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関東の諸都市・地域を歩く


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#132 越谷市街地とその周辺を歩く ~市街化した田園地域の現在~

 2017年7月2日、東武スカイツリーライン・越谷駅周辺を歩きました。越谷駅周辺は再開発施設である「越谷ツインシティ」を中心に大小多くのビルによって充填されていまして、この町の原点である、日光街道越ヶ谷宿を繁栄した旧市街地(県道52号に沿ったエリア)を目立たないものにしていました。元荒川を渡った大沢地区とともに形成される歴史的な町並みについては、以前に本稿でも触れています。その文章にも登場する歩道橋は既に撤去されていたようでした。駅前からの大通りを進んだ先には、市役所と中央市民会館とが隣り合って、元荒川と葛西用水とが併走する水辺に屹立していました。その元荒川と葛西用水との間に設けられた「葛西親水緑道」を川下に向かって歩きます。

越谷駅前

東武越谷駅前
(越谷市弥生町、2017.7.2撮影)
交差点

県道49号の交差点
(越谷市越ヶ谷二丁目、2017.7.2撮影)
越谷市役所と元荒川

越谷市役所と元荒川
(越谷市東越谷一丁目、2017.7.2撮影)
中央市民会館

逆川越しに中央市民会館を望む
(越谷市越ヶ谷四丁目、2017.7.2撮影)
葛西親水緑道

葛西親水緑道
(越谷市瓦曽根一丁目、2017.7.2撮影)
元荒川遊歩道

元荒川沿いの歩道、アジサイが咲く
(越谷市相模町七丁目、2017.7.2撮影)

 埼玉県東部を歩きますと、今回紹介している「元荒川」や「古利根川」など、大河川のかつての流路であることを示す河川にしばしば出会います。それらは江戸の治水対策や水上交通網の確立などを目的とした、利根川水系の大規模な付け替え工事(利根川東遷事業)の名残です。東京湾に流入していた利根川を現在の銚子へ流出させる流れへと変えていった土木工事は多くの過程を経ていまして、それらを体系的に整理することは、年表を一読していてもなかなか難しい作業であるように思います。さらに、元荒川と越谷市街地近くでは隣り合う「葛西用水」は、この河川改修とは別に、一帯の灌漑のために江戸時代中期に完成した用水路のひとつで、このような水路も埼玉県内には他にも多く存在しています。このような河川や用水路がたくさん張り巡らされた地勢は、江戸の外縁部である埼玉県の地域性を象徴するとともに、その豊かな環境の源泉の一つであるようにも感じられます。右手には親水公園然とした修景が目に爽やかな葛西用水(逆川とも呼ばれます)を、左手には現代の町並みに寄り添うように佇む元荒川を眺めながら、その間を続く散策路を歩きました。

 しらこばと橋の東側には水門があり、その西側の水面は江戸時代初期に周辺の灌漑のためにつくられた溜池である「瓦曽根溜井」を反映したものです。葛西用水路はここから南へ分流していきます。堤防上を続く遊歩道からは、市街化した風景の中に畑地も点在していまして、自然堤防上に展開した集落と畑地とが点在する地域の原風景の今を実感しました。往時の河畔林を彷彿とさせる木立の下を過ぎますと、歩道沿いにアジサイが連続して植栽されていて、仲夏の情趣を感じさせました。大相模の不動様として知られる大聖寺の壮大な山門をくぐり境内へ。750(天平勝宝2)年の創建と伝えられる古刹は、越谷市内でも最古の寺とも目されていまして、長い時間を経た参道や樹齢500年のタブノキの超然たる佇まいは、現在まで篤い信仰を集める寺院の深秘そのものであるようでした。

大聖寺山門

大聖寺山門
(越谷市相模町六丁目、2017.7.2撮影)
大聖寺

大聖寺
(越谷市相模町六丁目、2017.7.2撮影)
大聖寺境内のタブノキ

大聖寺境内のタブノキ
(越谷市相模町六丁目、2017.7.2撮影)
御嶽神社

御嶽神社
(越谷市増森、2017.7.2撮影)
新方川と東埼玉資源環境組合第一工場

新方川と東埼玉資源環境組合第一工場
(越谷市増森、2017.7.2撮影)
たんぼアートと市街地俯瞰

たんぼアートと市街地を俯瞰
(越谷市増林三丁目、2017.7.2撮影)

