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そして、近江路へ・・・


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#6 草津市内、旧東海道を行く 〜穏やかな町屋と宿場町の風景〜

 JR南草津駅は、一日平均2万人の利用客のある一大ターミナルとして目覚ましい発展を遂げています。草津市による南部副都心構想により土地区画整理が進捗し、立命館大学のキャンパス誘致(1994;平成6年)もあいまって一気に開発が進み、現在では新快速も停車する拠点駅へと成長しました。駅の周辺には複合商業施設(フェリエ草津)をはじめとした商業機能も集積し始めていまして、高層住宅も林立する都心近郊の住宅都市としての側面も際立ってきているようでした。草津市のフィールドワークは、この南草津駅から歩き始めます。駅の東方を鉄路と並走する国道1号方面へ向かい、その前身である旧東海道筋をたどりながら、交通の要衝として発達してきた地域の姿を跡付けていきます。

南草津駅

JR南草津駅
(草津市野路一丁目、2008.11.22撮影)
野路の玉川

「野路の玉川」旧跡
(草津市野路四丁目、2008.11.22撮影)
野路の街並み

野路の街並み
(草津市野路七丁目付近、2008.11.22撮影)
新宮神社

新宮神社
(草津市野路六丁目、2008.11.22撮影)

 ロードサイド型の店舗が点在する典型的な都市郊外の姿を映す国道1号を南田山交差点まで進み、交差点から県道を南進しますと、程なくして「萩の玉川遺跡」へと行き当たります。地元町内会による看板が国道と県道にそれぞれ設置されていますので迷わず到達することができました。野路とは、このあたりの地名です。野路は交通の要衝として古くから存在してきた地名であるようで、平安時代末期以降、「平家物語」等多くの叙述にその名を見ることができるようです。萩の玉川は、野路の地にあった萩の花の美しい小川で、歌枕としても知られる名勝でした(「日本六玉川のひとつ」とされるとのことです)。現在は地元野路町内会の手による、小川を模した池が配された小公園が整備されておりまして、季節には萩がしなやかに咲き誇るとのことです。

 公園前の小路が、かつての東海道の道筋にあたります。国道から一歩入った野路の集落は、街道沿いに所々に昔ながらの町屋風の家並が連続して、歴史の古い土地であることを彷彿とさせます。現在の草津市街地が東海道と中山道の分岐点として頭角を現すまでは、この野路も一定の拠点性を有する町場であったといいます。適度に生垣や石壁、庭木などが配された景観は本当にたおやかで、趣のある風景が当たり前のように展開していきます。集落の背後に広がる田畑の景色も実にすがすがしく感じられます。当地に鎮座する新宮神社本殿は国指定の重要文化財です。創建は1523(大永3)年とされる鎮守は、地域を見守るようにそこにありました。



国道1号沿いの景観(矢倉南交差点、左は旧東海道)
(草津市矢倉二丁目、2008.11.22撮影)
矢倉付近

畑の見える景観
(草津市矢倉二丁目付近、2008.11.22撮影)
矢倉

矢倉の街並み
(草津市矢倉二丁目付近、2008.11.22撮影)
矢倉道標

瓢泉堂前・矢倉道標
(草津市矢倉二丁目、2008.11.22撮影)

 野路町交差点から矢倉南交差点にかけての国道1号で若干寸断された形になりながら旧東海道は北へ進んできます。矢倉集落の街並みも野路同様に町屋造りの家々が連続していまして、伝統のある豊かな町場の姿を今に伝えていました。集落にあるひょうたんを売る「瓢泉堂」は、かつて草津宿名物「姥ヶ餅」を出す店のあった場所で、安藤広重の「東海道五十三次」における「草津宿」で描かれた場所であるそうです。

 店の近くにある「矢倉道標」は、琵琶湖岸の矢橋(やばせ)への分岐点を示したものです。近江八景の「矢橋帰帆」で知られるこの地からは、東海道をショートカットする大津への船便(矢橋の渡し)が発着していました。草津から大津へはこの航路のほか、東海道をそのまま陸路で進み、瀬田の唐橋へと進むルートがありました。矢橋の渡しは大幅に距離を短絡できるものの、比良山系からの吹き下ろしの風によりしばしば危険を伴う行程であったようで、街道を瀬田の唐橋へ進んだほうが多少道のりはあっても安全というケースも少なくなかったようです。室町時代後期の連歌師宗長(そうちょう)は「武士(もののふ)の 矢橋の舟は早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋」と詠みました。この歌は両ルートにおける上記状況を詠ったもので、ことわざの「急がば回れ」の語源ともなっています。

