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HIROSHIMA REVIEW

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#4 比治山・皆実町界隈 〜水の都広島を感じて〜

広島は、7つの川の流れる町、水の都とも呼ばれているようです。戦後の河川改修に伴う太田川放水路の完成により、現在では6つの川になっています。東から、猿猴(えんこう)川、京橋(きょうばし)川、元安(もとやす)川、太田川(本川)、天満(てんま)川、そして福島川と山手川の流路を改修して生まれた太田川放水路となります。太田川のつくるデルタは豊かな水辺に溢れ、緑に溢れ、現代の都市空間にみずみずしさを与えてくれているようです。広島には川を望むたくさんのスポットがあります。今回は京橋川の流れに寄り添いながら、皆実町から比治山にかけてのエリアを散策してみます。

市中心部の繁華街の中心の1つ、紙屋町から分岐する宇品線は、広島城の異名“鯉城(りじょう)”からとった鯉城通りを南へ進み、市役所や中区役所、そして市街地における新たなランドマークとなったNTTドコモ中国ビルなどのビル群の間を抜け、鷹野橋の変則的な交差点を南東に進んでいきます。広島大学のキャンパスの跡地に作られた東千田公園の西を通過、市電は京橋川にかかる御幸(みゆき)橋に差し掛かります。橋の東詰の先、皆実町六丁目電停で比治山線を合流します。的場町から比治山下を経て皆実町六丁目に至る皆実線(比治山線)の開業は1944(昭和19)年で、御幸橋での徒歩連絡時代も含めた宇品線の開業は1915(大正4)年。広島駅と市の繁華街、そして港を結ぶという動線が重要な地域を占めていたことを物語っているように思います。御幸橋も、その大動脈上にあって、今日まで多くの人々や車両を連絡してきました。その架橋の歴史も古く、宇品築港に合わせ、1885(明治18)年に既に木桁橋として架けられていました。1919(大正9)年に軌道専用橋を併設して市電宇品線が全通した後、1931(昭和6)年に、近代的なRC桁、ゲルバー式橋に架け替えられ、道路中央を市電が通過するスタイルになりました。「御幸橋」の名は、橋ができた1885年に明治天皇が御巡幸になったということで名づけられました。御幸橋は、日清戦争以来第二次世界大戦終了まで多くの兵士らがこの橋を渡り、また1945(昭和20)年8月6日のあの日も、多くの避難する市民の姿を目にしました。1990(平成2)年に三度架け替えが行われました。

現代の御幸橋は、京橋川を軽やかに跨ぎながら、日々たくさんの人々、市電、そして車両を迎え入れています。両岸の緑、水面のたおやかさ、そしてそれらのバックに広がる高層建築物群の並ぶ景観は穏やかな青空の下たいへんくっきりとした輪郭を描いておりまして、実に爽快なシーンです。南に目を向けますと、市街地のアウトラインにくっつくように安芸小富士が眺められます。その自然な佇まいは、小富士と市街地との間に海が存在しているという事実を忘れさせてしまうほどです。北側は、比治山を介して中国山地に連なる山々がやはり美しい稜線を描いています。穏やかな水面、緑、市街地景観がこれほどまでに絶妙に結びつき、絵になる橋は広島市内といえでもそうないのではないかとさえ思ってしまいます。東詰は、「南」を佳字の「皆実」に書き換えたことが始まりとされる皆実町の町並みが展開します。皆実町交差点から眺める商店街は、宇品から続く庶民的な顔を色濃く感じます。先に広島大学が移転したことをご紹介しました。広島大学に至近であることもあり、大学の移転前は多くの学生たちがこの庶民の街で暮らしていたそうです。

御幸橋より、南方向

御幸橋より安芸小富士などを眺める
(中区/南区境界、2005.2.11撮影)

御幸橋、西方向

御幸橋、西方向
(中区/南区境界、2005.2.11撮影)