 欄干が石塔をもした意匠の不動橋を渡り、元荒川の左岸をさらに下流へ向かいます。市立東中学校と越谷東高校の北側を通り、元荒川の自然堤防上の微高地を離れて北へさらに進みますと、後背地に広がる水田地帯へと周辺の風景が移り変わっていきます。この辺りは明治期の地勢図を確認しても一面の田園地帯でして、今も昔も田として利用されてきた場所であることが分かります。田んぼは稲を栽培する耕作地であるとともに、洪水時には遊水を保持する機能も併せ持つことでも知られます。そうした側面と、そもそも低湿地起源であることから開発には適さないという地勢上の要因も考慮されなければなりません。美田として田植えも終わって鮮やかな緑を呈する景色の中を歩き、御嶽神社のこぢんまりとした杜の横を通過しながら、新方川のほとりに建設された東埼玉資源環境組合第一工場へ。施設に設けられた展望台からは、水田に複数の品種の稲を植えて大きなアート作品を描き出す「田んぼアート」を眺望することができました。エメラルドグリーンにきらめく稲田の向こうには、現代都市として成長する越谷市街地から都心、新宿などの副都心方面、さらには富士山やさいたま新都心までをも見通すこともできました。

 水田地帯を貫流し排水路としての役割を持つ新方川沿いを歩きます。水田として利用される地域を一瞥した後は、新方川を再び渡って、現代的な住宅地として整えられている花田地区へと歩を進めました。これまで歩いてきた場所とは異なり、花田地区から南の東越谷地区までが住宅地域となっている背景には、越谷駅に近いということの他に、この辺りはかつて元荒川が大きく蛇行していて(河川改修により現在の流路となっています)、旧河道に付随して発達していた自然堤防由来の微高地を少なからず包含する土地であったことも影響しているように考えられます。日本庭園として穏やかな景観が整えられた花田苑と隣接するこしがや能楽堂は、現在の町並みと古き良き伝統的な美観とをしなやかに調和させているように目に映りました。



都心方面を望む
(越谷市増林三丁目、2017.7.2撮影)
さいたま新都心方面

さいたま新都心方面を望む
(越谷市増林三丁目、2017.7.2撮影)
花田苑

花田苑
(越谷市花田六丁目、2017.7.2撮影)
葛西用水(逆川)沿いの景観

葛西用水(逆川)沿いの景観
(越谷市東大沢付近、2017.7.2撮影)
越ヶ谷御殿跡

越ヶ谷御殿跡
(越谷市御殿町、2017.7.2撮影)
旧越ヶ谷宿の町並み

旧越ヶ谷宿の町並み
(越谷市越ヶ谷二丁目、2017.7.2撮影)

 その後は新方川沿いから逆川(葛西用水)沿いを、市街となった地域を概観しながら歩きました。越谷の鎮守である久伊豆神社を参詣し、1604(慶長9)年に徳川家康によって設けられた越ヶ谷御殿跡の史跡を訪ねた後、越ヶ谷宿を礎とする市街地へと抜けて、越谷駅前へと戻りました。元来元荒川は武蔵国と下総国との国境で、藩政期に東岸が武蔵の範囲に含まれるようになった歴史があります。また、元荒川東岸を村域としていた旧増林村が越谷を中心とする越谷町に合流したのは1954(昭和29)年のことで、これらの地域が長らく越谷の町場とは地勢上も識別された、農村地域であったことをそのことは物語っているようにも思われます。その後程なくして越谷町は1958(昭和33)年に市へと移行し、その後は首都圏のベッドタウンとして急速な人口増をみました。旧街道筋の市街地が郊外化を背景に一気に都市化し、周囲の農村地域を住宅地域へと大きく変えていった過程をそのまま辿るような、越谷訪問であるように感じられました。


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