、家屋の移転が順次進んでいる様子が見て取れました。道路完成の折にはどのような変化が起こっていることになるのでしょうか。旧街道を歩く道のりは、沿線の穏やかな風情を噛みしめながらも、あすと長町といった大規模な開発のみならず、こうしたまちの変化も注視していければと感じさせる道程ともなりました。


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