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シリーズ・クローズアップ仙台

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#29 愛子界隈 〜広瀬川を見下ろす段丘と盆地〜


 東北地方を縦貫する大幹線・東北自動車道に、「仙台宮城インターチェンジ」があります。青葉山をトンネルで抜ける「仙台西道路」を経由すれば仙台市街地に最もアクセスの良いインターチェンジとして多くの利用があります。そのインターチェンジ名にある「宮城」は何だろうかと疑問に思われた方も多いのではないでしょうか。1つ南にある仙台南インターとの区別のためであるとしても、単に「仙台」等でもよいわけですから。種を明かしてしまいますと、この「宮城」は県名を指すものではありません。1975年11月の高速道路の供用開始時に実在した「宮城郡宮城町」の「宮城」からきています。インターチェンジが当時の仙台市と宮城町との境界付近にあったために、両市町の名前をとって、仙台宮城インターチェンジとなったというわけです。この旧宮城町は1987年11月仙台市に編入され、政令市移行後は、仙台市中心部を占める青葉区の西半分となって現在に至ります。役場は青葉区役所宮城総合支所となり、旧宮城町の区域をその管内に置いています。支所管内の人口は約6万3千人。仙台市編入時(約3万人)と比して2倍以上となっています。仙台西道路により仙台都心と直結し、仙台の北環状道路や愛子バイパス、県南への幹線道路である県道仙台村田線なども接続することから、現在の仙台市内においては最も交通環境の変化が大きかった地域の1つであるといえるでしょう。今回はこのような変貌を見た宮城地区の中心的な位置を占めてきた、愛子エリアをご紹介したいと思います。朝より小雨が降っていて地面が軽く濡れる中、愛子バイパスに程近い宮城総合支所に車を置いて、散策をスタートさせました。

宮城総合支所

青葉区役所宮城総合支所
(青葉区下愛子、2006.4.16撮影)

愛子バイパス

国道48号愛子バイパス
(青葉区上愛子、2006.4.16撮影)
愛子駅前

JR愛子駅前
(青葉区愛子中央六丁目、2006.4.16撮影)
JR愛子駅

JR愛子駅
(青葉区愛子中央六丁目、2006.4.16撮影)

 広瀬川は冒頭に紹介した仙台宮城インターチェンジ付近を過ぎ青葉山丘陵の北側で河谷が狭隘部を形成します。これより上流、奥羽山脈が迫る白沢地区までの間の地域には広瀬川によって形成された河岸段丘が数段にわたり展開します。川の北側、芋沢地区には比較的明瞭な段丘崖が発達する一方、川南の愛子地域は緩やかな盆地状の地形となっていまして、この一帯が愛子地域の主部となります。段丘の中央部であり、広瀬川の河床より高い位置にある愛子盆地は水が得にくく、集落や農地などが発達しにくい地勢であった愛子の地に、本格的に町場が形成されるのは江戸期に入ってからであったようです。山形方面への街道(作並街道、あるいは関山街道とも)が整備され、その宿駅として現在の愛子の市街地が位置づけられたことによるものです。この街道筋は現在の国道48号線の基礎となりました。

 総合支所の周辺は、水田など農地が主な土地利用となっている一方で、北に向かうにつれて住宅地域の密度が高まって、この地域における市街化の進捗具合がどのようなものであったかを彷彿とさせます。近年になって愛子駅の周辺地区の一部に住居表示が実施され、「愛子中央」「愛子東」なる新町名も出現しているようです。旧街道筋、現在は国道457号線の一部となっている区間を越えてJR愛子駅方面に進みますと、小規模ながらもマンション風の建物が立地しておりまして、仙台西部の拠点的な駅としてここ数年の間に利用者が急増したという愛子駅のいまを象徴しているかのようです。ロータリー中央には大きな枝垂桜の木が植えられていまして、開花へ向かう季節、早春の慈雨に幹を浸す桜樹は、たいへん穏やかな表情をしていたように思います。愛子という地名の読み方について、ここまで敢えて記しておりませんでした。愛子は「あやし」と読みます。JRの駅名でもあることからか、しばしば難読の地名として紹介されるようです。この少々風変わりとも思われる地名の由来について、駅前に設置されていた表示板の記述を引用することによってご紹介いたします。