本四商店街

本四(ほんし)商店街
(草津市草津三丁目、2008.11.22撮影)
本陣商店街

草津宿・本陣商店街の景観
(草津市草津二丁目付近、2008.11.22撮影)
草津宿本陣

草津宿本陣
(草津市草津一丁目、2008.11.22撮影)
追分

草津宿・追分(左は中山道、右は東海道)
(草津市草津一丁目、2008.11.22撮影)


 天井川となって市街地を流下していた草津川の治水対策のため、新たに掘削された現在の草津川の流れを越えて歩を進めていきます。草津宿の京側の入口である宮町と矢倉村との境に建てられていたという黒門跡の説明表示を一瞥しながら、滋賀県内最古の石造道標(かつては草津宿の東海道と中山道の分岐点に建てられていたと推定される(1860[延宝8]年建立))のある立木神社の杜が見えてきますと、草津宿も目の前です。立木神社東の旧東海道は、草津宿の部分とはなめらかなカーブを描いていまして、入口から町を見通すことができないようになっています(遠見遮断と呼ばれます)。

 街道筋は宿場町を基礎にした昔ながらの町場が形成され、平入りの切妻造、二階建てで庇を伸ばす町屋を基本とした古い建物が立ち並んでいます。虫籠窓を擁する町屋や土蔵なども、現代の建築物に混じって散見され、歴史ある宿場町の伝統を感じさせます。アーケードのある本四商店街を過ぎ、再び青空が見える本陣商店街に入ります。彼方には天上川であった旧草津川の土手に植えられた木の緑がかすかに目に入ります。この土手の手前で東海道は東に分岐し、直進方向は中山道となります。この一帯は交通の要衝たる草津宿のまさに中枢たる地域となります。

北中商店街

北中商店街(旧中山道沿い)
(草津市大路一丁目、2008.11.22撮影)
草津駅

JR草津駅
(草津市渋川一丁目、2008.11.22撮影)
草津宿の家並み

草津宿の家並み(旧草津川土手上より)
(草津市草津一丁目、2008.11.22撮影)
草津宿

草津宿・旧東海道俯瞰(旧草津川土手上より)
(草津市草津一丁目、2008.11.22撮影)

 草津宿は道幅5〜6メートルほどの街路にそって伸びやかに展開していて、多くの人々が町歩きを楽しんでいました。東海道五十三次の江戸から52番目の宿場町であった草津宿は、1843(天保14)年の記録では、本陣2、脇本陣2、旅籠72の集積を誇る賑わいのある宿場町でした。中山道の分岐点近くにある国指定史跡・草津宿本陣は本陣の一つ田中七左衛門本陣の遺構で、草津宿のシンボルとして堂々たる威容を見せています。建物前に設置された説明板によりますと、のべ4726平方メートルの敷地内には、1706平方メートルの書院造の主屋に、表門や御除門、敷台付き玄関に庭園を擁して、本陣としての一般的な型式を備えていました。39を数える部屋数は、本陣としては最大規模。建物のほかにも貴重な調度品をはじめ、関札(せきふだ、大名や公家が宿泊しているときに掲げた標識)や大福帳(だいふくちょう;宿帳のこと)などの重要な歴史的史料も豊富に所蔵されています。

 街道の分岐点に建つ道標を確認し、1886(明治19)年に完成した草津川トンネルを越え旧中山道方面は、JR草津駅周辺の現代的な市街地が展開するエリアへとなります。トンネル脇の石段から旧草津川の土手に登り、目の前に広がる草津宿の街並みは、どこまでものびやかに広がって、彼方のたおやかな山並みへとつながっていきます。京阪神大都市圏の拡大に伴い、草津駅や南草津駅を中心とした都市化の著しい地域にあって、古来から近世を経て蓄積されてきた文化遺産もふんだんに散りばめられている姿は、交通の要衝として拠点性を維持してきた、地域の底力を如実に示していました。まさに現代と過去とが見事に交錯するドラスティックな景観の連続でした。

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