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シリーズ・クローズアップ仙台

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#114 仙台市中心部の諸地域を巡る(4) ~旧奥州街道を北へ、新旧の町並み~

 2019年12月18日、朝から仙台市街地を縦横に歩いて、現在は本町の一部となっている元寺小路の通りへと達していた私は、東二番丁から定禅寺通へと進んで、午後三時を過ぎて徐々に夕闇の迫るケヤキ並木の下へと戻ってきました。冬の恒例イベントであるSENDAI光のページェントの点灯は午後5時30分までの時間は、国分町通を北へ延長した旧奥州街道を辿ることとしました。近年の仙台市中心部では都心回帰の傾向が継続しているようで、定禅寺通と国分町通の交差点付近にも、数棟の超高層マンションが完成していまして、中低層の商業系や飲食店の入るビルが建ち並ぶ町並みのスカイラインにアクセントを与えていました。

愛宕上杉通

愛宕上杉通、元寺小路の入口
(青葉区本町二丁目、2019.12.18撮影)
元寺小路

元寺小路の景観
(青葉区本町丁目、2019.12.18撮影)
定禅寺通

定禅寺通のプロムナード
(青葉区国分町三丁目、2019.12.18撮影)
高層マンションの建つ

国分町、高層マンションが建つ
(青葉区国分町三丁目、2019.12.18撮影)
二日町の景観

二日町の景観
(青葉区二日町、2019.12.18撮影)
柿の木のある風景

柿の木のある風景
(青葉区二日町、2019.12.18撮影)

 旧奥州街道は芭蕉の辻からまっすぐ北へ、北山の丘陵に突き当たって堤町へと折れるまで続いていきます。青葉神社の下まで至ることから、現在は北四番丁(国道48号)以北は「青葉神社通り」の愛称が与えられています。藩政時代の街道筋は町人町となっており、国分町から北へ、二日町、北鍛冶町、通町と続いていました。東西方向に直交する通りは、仙台城下町の北方への拡幅とともに順次割り出されたもので、「北○番丁(○には南から北へ、一から九までの数字が入る)」の名称で統一されています。仙台市役所北の通りは北一番丁で、国分町通を北へ歩きますと、現在でもこれらの通りが東西方向の主要な通りとして息づいていることを確認することができます。二日町は、その名のとおり二のつく日に定期市が立ったことに由来する町で、住所地名として、また「二日町北四番丁」のバス停名としても現存します。柿の木が残る古い家が、かつての町の縁を感じさせていたのが印象的でした。

 国道48号の大通りとなっている北四番丁は、八幡町へと続く市電を通すために拡張されたことがその礎になっています。八幡町を経て作並方面へと抜ける要路として、交通量の多い道路なっています。地図を見ますと、八幡町の通りと直線的につながるのは北四番丁ではなく、そのひとつ南の北三番丁であることが見て取れます。これは土橋通り(柏木二丁目と八幡二丁目の境界の北西~南東方向の道)の西に広瀬川へ深く切れ込む沢(巴谷ともへくり沢とも呼ばれます)があって、その上を埋め立てた切通が北三番丁の延長上に位置したためです。市電通りが北四番丁となったため、北四番丁の延長上からも八幡町方向へ谷の埋め立てが行われ、今日の形となったものです。こうした経緯からも、仙台市街地が河岸段丘上の段差の多い土地に形成されてきたことを窺い知ることができます。

北四番丁

北四番丁(国道48号)景観
(青葉区二日町、2019.12.18撮影)
北六番丁

北六番丁、東方向を望む
(青葉区柏木一丁目、2019.12.18撮影)
北七番丁付近

北七番丁付近で見つけた御屋敷

(青葉区柏木一丁目、2019.12.18撮影)
北鍛冶町

北鍛冶町の景観
(青葉区柏木一丁目、2019.12.18撮影)
通町

通町の風景
(青葉区通町二丁目、2019.12.18撮影)
青葉神社

青葉神社
(青葉区青葉町、2019.12.18撮影)

