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シリーズ・クローズアップ仙台

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#112 仙台市中心部の諸地域を巡る(2) ~立町・大町、城下町時代の街路の今~

 西公園は、広瀬川左岸に沿って広がる、仙台市における最も歴史のある都市公園です。公園は河岸段丘を形成する崖状に位置しているため、園内から緑に覆われた広瀬川を望む風景はさながら渓谷を見下ろすような形となります。その眺望は仙台を初めて訪れる人にとって、新鮮な感覚を与えます。大橋に近いあたりは一段低い段丘面になっており、かつてはこの場所にも町並みが広がっていました。2階建ての仲の瀬橋の北側には学校などの施設が存在していた時期もありましたが、それらが移転した後は園地の一部となり現在に至ります。春は多くの市民が訪れる桜の名所としても知られます。

西公園

西公園の風景
(青葉区桜ケ岡公園、2019.12.18撮影)
桜岡大神宮

桜岡大神宮
(青葉区桜ケ岡公園、2019.12.18撮影)
肴町

肴町の風景
(青葉区大町二丁目、2019.12.18撮影)
肴町

肴町、西側は桜岡大神宮前へ続く
(青葉区大町二丁目、2019.12.18撮影)
広瀬通

広瀬通(旧立町)
(青葉区立町/大町二丁目、2019.12.18撮影)
西公園通

西公園通(立町交差点、旧元柳町)
(青葉区立町、2019.12.18撮影)

 大町交差点を東へ渡り、大町の通りに入ってすぐの市道を北へ入ります。西公園通り沿いを中心に中高層のマンションが建ち並ぶ中、街区は集合住宅や事業系のビルによって充填されており、人工的な建物と空き地の駐車場とが無機質に連続する景観が続きます。そうした建物に押さえ込まれるように、たくさんの実をつけた柿の木を見つけました。それは、かつてここが町人町として栄えた中心市街地であったことのわずかな痕跡であったのでしょうか。通っている市道は城下町時代のものではなく、第二次世界大戦後に施行された戦災復興事業によって新たに完成した道路で、仙台城下町時代の系譜を受け継ぐ道路は、交差点に信号機が設置されている街路にほぼ相当するようです。大町から北へ一筋入った、これに相当する道路は「肴町」です。肴町は、水産物などを商う特権を与えられていた町でしたが、現在では商業町で会った面影はなくなり、前出したような都市景観が卓越する町並みとなっています。町名も住居表示により「大町」の一部となり、国分町通に近い肴町公園などにわずかにその中を残すのみです。

 肴町に続く城下町の通りは、現在は広瀬通として幹線道路へと変貌している「立町」です。こちらも御譜代町のひとつとして、伊達氏に重用されてきた商人町でした。穀類の専売権を与えられていた町人の町は、仙台市街地を東西に貫き、仲の瀬橋を介して仙台西道路、そして東北道の仙台宮城インターチェンジへと続く大通りとなっています。仙台駅東口再開発によって、さらに市東部の幹線である都市計画道路元寺小路福室線へと連接することとなり、朝夕問わず多くの車両が通過するとともに、各地を結ぶ高速バスもたくさん通過する道路となっています。立町小学校に突き当たった小路から、立町交差点の歩道橋を経て広瀬通を北側へ渡り、晩翠通手前で信号機のある南北の通りへと進みます。この通りは「本材木町」で、大町から北へ、北山の覚範寺門前までを貫く通りでした。もともとは材木を扱う「材木町」と呼ばれる町人町でしたが(材木町は御譜代町ではありません)、後につくられた南材木町(若林区)と北材木町(定禅寺通以北)で木材を取り扱うこととなったため、かつての材木町ということで「本材木町」と呼ばれるようになった経緯があります。地図によっては「本材木丁」の表記も見えるので、武士の町へと移り変わったのでしょうか。時代を経ると単に「木町」と汎称されるようになっていたようで、この木町に通ずる通りということで、北材木町よりもさらに北の部分は「木町通」と呼ばれるようになって、それは現在の町名に息づいています。



