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関東の諸都市・地域を歩く


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#25 鹿沼の町並み 〜“日光大権現”への入口〜

 栃木県や茨城県の北部へ向かうとき、国道293号線をしばしば利用しています。起点の足利を出て北東へ、丘陵地や田園地帯をゆったりと進む国道が、最初に出会う大きな市街地、それが鹿沼です。国道の両側に広がる市街地の密度は人口規模以上のように感じられ、一度機会を作ってしっかりと歩いてみたいと、ここを通過するたびに考えていました。2006年9月30日、鹿沼市役所の駐車場に自家用車を駐車して、市街地をめぐるフィールドワークをスタートさせました。市役所の西にある御殿山公園は鹿沼城のあった場所で、現在は野球場などとして利用されています。これまでお話してきた栃木県内の他の地域における城跡と同じように、この鹿沼城も戦国期に一帯に割拠した豪族・鹿沼氏の勢力下にありました。その後幾度か勢力が入れ替わった後、1590(天正18)年の小田原落城とともに、北条方についていた鹿沼上は完全に破られ、以降鹿沼は城下町としてではない道を歩むこととなります。

 市役所の東に接して、鹿沼の町の氏神として崇敬を集める今宮神社があります。創建は782(延暦元)年と伝えられ、大同年間(806〜810)に日光二荒山神社の祭神三座を勧請したとされる由緒を持ちます。その後地域の総鎮守となり、天文年間(1532〜1555)に当時の鹿沼城主壬生氏が鹿沼城を造営する際に城の鎮護として現在地に移し、今宮大権現と称したといわれます。江戸期以降は今宮神社の祭礼の付祭として屋台の繰り込み、引き回しが盛んになり、現在でも鹿沼の秋を盛り上げています。今宮神社の鳥居前の参道を進み、国道293号線となっているメインストリートに出ますと、中低層の現代のビルディングにまぎれながらも、昔ながらの土蔵や町屋がたくさん軒を連ねていまして、鹿沼の町をいっそう奥深い景観へとアレンジしています。市街地に接して、「屋台のまち中央公園」が整備されていまして、市街地の歴史的な資産を展示、保存しています。今宮町の松華園、上材木町の村山晃南荘と並ぶ鹿沼の三名園のひとつとして知られる庭園・掬翠園(きくすいえん)や、常設展示される彫刻屋台3台などが見所で、物産の販売や観光情報を発信する施設も併設されています。緑豊かな掬翠園を歩きますと、背の高い木々に囲まれてここが市街地の中であることを忘れてしまいそうです。

御殿山公園

御殿山公園から市街地を望む
(鹿沼市今宮町、2006.9.30撮影)
今宮神社

今宮神社
(鹿沼市今宮町、2006.9.30撮影)
掬翠園

掬翠園
(鹿沼市銀座一丁目、2006.9.30撮影)
市街地

鹿沼市街地の景観
(鹿沼市仲町、2006.9.30撮影)
屋台

仲町の屋台(仲町屋台会館内)
(鹿沼市仲町、2006.9.30撮影)
仲町屋台会館

仲町屋台会館
(鹿沼市仲町、2006.9.30撮影)

 再び国道に戻り、昔語りの美しい町並みを南へ進みます。程なくしてポケットパークのようにしつらえられたスペース「仲町屋台公園」に行き着きます。公園には仲町地区の白木の屋台を収蔵・展示する町屋風の建物があり、身近に屋台を見ることができるようになっていました。保管されている屋台の彫刻は実に見事で、細やかで流れるような曲線が複雑に施されたそれは本当に美の極致を見るようです。ここには日光山の建造物に施されたように華麗な彫刻技術の影響が見て取れると、施設内の説明表示が語っていました。そして、その高い技術を要する屋台の存在は、とりもなおさず江戸期における鹿沼の町の規模と繁栄がどのようなものであったかをも示しているといえるのでしょう。鹿沼ではこのような豪華な屋台が町ごとにつくられていまして、その数は38台にもなります(うち江戸期から承継されているものは13台)。