 北四番丁以北が、道路愛称名上の「青葉神社通り」に該当する区間となります。北五番丁、北六番丁と北へ進むにつれて徐々に建物の高さは低くなって、高層建築の多い県道22号(勾当台通の延長上の区間)との間で好対照を見せる格好となります。現在の仙台市街地の開発に多大な影響を及ぼした第二次世界大戦中の仙台空襲における焼失範囲は、概ね北六番丁付近までであったようで、旧北鍛冶町の範囲であるこの付近からは、新しい建物に混じって、土蔵や町屋造の建物が認められるようになって、職人が集まる町から成長した地域の歴史を感じさせるようになっていきます。そして、いったん奥州街道筋を逸れて、東西の通りに入りますと、昔ながらの門構えが残る屋敷が残されているのを見つけることができました。北番丁はその名が示すとおり、武士の町で、城から離れるにつれて下級の武士が居住していたとされているようです。そうした屋敷は、閑静な住宅地となったこの地区が、かつては武家地であったことを実感させる貴重な事物であるのではないかと思われました。

 西から接続する北山町の通りの辺りまで来ますと、住居表示にも残る通町のエリアとなります。この通町の地名は、「町」の文字を使いながらも、歴史的に「ちょう」と読んできた、仙台市街地における地名の命名ルールからは外れる命名となっています。通町とは、元来は仙台城下町を南北に貫く奥州街道全体を指していたものが、南から国分町をはじめとした町が整備されるにあたり、最後まで残った部分がそう呼ばれ定着したものであるのだそうです。城下町の北縁における交通の要衝でもあった通町には、職人や足軽が配置され、守りを固めていたと言われています。丘陵上に境内地を持つ青葉神社は、1874(明治7)年に藩祖伊達政宗を祭神として造営されました。城下町北西の丘陵は北山と呼ばれ、「北山五山」と呼ばれる寺院が建ち並ぶ、穏やかなエリアです。市中心部へと直結する奥州街道にあり、こうした寺社の門前でもある通町は、それらの門前町としても栄えました。

青葉神社下

青葉神社下から通町を望む
(青葉区青葉町、2019.12.18撮影)
大学病院付近

都市計画道路北四番丁大衡線、大学病院付近
(青葉区木町通二丁目、2019.12.18撮影)
木町通

昔ながらの町並みが残る木町通
(青葉区春日町、2019.12.18撮影)
広瀬川の夕景

片平丁から望む広瀬川の夕景
(青葉区米ヶ袋一丁目、2019.12.18撮影)
光のページェント

SENDAI光のページェント
(青葉区国分町三丁目、2019.12.18撮影)
光のページェント

ビルのガラスに映るページェント
(青葉区国分町三丁目、2019.12.18撮影)

 青葉神社からの帰路は、都市計画道路北四番丁大衡線として一大幹線道路として生まれ変わった木町通を南へ辿りました。私が学生時代だった1990年代後半までは、一方通行の細い通りであった木町通沿いは、昔ながらの家並みが残る景観を残していましたが、現在は北四番丁まで近代的な道路となって、市北部への新たなアクセスルートとして、多くの車両が通過する道路となっています。北四番丁以南は再び片側一車線の細い道路となって、この日の午前中に歩いていた本材木町へと至ります。さらに大町以南の良覚院丁の部分を経て片平丁へと出て、夕日に染まる広瀬川と青葉山の風景や、有力藩士の宅地跡の石垣が残る片平丁の景観を概観して一番町を北上、SENDAI光のページェントの点灯時間前までに定禅寺通へと戻って、仙台市街地をめぐるこの日の活動を終えました。

 この年も温かい光に包まれた町並みを歩きながら、藩政期に形成された城下町をそのベースにしながら、幾多の苦難を経ながらも今日の都市基盤を発展させてきた、仙台市民の努力に思いをいたしました。


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