本材木町の景観
(青葉区立町、2019.12.18撮影)
元櫓丁

元(本)櫓丁、市内にはこうした辻標をしばしば見かけます
(青葉区立町、2019.12.18撮影)
本材木町

本材木町、個人住宅とマンションがある風景

(青葉区立町、2019.12.18撮影)
元鍛冶丁

元鍛治丁、最近設置された通り名の表示
(青葉区立町、2019.12.18撮影)

 この町の移転に伴い、かつてのその町の所在地を「本」や「元」を冠して呼ぶ習慣は仙台城下町では一般的に行われています。前項でご紹介した「元柳町」もそれで、御譜代町のひとつであった柳町は、現在の一番町一丁目に名を残す「柳町通」沿いに移されていまして、かつての柳町の位置がそう呼ばれたという変遷を経ています。旧奥州街道沿いの要所に移転したのはこの柳町の他に荒町(若林区)も同様で、国分町通のひとつ西側、広瀬通から南へ伸びる通りが「本荒町」となります。もうひとつの御譜代町である南町を加えて、当初は仙台城に近い場所に集中していた御譜代町ですが、城下町が次第に整備されるにつれて、一部の町が南北のメインルートであった旧奥州街道沿いに戦略的に移され、その跡地に武士の町が配された経緯が見て取れます。大町と旧奥州街道(国分町通)との交点が「芭蕉の辻」で、仙台城下町の中心であったことは何度も指摘していますが、芭蕉の辻から北の奥州街道が堤町に至るまで一直線であるのに対し、南側は南町、柳町、北目町、上染師町そして荒町と、クランクの連続となっていることは興味深い事象です。

 本材木町を北へ辿りつつ、旧城下町の東西の通りの探索を続けます。広瀬通となってる立町の北には、現在の定禅寺通となっている定禅寺通櫓丁との間に、南から元(本)櫓丁、元鍛治丁の通りが続きます。いずれも「元」が頭に付けられていますので、これらの町も移転による改名を経験しているということになります。櫓丁は火の見櫓があったことに因む命名で、その移転先は定禅寺通櫓丁、そして鍛冶職人の町であった鍛冶町は、材木町と同様、旧奥州街道沿いの城下町縁辺に、北と南に分かれて再置されました。北鍛冶町は現在の木町通二丁目付近で、南鍛冶町は南材木町の北に現存します。元鍛治丁の通りを東へ進み、かつては「細横丁」と呼ばれる狭隘な道路であった晩翠通を横断し、国分町通を通過して一番町方面へと歩を進めました。東北地方最大の歓楽街を形成する国分町は、その表記のとおり町人町であったことから、本来の呼び方は「こくぶんまち」でした。仙台有数の繁華街である一番町のかつての名称は「東一番丁」で、こちらは武士の町でした。仙台が東北地方の中核都市として発展する中で、国分町と一番町は大きく町としての姿を変えてきましたが、現在の仙台市の中心的な商業地の一つである東一番丁が「丁」の表記を「町」に変えつつも、読み方が「まち」とならず「ちょう」のままであることは、仙台における伝統的な「町(まち):町人町」と「丁(ちょう):武家地」の使い分けのにおいをかすかに感じさせるような気がいたします。


元鍛冶丁公園

元鍛冶丁公園
(青葉区国分町二丁目、2019.12.18撮影)
元鍛冶丁

元鍛冶丁の風景
(青葉区立町、2019.12.18撮影)
国分町

国分町の歓楽街
(青葉区国分町二丁目、2019.12.18撮影)
稲荷小路

稲荷小路の風景
(青葉区国分町三丁目/一番丁四丁目、2019.12.18撮影)

 一番町に達する頃までには、時刻は正午を回っていましたので、飲食店の多いこのエリアで一旦小休止し、現代の仙台の趨勢を実感しました。仙台市街地の中心たる一番町や国分町あたりをめぐっていては見落としがちなのですが、西公園と一番町に挟まれたこのエリアが、仙台城下町において一番最初に建設された来歴を持つ場所です。戦災による被災や、一番町や国分町の勃興、そして過密による流通機能の郊外移転などを経て、この地域は市街地に近接した、中小のオフィスビルや駐車場、マンションなどが立地する、エリアへと移り変わりましたが、そうした都市の拡大に伴う土地利用の変化が、藩政期における「○○町」と「元○○町」の対応として、既に起こっていたことは、どこか現在のこの地域を暗喩しているようにも感じられたのでした。


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