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#18 太田市九合地区の風景 ~東西を基軸に変容した地域~

 2018年11月18日、地元太田市の諸地域を訪ねる構想を実行に移すべく、太田市南東部に位置する九合(くあい)地区を歩くこととしました。九合とは、その字面が示すとおり、1889(明治22)年の町村制施行(この時に現在に続く市町村の枠組みが完成しています。現在の市町村でこれより古いものは存在しません)の際に、飯塚村、東矢島村、西矢島村、新井村、飯田村、東別所村、内ヶ島村、小舞木村、新島村の「9つ」の村が合併したことに因む名称です。その後、1940(昭和15)年に当時の沢野村、韮川村とともに太田町と合併し、太田町の一部となりました。現在の太田市が市になったのは1948(昭和23)年になってからのことです。戦前期の合併の背景には、中島飛行機(現在のSUBARUの前身)の成長に伴う都市基盤整備という事情が存在していたのですが、本稿ではその詳細を記載することは本旨ではないので割愛します。ここでは、そうした軍需産業が勃興した一田舎町と、その近在の農村部が存在していたという事実だけ念頭に置き、お読みいただけますと幸いです。

国道407号

国道407号(ドン・キホーテ前)
(太田市飯田町、2018.11.18撮影)
南一番街

南一番街
(太田市飯田町、2018.11.18撮影)
保健センター南

保健センター南の水田
(太田市飯田町、2018.11.18撮影)
霊雲寺

霊雲寺
(太田市飯田町、2018.11.18撮影)


県道323号(鳥山竜舞線)の風景
(太田市飯塚町、2018.11.18撮影)
飯塚町、中心を通る東西の道

飯塚町、中心を通る東西の道
(太田市飯塚町、2018.11.18撮影)

 現在の太田駅の南側は、飯田町の範域となります。先にお示しした九合村(現在の「九合地区」)の一角となるわけで、高度経済成長期に実施された、大規模な区画聖地事業の前は、太田駅の南口一帯は、水田が大きく展開する農村地域でありました。明治期の地勢図を見ますと、現在は東本町十字路から南へ続く幹線道路である国道407号にあたる道は無く、というよりは正確に言いますと無かったわけではないのですが、現在の直線的なルートとはなっておらず、ドン・キホーテ横から南南東へ、国道に並走する道がかつての熊谷への道路を踏襲した道であるようです。そのルートを南下しますと、駅南口の一部や霊雲寺から保健センター南にかけてなど、商業系の建物に交じって個人住宅が多いことに気づきます。このあたりがかつての飯田地区の中心集落であった場所で、その他のエリアは水田が広がる場所でした。

 南一番街と呼ばれる繁華街(歓楽街)を周辺の都市化したエリアを過ぎ、ブックオフのある交差点から東へ入る道筋へと進みました。城山病院の北を通り、JA太田九合の北を通る道路は、明治期の地製図にも描かれている古い道路のようで、同地図にもこの東西の道路に沿って飯塚村の村落が続いていた様子が描かれています。この飯塚町の中心集落から南は、東中学校の西側、太田駅南口からまっすぐ伸びる道路を南へ進みましたが、その西側一帯はかつては広大な水田地帯が広がっていました。東側の市民会館やショッピングモールの位置している一体も最近まで動揺に水田が広がっていた場所でありました。ラフィエット通りと呼ばれる産業道路を西へ進み、西矢島交差点より国道407号へと入り、ひとつ南の信号のある交差点で直行する東西道路もまた、西矢島及び東矢島の伝統的な集落が存立していた道路となります。その道路を東へと向かいますと、東別所町の付近へとつながっていきます。つまり、九合地区の中心部を概観しますと、東西につらなる道路に沿って集落が発達し、その間の土地は主に水田として利用されてきたと結論付けることができるわけです。

飯塚町の水田

飯塚町に残る水田
(太田市飯塚町、2018.11.18撮影)
太田市民会館

太田市民会館
(太田市飯塚町、2018.11.18撮影)


国道407号
(太田市西矢島町、2018.11.18撮影)
東矢島町

東矢島町の古い道筋
(太田市東矢島町、2018.11.18撮影)
東別所町

東別所町の風景
(太田市東別所町、2018.11.18撮影)
SUBARU工場付近

SUBARUの工場付近の風景
(太田市朝日町、2018.11.18撮影)

 東別所町まで到達した後は、SUBARUの大泉工場の敷地の南を通過するラフィエット通りへと出て、太田市運動公園の東を通過しながら、小舞木町方面へと進みました。SUBARUの工場は、かつての中島飛行機の飛行場を受け継いだもので、前述した軍需産業とともに急速に変化した地域の実情を最も濃厚に刻んだ地域の一つであったように思います。畑地とが卓越する小舞木町の集落内を概観した後は、九合小学校の西側へと進み、九合尋常小学校時代の門柱が残る場所を一瞥しながら、地域を歩きました。九合小学校の南の「鉄塔通り」を挟んだ南側には長柄神社が佇み、その南に隣接した場所にかつての九合村役場がありました。太田市となった後もしばらくここに市の連絡所(行政センター)が立地していましたが、現在は別の場所に移転しています。

 小舞木町交差点の北あたりから北西に入り、そのまま県道に並走しながら太田駅前まで続く道路をたどって、駅前まで戻りました。この道路も、この一帯が土地区画整理により市街化される前から存在してきたローカルな道路を基礎としているようであることが、明治期の地製図より判読できます。ルートの細かい部分は直線化されるなどの変化はありますが、新島町の鎮守である江文神社も公園に隣接して鎮座していまして、住宅地として大きくその景観を変化させながらも、その社殿はこの地域の往時の姿を物語っているように感じられました。駅に近づくにつれて商店や雑居ビル、ホテルなどの建物が多くなって、田園風景が広がっていた、高度経済成長期以前のよすがを残す事物はほぼ皆無といってよい風景へと遷移していきました。

小舞木町

小舞木町の風景
(太田市小舞木町、2018.11.18撮影)
長良神社

長良神社
(太田市飯塚町、2018.11.18撮影)
九合村役場跡

九合村役場跡
(太田市飯塚町、2018.11.18撮影)
公園通りと旧道の交差点

公園通りと旧道の交差点
(太田市小舞木町、2018.11.18撮影)
環状線の風景

環状線の風景
(太田市小舞木町、2018.11.18撮影)
江文神社

江文神社
(太田市新島町、2018.11.18撮影)

 以上、九合地区の主部を徒歩にて概観しましたが、太田駅南口やSUBARUの工場を中心として大きく市街化あるいは大きく土地の風景を変化してきた背景が、このエリアの一般的なすがたであるといえると思われます、しかし、地域を歩く中で印象付けられたことは、この地域が今も昔も「東西軸」を基本として地域を変容させてきたと思われることです。飯塚町や東西の矢島地区などが乗る東西に帯状にのびる交通路は、おそらく利根川が形成した自然堤防や砂丘による微高地に沿ったもので、その微高地の間の低地が水田として利用されてきたのではないかと推察しています。また、現在でも複数の環状線が地域を東西に通過し、多くの交通量を流しています。地区内の多くが高度経済成長期を経て市街化を経験しましたが、そんな中でも地形的な特質に規定された道路網・集落構成もまた残されていまして、地域の発達史を伝えているかのようでした。


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