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関東の諸都市・地域を歩く


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#28 稲敷市から鹿嶋市へ向かう 〜茨城県南部地域をめぐる〜

 2006年10月15日、茨城県南部、稲敷市から鹿嶋市へ向かうルートを走りました。稲敷市は2005年3月22日に稲敷郡に属する江戸崎町、新利根町、桜川村、東町の4町村が合併して誕生した新しい市です。周辺地域は常磐線沿線や工業地域を抱える鹿島周辺で平成の大合併前から市制施行するエリアもあったものの、平成の大合併以降続々と合併による市町村の淘汰が進みまして、行方、神栖、鉾田など次々と新しい市が誕生しました。土浦市から阿見町にかけては道路の整備が進んでいて、郊外型の開放的な商業地・住宅地が展開します。やがて水田や雑木林の卓越する景観へと変化し、霞ヶ浦に向かって緩やかにたなびくような台地に、帯状に河川が流入するのびやかな風景が続いていきます。これまで佐原や潮来、銚子などへ出かける際にこのエリアを通ってきました。そのたびに、なんとすがすがしくて、なんと輝かしい大地なのだろうと思っていました。

 稲敷市の主邑、江戸崎の町を歩きます。霞ヶ浦へ注ぐ小野川のほとりに開けたこの町は、江戸期には水運で栄え、農村地域が展開するこの地域にあって、江戸崎はいち早く町場を形成してきました。稲敷郡エリアを管轄する多くの行政機関が集約されていることもその証左です。町場としての江戸崎の成立には、この地域を支配した土岐氏により江戸崎城が築かれたことが大きな画期となっているようです。江戸崎城の築城は、室町時代初期の応永〜永享の頃(1400年代)と推定されています。その後幾多の変遷を経て、江戸期には幕府・旗本領となったため江戸崎城は廃城となります。城跡は、江戸崎小学校に近接した高台となります。霞ヶ浦を中心とした水運の拠点として栄えた歴史は、小野川へと続く水路に沿って開かれた町場の立地によってわずかに感じることができるのみのようです。水運が衰退後は稲敷郡を中心とした地域の中心として都市基盤を維持し続けます。市街地を歩きますと、アーケードが設置された比較的密度の高い佇まいに、町場としての奥行きと歴史とを感じます。昔を感じさせる町屋も随所に残されています。

江戸崎の町並み

江戸崎の町並み
(稲敷市江戸崎、2006.10.15撮影)
大正橋

江戸崎・大正橋からの風景
(稲敷市江戸崎、2006.10.15撮影)
江戸崎

江戸崎・台地と低地が広がる景観
(稲敷市江戸崎、2006.10.15撮影)
霞ヶ浦

霞ヶ浦の景観
(稲敷市古渡、2006.10.15撮影)

 江戸崎の町を後にし、小野川方向へ徐々に台地から低地へと下る一帯から水田と緑とが織り成す爽快な風景を楽しみながら、また旧桜川村に入り古渡地区付近から眺める霞ヶ浦の風を感じながら、国道125号線を東へと自動車を走らせます。旧東町のエリアにまで進みますと、利根川も近くなり、広大な水田の中に低地が連続する風景へと変わっていきます。国道51号線に入り、潮来市の市街地を経て北浦にかかる橋を渡り、鹿嶋市域へと入っていきました。

 鹿嶋市は、かつての鹿島町と北隣の旧大野村が1995年9月1日に合併して成立しました。その際、佐賀県に既に鹿島市が存在したことから、「島」の字を「嶋」にして市制施行したことは当時話題になりました。東日本屈指の格式を誇る鹿島神宮の門前町・鹿島を中心としたこの地域は、かつて「陸の孤島」とさえ言われた半農半漁の農村地域でありました。現在でこそ主要な交通動線として機能している東関東自動車道やJR鹿島線などは、高度経済成長期の末期以降に完成したものです(鹿島線1970[昭和45]年8月、東関東自動車道潮来インターチェンジまでの延伸1987[昭和62]年11月)。鹿島地域は、砂丘地域に大規模な掘り込み港を造成するという、鹿島臨海工業地域の大規模開発により大きく変貌を遂げまして、南接する神栖市とともに一大工業地域を形成するに至りました。近年はプロサッカーリーグ「鹿島アントラーズ」のホームタウンとしても知られているところですね。