 『愛子の由来』
 愛子(あやし)というこの地名の由来につき『安永風土記書出』には「当時横町と申す所に相立ち申し候子愛観音之有り候を以つて当村の名に申し来り候由御座候」とある。
 愛子の地名はこの「子愛観音」から起こったといわれているが、今も下愛子横町旧捕陀寺境内に子愛観音堂があって、子安観音(子安地蔵)が祀られている。
(中略)
 この子愛(こあやし)観音様の名勝から「あやし」の語を「愛子」の文字に入れ替えて「あやし」と読むようになったものと見られている。

 この表示は宮城町誌より愛子の地名に関する部分を抜粋して作成されたもののようです。地名の由来に関しては明確な典拠がある場合を除き通常は断定を避け、有力な説のほかに提唱された複数の説を織り交ぜて推量するという形をとります。この「愛子」という地名についても他にいろいろな説が唱えられているようです。しかしながら、この愛子の場合は、実際に史実のとおり子愛観音堂が地域に根付いており、こどもを愛し健やかな成長を祈る心と、山のあわいのたおやかな景観とが実に調和しているようにも思われます。街道筋はモータリゼーションの時代となり通過する車両の多い現代の道路となって、商業地域というよりは農村地域における住宅街の中に商店が粗放的に点在するエリアとしたほうが的を射ているのかもしれないような景観となっていました。しかしながら、そのような状況下にあってもコンクリートのブロックを格子状のファサードとしてアレンジしている住宅など、どこか奥ゆかしい雰囲気を感じさせる事物もまた存在していました。愛子の地名の由来として紹介されていた子愛観音は、現代の住宅地の中にひっそりとした佇まいを見せていました。

R457

旧作並街道(国道457号線)沿いの景観
(青葉区愛子東六丁目付近、2006.4.16撮影)

子愛観音堂

子愛観音堂
(青葉区下愛子、2006.4.16撮影)

広瀬川

広瀬川・開成橋より西方向
(青葉区愛子中央二丁目、2006.4.16撮影)
愛子の家並み

開成橋より愛子の家並みを眺める
(青葉区愛子中央二丁目、2006.4.16撮影)

 愛子を歩くあたり広瀬川の流れも確認してみたい気持ちになり、国道を北に折れて、仙山線をわたり、広瀬中学校の横を通過して、川の方向へと進みました。現在では1日の利用者が3000人を越えるまでになっているという愛子駅へは、線路に沿って歩道がつけられており、この日も日曜日ながら比較的多くの人々が駅へ向かうべくその歩道へと進んでいたのが印象的でした。広瀬川を越えるのは、開成橋。川南の旧広瀬村と、川北の旧大沢村とが合併し、所属する郡の名前を採用した「宮城村」が発足した(1955年)同じ年に完成した橋であるそうです。ともに開かれた地域づくりを行おうという願いをこめて開成橋と命名されたこの橋は、これより北の段丘上に新規造成された赤坂団地へのルートとして新しい橋に架け替えられていました。橋から眺める広瀬川の流れは、折からの雨を受けて幾分速いように思われました。橋をわたった道路は川に沿った段丘崖を勢いよく駆け上がっています。その坂の反対側、愛子方面に目を転じますと、間近にまで、連続した住宅の屋根が迫っていまして、愛子のいまを実感させます。川の形づくる渓谷のような地形は、仙台の中心街近傍において見られるそれと同じようなたおやかさを秘めているようにも思われました。総合支所に戻る道すがら、広瀬中学校の校門付近に植えられていたソメイヨシノの花は桜色のつぼみに溢れて、今にも咲き出しそうでした。


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