 鹿沼は城下町としての道を進まなかったと先にご紹介しました。鹿沼は江戸期以降、京都の朝廷の勅使が家康の命日に日光東照宮を参詣する際に通行した「日光例幣使道」の宿場町として栄えました。街道は鹿沼宿の南北で二手に分かれます。西側の街道は現在の国道で、その街道筋は「内町」、また東側の街道筋は「田町」と呼ばれていたのだそうです。「田町」は現在でも「上田町」「中田町」「下田町」として住所地名に見えます。国道(かつての内町)を南へ進みます。近年歩道が大幅に改良され、街中散策がしやすく、すっきりとした景観へ整えられました。東武線の新鹿沼駅もある鳥居跡町で、ふたつの街道筋は合流します。合流点は新鹿沼駅への通りの交差点と一体化しています。


石橋町交差点付近

石橋町交差点付近、整備された歩道
(鹿沼市仲町、2006.9.30撮影)
鳥居跡町

鳥居跡町・街道の分岐点(中央は二荒山神社)
(鹿沼市鳥居跡町、2006.9.30撮影)
田町

田町の景観
(鹿沼市下田町一丁目、2006.9.30撮影)
木島堀

木島堀
(鹿沼市睦町付近、2006.9.30撮影)
文化活動交流館

文化活動交流館
(鹿沼市睦町、2006.9.30撮影)
黒川

黒川(府中橋より下流方向)
(鹿沼市朝日町/府中町、2006.9.30撮影)

 
鳥居跡町は「とりいどちょう」と読みます。地名の字のとおり、鎌倉時代、この場所に日光山の遠鳥居が建てられたという伝承があるのだそうです。それより昔、奈良時代に勝道上人が日光開山した後、この地に「えのき」の木を4本植えたと伝えられ、そのえのきの木であるかどうかは定かではないものの、実際に鳥居跡にはえのきの木が戦後間もなくまで残っていたのだそうです。そのえのきの跡に、1957(昭和32)年日光二荒山神社から御神体を迎え、二荒山神社が祀られました。この小さなお社は、二股に分かれた街道の内側に鎮座して、鹿沼の町を見守っていくこととなるのでしょうか。傍らには「旧一の鳥居跡」と刻まれた碑が建てられていました。現在の国道のルートは江戸期に日光への参詣道が整備され、鹿沼が宿場町として生まれ変わる際、造成された新道であるとのことです。ここに鹿沼の市街地が形成され、現在へとつながる礎となったわけですね。内町、田町両街道筋は互いにしのぎを削り、町を守り立てていきました。そうした気質が、贅を尽くした屋台の発展に結実したとあるいはいえるのかもしれません。

 鳥居跡からは、田町の街道筋を北へ向かいました。こちらも国道同様中心部に近いエリアでは歩道整備も進められていまして、穏やかな景観となっています。また国道沿いと比して空間的に余裕があるためか、戸建ての住宅地などの開発も認められまして、市街地としての色彩が濃厚な国道沿線よりも開放的な町並みとなっていました。JR鹿沼駅へ突き当たる東西の国道ルートに突き当たり、東へ進み黒川河川敷方向へと向かいます。鹿沼宿の東を流れ、周辺の農村地帯を潤したという木島堀の美しい佇まいの中を歩いていきますと、堀はそのまま「せせらぎ公園」へと姿を変えていきます。緑に溢れた公園周辺は、川上澄夫美術館や文化活動交流館などが集まった文教エリアとなっています。一部近代期の石積の倉庫を活用した施設もあるようで、現代的なオープンスペースながら、歴史的な雰囲気もまた感じることのできる和やかなスポットであるように感じられました。

 ゆったりと水を運ぶ黒川の堤防に出て、鹿沼の町と寄り添いながら歩き、鹿沼の市街地を眺めました。近年は一大中心都市である県都・宇都宮とも結びつきを強め、経済地理学的にはその勢力圏にあると目される鹿沼の町は、やはりそれだけの町ではありませんでした。国道を通過しながらその並々ならぬ町並みに驚かされてきた経験は、実際に町を歩くことによって実体験として目の前に展開していきました。古きよき町並み、現代的にアレンジされた街路や公園、何より日光と深く結びつきながら歩んできた歴史を濃厚に溶け込ませた地域性。どれをとっても凄みのある鹿沼の財産であるように思われました。

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