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奈良クルージング


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#1 ならまち散歩 〜奈良市街地の歴史を歩く〜

 今日の奈良は、奈良県の文化・行政の中心という位置づけ以上に、大阪市や京都市の強い影響を受ける、大都市圏内における大きな住宅都市のひとつとしての性格がより濃厚であるように思われます。域外から見る歴史と伝統のある古都というイメージとは裏腹に、中心市街地の郊外には多くの住宅団地が建設されていまして、地元の実感としては大阪を中心とした大都市圏のベッドタウンという立ち位置が、よりぴんとくるものなのかもしれません。前日山辺の道から今井町までのフィールドワークを終えて近鉄電車で奈良市内に入って投宿していた私も、大阪や京都を中心に再編成された交通網に現在の経済地理学的な奈良の実際を感じたわけでありました。その翌日、奈良市街地の一大ターミナルである近鉄奈良駅(地下駅)から地上へ出て、奈良市街地散策を始めました。

JR奈良駅

JR奈良駅・旧駅舎
(奈良市三条本町、2009.3.8撮影)
三条通

三条通
(奈良市三条町付近、2009.3.8撮影)
東向商店街

東向商店街
(奈良市橋本町、2009.3.8撮影)
もちいどのセンター街

もちいどのセンター街
(奈良市餅飯殿町、2009.3.8撮影)

 言うまでもなく、このまちの都市としての原点は、710(和銅3)年に遷都された平城京です。その広がりは東西約4.2キロメートル、南北約4.8キロメートルであり、そのうち天皇の住まいや役人が執務を行う官衙などが存在した大内裏に比定される区画が平城宮と呼ばれて、この広大な京域の北端の中央を占めていました。現在、その平城宮跡は国の史跡(世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の一つ)指定を受けています。近鉄奈良線がその敷地を横切っていることからも理解されるとおり、平城宮跡の位置は現在の奈良市の中心市街地から見ますと西に離れています。奈良の中心市街地は平城京の東半分(左京)が東に張り出した「外京」と呼ばれたエリアで、東大寺や興福寺、元興寺などの有力寺院が立地していました。長岡京遷都(784(延暦3)年)後は、こうした寺院を中心に町場が維持され、長岡京(後、平安京)に対し「南都」とも呼ばれていたようです。平城京そのものは時代とともに廃れ農地などの私有化が進みましたが、旧外京を中心とした地域は今日の奈良中心市街地の基礎として存続することとなりました。そんな昔ながらの奈良の面影を残す一帯はいま、「ならまち(奈良町)」と呼ばれ、脚光を浴びています。

 まず西へ進み、奈良市におけるJRの中心駅であるJR奈良駅へ。訪れた当時は、高架化工事の真っ最中で、工事の際当初は解体される予定であった旧駅舎が寺院風の和洋折衷様式の歴史的価値から曳家により移転され、無機質な工事現場の傍らに静かに佇む様子を確認しました。高架化は2010年3月に終了し、旧駅舎は市の観光案内所としてリニューアルされています。地下駅として中心市街地の只中に立地する近鉄奈良駅に比べ利用者数では劣るものの、町の玄関口としての風格はJRの奈良駅のほうにより備わっているようにも感じられますね。市街地の目抜き通りの一つである三条通りを東へ進みます。春日大社の一の鳥居につながるこの通りは、その名が示すとおり平城京の三条大路の面影を残す通りでもあります。通りの東の春日山が遠望されます。日本の主な都市の大通りには、ランドマークとなる山を軸として設計されているものが少なくなくて、そういった地域的にシンボライズされる山々の容姿を眺めることもまた、都市を歩く楽しみのひとつでもあります。

ならまち

ならまちの景観
(奈良市高御門町付近、2009.3.8撮影)
ならまち

ならまちの景観
(奈良市芝突抜町付近、2009.3.8撮影)
元興寺

元興寺・極楽坊本堂
(奈良市中院町、2009.3.8撮影)

元興寺

元興寺・極楽坊本堂
(奥の建物の瓦の一部が飛鳥時代のもの)
(奈良市中院町、2009.3.8撮影)

 中心市街地を進むにつれて、近鉄奈良駅に直結する東向商店街をはじめ、小西さくら通りやもちいどのセンター街などの商店街が集まる賑やかなエリアへと入っていきます。もちいどのセンター街のアーケードを進み、南に続く下御門商店街を歩いて、ならまちと呼ばれる一帯へと歩を進めます。アーケードの商店街から誘われる町並みは近世以降の町屋造りの面影が濃厚に残されていました。町屋の基本的なスタイルは平入りで、二階が土塗りの虫籠窓、庇を出した一階は部分的に出格子が付属するというもので、土壁の白と格子の木の色との調和で、街全体ががつつましやかな佇まいに包まれていました。

 そんなならまちの中央には国宝指定されるとともに、世界遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の一つでもある元興寺(極楽坊本堂)が存在しています。寄棟造の比較的簡素な構造のこのお堂は、律令時代は東大寺や興福寺などとともに平城京で南都七大寺の一つに数えられるほどの大寺であった元興寺の一部です。具体的には、元興寺の東室南階大坊(僧坊)の部分でして、寺自体は律令制崩壊後に衰退しましたが、この僧坊の堂宇はここを住房としていた智光法師に因む阿弥陀浄土変相図(智光曼荼羅)を本尊として改築され、信仰の場として存続することとなったものであるようです。建物そのものは1244(寛元2)年に改築された様式をとどめながらも内陣には奈良時代の建築当時の木材が残されているほか、屋根の一部には行基葺瓦と呼ばれる、当寺の前身である飛鳥寺(現:法興寺)から持ち込まれた飛鳥時代当時のものが現存しています。元興寺はこのお堂のほか、芝新屋町内にある元興寺境内の「元興寺五重塔跡」、西新屋町内の「元興寺小塔院跡」に往時の痕跡を残しています。「ならまち」全体は、かつての大寺・元興寺の旧境内にあたります。


興福寺

興福寺境内
(奈良市登大路町、2009.3.8撮影)
春日大社

春日大社
(奈良市春日野町、2009.3.8撮影)
東大寺大仏殿

東大寺大仏殿
(奈良市雑司町、2009.3.8撮影)
市街地俯瞰

東大寺二月堂から市街地を俯瞰
(奈良市雑司町、2009.3.8撮影)

 ならまちから北へ、猿沢池から興福寺境内へ至り、奈良公園内を春日大社、東大寺とめぐりながら、奈良市街地の概観を終えました。早春の若草山は萌え出るような春の訪れを前に、梅やスイセンなどの花々が早春のなめらかな青に向かって、やわらかに花弁を開いていました。石段を上り二月堂へ向かい、東大寺の甍や奈良公園の木々ごしに眺望する市街地は、彼方の生駒山系などのゆるやかな稜線とのあわいに、実にのびやかに展開していました。

 平城京の建設により都市として胎動を始めた奈良の街は、時代を超えた多くの変化を経ながらも、それぞれの時代の豊かなエッセンスをバランスよく残しながら、現代の都市として昇華させてきました。由緒のある寺院や神社などの歴史的資産のみならず、ならまちのような庶民の日常的な生活を映す昔ながらの街並みにも脚光が集まって、それらの維持やギャラリーや飲食店等への二次的転用が図られるなどの活性化が進みつつあるようです。今にこのような古い町屋が残された経緯を記録し普及することと併せ、さらなる都市的な魅力へと活かされることを心より望みたいと思います。

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