鹿島神宮楼門

鹿島神宮・楼門
(鹿嶋市宮中、2006.10.15撮影)
御手洗池

鹿島神宮・御手洗池
(鹿嶋市宮中、2006.10.15撮影)
鹿島神宮社叢

鹿島神宮・社叢
(鹿嶋市宮中、2006.10.15撮影)
市街地俯瞰

鹿嶋市街地俯瞰
(鹿嶋市宮中、2006.10.15撮影)
 
 常陸一ノ宮・鹿島神宮は古来より多くの信仰を受ける、東国の大社です。歩道がきれいに整えられた門前町の景観を一瞥しながら、大鳥居をくぐり、朱塗りの楼門の下を歩みます。参道を覆うような木々はたいへんにみずみずしくて、実に快い気持ちになります。鹿島神宮の杜は「鹿島神宮樹叢(じゅそう)」として茨城県指定の天然記念物となっています。県教育委員会による解説を以下に示します。


 神宮境内に繁茂する草木で、神宮の長い歴史とともに生育してきたため巨樹名木が多く、県内随一の常緑照葉樹林である。約800種の植物が生育し、とくに暖地性の植物が多く見られる。
 樹叢は、高木層はモミ・スギ・シイ・タブノキ・クスノキ・カシ類など、低木層はヒサカキ・モチノキ・シロダモ・モッコク・アオキ・アリドウシなど、草本層はヤブミョウガ・オカメザサ・シダ類などである。


 幾星霜のときを超えて受け継がれてきたという木々たちの、いのちの輝きのような緑のもと、その光を穏やかにかえす参道を進みました。右手に鎮座する五間三面入母屋造の拝殿と三軒社流造の本殿、参道をさらに進み現れる奥の宮、神秘的な青の水鏡に足元を濡らす鳥居が深閑さを引き立たせている潔斎の地・御手洗池とめぐりながら、その雰囲気にどっぷりと浸かるようでした。奥の宮の先を右手に進むと現れる、最初の社殿が営まれた跡とも伝えられる「要石(かなめいし)」は、直径20センチメートルほどの丸石です。地面に見えない部分の大きさはかなり大きいといわれ、地震を起こす鯰を押さえているとの伝説もあるのだそうです。異世界のような、それでいて清冽な泉のごときしなやかさに溢れた樹叢は、神宮の歴史とともに古代へ思いを抱かせるとともに、心をゆったりと解きほぐすような、温もりと鮮やかさとに彩られているように感じられました。

 北浦を越えてきたJR鹿島線や国道51号線は、大きくカーブを描いて鹿島神宮の杜の北へ南へと滑り込んでいきます。高架線として建設され、敷設の年代が新しいことを如実に示している鹿島線の北、高台となる新興住宅地から、鹿島神宮の杜と現代の鹿島の市街地とを俯瞰しました。手前には国道51号線のパイパスも走っていまして、中低層の建物群も林立する様相の市街地は、鹿島神宮の杜を囲むように広がって、現代的な都市景観を形成しています。もし何も事情を知らない人がこの光景の写真を見たとしても、あるいはこの森の下に鹿島神宮のような由緒を持つ建造物があろうとは想像できないかもしれません。由緒ある歴史を誇る神宮の門前町としてひそやかに暮らしてきた農村地域は、高度経済成長の活力をたっぷりと注入されて見違えるような工業地域と市街地とを有するまちへと変貌を遂げました。そのダイナミックな、低成長時代にもがく地域が多い中にあって奇跡ともいえるような成長を見せた地域へのリスペクトも踏まえて、都市基盤を整えた鹿島だからこそ、そして多様な豊かさを再評価する機運が高まっている現代こそ、今一度原点に立ち返って、昔を顧みる雰囲気が「もっと」あってもよいのかな、とも感じるのでした。

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