御幸橋、西詰より

御幸橋、西詰より
(中区東千田町二丁目、2005.2.11撮影)
御幸橋より北東方向

御幸橋より北東方向を眺める
(中区/南区境界、2005.2.11撮影)

皆実町交差点、南方向

皆実町交差点、南方向
(南区皆実町五/六丁目、2005.2.11撮影)
皆実町六丁目電停(皆実線)

皆実町六丁目電停(皆実線)
(南区皆実町二/三丁目、2005.2.11撮影)

皆実線電停から再び市電に乗車し、比治山下へと向かいます。比治山は、広島の市街地の東にある標高70メートルほどの丘陵です。古く縄文時代頃までは広島湾に浮かぶ島であったであろうとされています。市街地に近接し、広域中心都市・広島のまちを一望の下に見渡せるスポットです。広島市現代美術館もあり、都市公園として整備されていることから、市民の憩いの場としても親しまれる山となっているようです。比治山下電停で市電を下車しますと、北側は下に掲載した写真のとおり、目の前にまで高層住宅やオフィスビルなどが迫る景観となっており、一大ターミナルたる広島駅に至近なエリアにおける都市化の目覚しさを実感させます。ここより南、比治山橋電停付近までは比治山の丘陵が京橋川に迫る立地になりますので、京橋川沿岸の緑も美しいエリアとなっているのとは対照的です。比治山公園への入口の道路を入り、程なくしますと多門院の結構が目に入ってきます。毛利氏の広島開府とともに吉田(現在の安芸高田市吉田)の郡山城下から新庄の三滝山麓に移り、福島氏の時代に現在地に再遷したものです。付近には広島ゆかりの頼山陽文徳殿もあるようです。美術館の入口前を通り、さらに歩きますと、展望台につきます。ここから眺望する広島の町は、まさに光り輝く、水と緑に抱かれた、大都市でありました。

比治山下電停より、北方向

比治山下電停より、北方向
(南区比治山公園、2005.2.11撮影)

比治山公園展望台より都心方向

比治山公園展望台より都心方向
(南区比治山公園、2005.2.11撮影)

比治山公園展望台より南西方向

比治山公園展望台より南西方向
(南区比治山公園、2005.2.11撮影)
鶴見橋より北方向

鶴見橋より北方向
(南区/中区境界、2005.2.11撮影)

眼下には、びっしりと充填された建物群に隠されながらも、それらの間をゆったりと流れる京橋川の流れがクリアに認められます。南には、御幸橋からも眺めた安芸小富士、そして宮島のごつごつとした稜線もきれいに眺められます。たくさんの、ほんとうにたくさんの建築物に彩られ、周囲の穏やかなかたちの山々に囲まれる広島の町は、本当に美しく、しばし展望台からそれを眺めていました。広島の町はこの中心市街地に留まらず、郊外地域へも広く展開し、住宅地域を押し広げて、広域にわたって大都市圏を形成するまでに至りました。ここまでの道のりには、広島に関わる多くの人々のご尽力があったのでしょう。

都心方向に目を向け、周囲よりも一際高い高層ビル群が林立する様子に目を奪われる一方で、平和を希求する広島の象徴たる世界遺産を確認できないことに気がつきました。建物の高さや数を考えますと、それは無理も無いことです。ふと、考えました。おそらく、戦後間もなくからかなりの期間、ここ比治山からも眺めることができたはずではないか、と。いつ頃から、見えなくなってしまったんだろうか。今年2005年は終戦から60年目にあたります。比治山からの眺望の変化は、そのままその年月の経過を暗に示しているのではないかと思えました。私たちは、いかにして、広島の思いを受け止め、伝えるべきなのでしょうか。

比治山を下り、鶴見橋をわたり、広島市街地のフィールドワークは平和大通りへと進みます。鶴見橋から眺める京橋川の姿もたいへんさわやかで、鮮やかな色彩に包まれるものでした。次項により、60年間の広島について、考えをまとめる機会を持ちたいと思います。

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